長崎 軍艦島(端島)

2014-05-10 13:26:12 | 
いつだったかテレビでこの軍艦島の画像を見たときは衝撃的だった。
2014年4月28日、つまり長崎戦の前の日「軍艦島上陸クルーズ」で
軍艦島に行くことに決まった時はその島が持つ不思議な魅力への好奇心で
心の中はいっぱいになった。

(この画像は解りやすい為お借りしました)




『軍艦島』は長崎県長崎市高島町端島(はしま)の俗称。
戦艦「土佐」に島影が似ていることからそう呼ばれるようになったと言われている。
野母半島の北西、長崎港から約19キロの海上にある、小さな半人工島。
2009年4月より、軍艦島への上陸ができるようになった。




軍艦島へのアクセスは色々あるが今回はこの「軍艦島上陸クルーズ」の
ブラックダイヤモンド号で行くことに。




料金一人 3100円+300円(軍艦島 入場料金)
誓約書(1人に付き 1通)
(内容は上陸の際 傘はダメ、靴のヒールはダメ、飲酒、喫煙の禁止等その他)




船内は予約で満席だった。
軍艦島に行く前に「高島」に寄り軍艦島の建物等の説明を受ける。




高島石炭資料館には当時の写真や




実際に使われていたものが数多く展示されている。



軍艦島が見えた。

今日の天気は雨、風が強い。
心配していたがこの時点で船長から上陸は無理と言われる。
おそらく無理だろうと思っていたので気持ちを切り替える。
安全第一である。




この島は、当初は草木のない水成岩の瀬にすぎなかった。
それを採掘技術の発達とともに、周りを6回にわたって埋め立て
今日の島の形状になったものである。
(現在、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1200m、面積6300㎡)




元々は現在の3分の1ほどの大きさだったという。
真ん中の灯台はあとから建てたものだ。
その当時は24時間灯りが灯されていたため必要なかったという。




手前が桟橋だが今日の波では接岸は無理だ。

最盛期には約5300人もの人々が住み、当時の東京都の9倍もの人口密度に達した。




狭い島で多くの人々が生活するために1916年日本初の
「鉄筋コンクリート造」の高層集合住宅が建設された。




軍艦島(端島)小中学校。
1958(昭和33)年に建設された建物は7階建てで、1階から4階までが小学校。
5階と7階が中学校、6階は講堂、図書館、音楽室。





船は右回りで島の裏側へと回っていく。

1970(昭和45)年には体育館や給食設備が新設され
給食を運ぶ島で唯一のエレベーターまであった。




この島では学校や病院、商店のほか、映画館やパチンコホールなど
娯楽施設もそろっていた。
(病院は1958(昭和33)年に完成)




ところが木々を育てる場所がなかったためPTAなどが協力して
アパートの屋上に土を運び、花や野菜を育てた。
これが日本初の「屋上菜園」だったといわれている。




船は桟橋のあった場所の真裏にきている。

左から8階建てが鉱員社宅    
5階建てが同じく鉱員社宅(地下にパチンコホール)
3階建てが公民館
鉄筋2階建てが映画館(昭和館)




1916(大正5)年に建てられたアパートは日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の
高層アパートといわれている。
内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もあった。




その他にも共同浴場、郵便局や理髪店も設備されていた。





1974年4月に完全に無人島になり2009年の4月までの35年間時を止めた軍艦島。
今回上陸できなかったがもう一度長崎に行く機会があれば
ぜひ上陸したい。
その歴史に触れてみたい。
後ろ髪を引かれる思いで軍艦島を後にした。





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