花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

藤沢宿一帯を訪ねて

2008-09-23 | 鎌倉の四季
                   【東海道五十三次 安藤広重】

藤沢は通過こそすれ、駅に降り立つのは初めてでした。此処に住む人たちも鎌倉との境界など意識していないのではないかと思ってしまうほど、電車もバスも相互乗り入れですし・・歴史を辿ってみても京から鎌倉へは通過点だったはずです。
藤沢宿とは現在遺跡のみのものや、道標や、立て札・・・しかし一番は立派な神社や寺院が現存し、多くの信仰を集めている事だと思います。

【江ノ島道標】
杉山檢校(江戸前期の鍼医で、管鍼術を発明しその振興教育に尽しました)は、江ノ島の弁才天を厚く信仰していたので、江ノ島に参詣する人の道しるべに寄進しました。
当初48基立てられたといい、現在13基残っています。
     

【常光寺】
藤沢では最も古い寺院に入ります。境内は広く寺林は8.900平方メートルで旧宿場町の名残を残す天然記念物の樹木が何種類かあるそうです。
         

《野口米次郎の墓》 
 明治8年生まれ。単身渡米新聞記者となり、後英国に渡る。
 日露戦争のため帰国、兄が住職を勤める当寺や鎌倉円覚寺に住まう。
 慶応大学で教鞭をとり、日本の文化・文明を世界に紹介した。昭和22年疎開先 の茨城県で没 す。

子息イサム・ノグチに依って お墓が建立されました。
    

【義経首洗井戸】
平家滅亡に大きな功績をあげた源義経でしたが、兄源頼朝との対立で奥州平泉に逃れました。1189年頼朝の力を恐れた藤原泰衡は、義経を衣川で自刃させます。平泉から鎌倉に送られた義経の首は首実験の後、片瀬の浜に撃ち捨てられ潮にのって境川を遡り、白旗神社付近に漂着します。里人が掬い上げてこの井戸で清めたと伝えられています。
      

【白旗神社】
この神社は古くは寒川神社と呼ばれていました。
1189年閏4月平泉の衣川館(やかた)に於いて自害した義経の首は、奥州より新田冠者高平が使いとして鎌倉に送られました。そこで和田義盛、梶原景時によっって首実検が行われ、頼朝に伝えると白旗神社として祀るよう指示。義経公を御祭神として、白旗神社と呼ばれるようになりました。
     

【藤沢山無量光院清浄光寺】【時宗総本山 游行寺(ゆぎょうじ)】
トウタクサンムリョウコウイン ショウジョウコウジ が公式の寺名ですが、広く一般に游行寺と呼ばれています。

700余年前「一遍上人」は《南無阿弥陀仏》のお札をくばり、踊念仏を始めて日本中を歩いて修行されました。
1325年四代目の「呑海上人」により藤沢の地にお寺を創建します。室町時代になると幕府や鎌倉公方の保護を得るに至りました。
このようにして藤沢は游行寺の門前町として発展しました。 
 

【游行寺本堂】


お昼前から大降りの雨になり、撮影も侭成らないほどでした。
立派な冠木門(カブキモン)から入り、素晴らしい建物が沢山あるのですが、広大な地域のため美しい庭園を歩くのがヤットの時もありました。
宝物館には国宝もあり多くの寺宝があります。年中行事も毎週のようにあり、現在秋季開山忌(21~24日)にあたり、踊念仏の日はことに華やかだとか・・。
関東一の広大さ!と聞いて、今まで知らずに居たことを恥じる想いもありました。