花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

ローマ亡き後の地中海世界 上

2009-02-20 | Weblog
【本誌表紙  ローマ時代の遺跡の向こうに広がる夏の地中海(北アフリカ:リビアのレプティス・マーニャ)】


2007年のこの季節 「ローマ人の物語第XV卷 ローマ世界の終焉」を胸に留めてより2年、塩野七生氏はその後を書き進めてくださいました。あの完膚無きまでに打のめされて・・立ち直るには長い年月が・・それは1000年にも及んだのですから。



その1000年を476年に滅亡した西ローマ帝国を奪還して、ビザンチン帝国の名で定着しつつあった東ローマ帝国が、イタリア半島をゲルマン民族とまだら模様に支配する時代になっていました。

570年にアラビア半島のメッカでマホメッド誕生。布教開始が613年 死は632年 その20年の間にアラビア半島の半ばをイスラム化し、その後継者も「右手に剣、左手にコーラン」と破竹の勢いで7、8世紀には広大なアラブ諸国から北アフリカまでの全てを、そしてジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島までも征服するのです。

イスラム教のジハード(聖戦)とは、他宗教を駆逐するその一言に尽きたのです。
陸路の次には目の前に広がる海から、海賊となって先ずシチリアに目をつけたのです。人の多く集まる教会や修道院を襲うや一度に800人もの人々を拉致して奴隷にしたのです。豊かな穀倉地だった北アフリカを再び実らすよりも、海賊となってキリスト教国を略奪し食料を 金品を そして奴隷を手にする早道を選ぶのです。船の漕ぎ手を増やす事が良い循環を作ってゆくのです。
やがてイタリアの南端から、中腹からと海沿いにフランスの沿岸、地中海の島々とあらゆる所を略奪し尽くそうとしたのです。



イタリア側はこの暴風に手をこまねいていたわけではありません。物見の「サラセンの塔」を築き防戦を試みます。現在も多く残っているその風景を。

【ティレニア海をのぞむチェルチオ】
          

【ナポリ】
          

しかしこの監視塔は敵の来襲を見つけても、隠れる、逃げる以上にはなすすべがなかったのです。
敵族は次第に大胆に奥地に入り込むようになって、遂にバチカンを揺るがすほどになってくるのです。キリスト教の大本山バチカンの法王もキリスト教を守るために戦う気構えを持たざるを得なくなってゆくのです。

800年フランク王国のシャルル王は、バチカンの法王レオ三世の呼びかけに答えてローマに入場します。神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられるためでした。
後年「ヨーロッパの誕生」とされる、中世史上のビッグ・イベントであったのです。

キリスト教とイスラム教の対立は大小はあっても、少しの衰えも無くしかしキリスト側も戦いに挑む姿勢は次第に出来つつありました。
十世紀の初頭南イタリアの山中を、40人のノルマンの若き騎士達が訪れていました。聖地パレスティーナ巡礼の帰り、その山中に大天使ミカエルに捧げられた聖堂があったからでした。この地の有力者から「南伊の支配者」を要請されるのです。ノルマンに帰って仲間を連れて戻ってきたのです。新進気鋭の若者たちは南イタリアを征服し、イスラム化していたシチリアを目指すのです。戦いで250人は10人に減っていたにも拘らず・・この新天地に建国する気概で征服に成功したのです! 勢い付くにつれて本国からの支援やイスラム化されたシチリア内のイタリア人の支援があったのでした。

【ノルマンに依る征服前のヨーロッパ】
     
【ノルマンに依る征服後のヨーロッパ】
     

十一世紀に入る頃には、イタリア側からの「聖地奪還」に紆余曲折しながらも十字軍を結成して二世紀の間、地中海を東へと進みイェルサレム攻略に成功するのです。そしてシリア・パレスティーナでの通商基地が次々に築かれていったのです。
イスラム側が後退したかに見えますが、武力よりも通商に向かう、つまりお金での解決が多くなってゆきました。キリスト側は大量に拉致され奴隷になっている人達を解放すると言う大きな目的を持っていました。病院を設立し医師を送り込む、そしてなんと司祭まで常駐する約束ができたのですから。

中世を西ローマ帝国の滅亡からコロンブスのアメリカ大陸発見までとするならば、
この上巻は滅亡の淵からの長い長い苦難の1000年であり、目を覆いたくなる苦難の中のキリスト教の復活を読みとくうちに、信仰の力の偉大さを感じずには書き進む事はできませんでした。

(写真は全て本書からの引用)