花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

続 「義経記」   (抄文・抄訳)

2005-08-22 | Weblog
   
   ▲前編▲

 [第三巻]

■{弁慶の父親・誕生} 諸説あり 御伽草子の『橋弁慶』では、実在の第21代熊野別当「湛増」としています。
生年出生地は未詳 『平家物語』では(湛増は、平家・源氏の何れに味方するか迷った末に、熊野権現の神前で赤鶏七羽と白鶏七羽の闘鶏を行い、赤鶏は一羽も勝たず皆逃げ出したので、源氏に味方する事にした)と有ります。

■{義経・弁慶の決闘} 弁慶思うに 「人の重宝は千揃えて持つもの」買ひても持たず夜に入り人の太刀を取り歩く。
六月十七日の夜 弁慶が五条天神を南に下ると妙な笛の音と共に、立派な黄金造りの太刀を帯びた若者に出会います。「太刀をこちらへ差し出して通れ」と言うと、義経は「欲しければ寄って取れ」 弁慶が大太刀で飛び掛りますが、義経は稲妻のように左脇に避け相手の胸を強かに踏みつけたので、太刀を落としてしまいました。
義経は其の太刀を拾い九尺の築地に飛び上がりました。弁慶は義経が土塀から降りるところを、駆け寄り斬りつけますが地に足を下ろさず、空中を引き返して土塀の上にユラリ飛戻り、弁慶は空しく引き返したのでした。

■{弁慶 義経に臣従の誓い} 翌六月十八日 夜更けて清水坂に昨夜の笛の音が聞こえてきます。弁慶は再度襲い掛かりますが失敗します。
其夜 清水寺御堂内に義経を見つけた弁慶は三度目の強請りをします。二人は外に出て斬合いとなり人々は大騒ぎになりました。弁慶が打ち損じた所を、義経は刀の背で強かに打ち据えました。流石に弁慶も降参し臣従を誓うのでした。
その後 義経は東山道から途中「義仲」にも会って奥州に向いました。奥州の義経はやがて二十四歳なりました。

■{頼朝謀反} 治承四年(1180)伊豆の兵衛佐殿謀反を起こす。真鶴ヶ崎より舟にて三浦を指すも風激しく安房の国洲ノ崎に上陸。やがて和田義盛・佐原義連の勢三百余人、丸太郎・安西太夫の五百余騎、上総の豪族達一千余騎が参陣、更に上総介
広常や千葉介常胤三千余騎が源氏勢に加わりました。
又 伊豆・常陸・上野・武蔵の豪族、武蔵党の丹・横山・猪股も集まり、市川では
十九万騎を数えました。
隅田川では水嵩が溢れ、対岸で待ち構えた江戸重長の勢に浮橋の組上げを命じ、千葉介常胤の助けを借りて総勢は隅田川を渡り小板橋に着いたのでした。

■{義経奥州を出立} 頼朝のこと奥州にも聞こゆ。秀衡は「兵衛佐殿こそ平家を攻めて都に上る御方。御曹司追着き奉りて一方の大将軍をも望まばやと存じ候」とて三百余騎をつけ、武蔵坊・常陸坊・伊勢義盛・佐藤継信・忠信兄弟が従い全速力で出立いたしました。

             (第四巻以降は後日に續きます)
   
  
 写真:源氏の家紋は笹竜胆。オヤマリンドウが相応しい・・(中澤久氏 撮影)