新しいといえば新しいのでしょうが、
踊り手がイアホンで音楽を聴きながら踊る「無音盆踊り」が登場したという
恐ろしいニュースを目にしました。
もちろん、きっかけは「騒音苦情」とのこと。
何十年も行われていたものだろうに、
ここに来て地域のお祭りへの騒音クレームが
あちこちで相次いでいる模様。
街頭ヴィジョンの音の混じり合いの中に立たされる苦痛さに比べれば、
地域のお祭りの音なんて、その日だけの楽しい響きジャナイカと思うのですが、、
・・・・あ、そうかー、、、
日々の騒音が五月蠅いがゆえに、より静寂を求める方向が強まっているのかしらん?
私はときおり、路上ライヴというものをやらかす側の人間なのですが、
自らが音を出す側に回ってよりいっそう気づくのです。
もともと音が鳴っていないストリートが存在していないことに!
しかもその音響は相当ウルサイのです。音量が大きいからとかではなくて、
とにかく縁も所縁もないサウンドが混じり合っているからなのです。
もちろんそこには広告アナウンスメントも入り込んでくるし、
クルマから発せられるエンジン音やクラクションも混じり込んでます。
そこで立ち話をしようと思えば、相当デカイ声を出している自分に気付きます。
だって本当にまわりがすごくうるさいんですもの。
こんな話をしているわけですが、別に路上ライヴで人の注意を惹こうという好意を
自虐的に否定しているわけではまったくありません。
人間って(猫もだと思いますが)ものすごい選択能力があって、
特定の音を必死で聞こうとしているときはまわりの余計な音が切り捨てられます。
集中力のあるなしといった性格の影響ももちろんありますが、
どうしてもこの人たちが何をいっているのか聞きたい、と思って耳を向けているときに、
後の栄養ドリンクの効能を叫ぶ宣伝文句は耳にはいってきません。
よく聞こえないけど、何唄っているんだろう、聞いてみよう、と一旦スイッチがはいれば、
頭上ヴィジョンから大音量で繰り出されているJ-POPの音もスっと後に下がっていくのです。
通りがかりの人にそう思ってもらえるようにチャレンジしているのが路上ライヴなのです。
それが達成できないうちは、街の雑音・騒音の一部でしかありません。
人だかりが出来たり、苦情が出たり、というときは
着目された証拠ですので、路上ライヴとしては成功という皮肉なことになります。
できるだけ歓迎される地域でやるのが理想ですが、減る一報ですね。
都会だからかなぁと思っていたけれど、
盆踊りの苦情は、あちこちの田舎で生じているわけでして、ええ。
ま、騒音どうこうはまたどうでもいいんですが(また長い前置きだったのか!)
この東海市の無音盆踊り、興味深かったのは、
イヤホンでやらなくちゃならんのかーという点ではなく、
イヤホンでやってみたら意外と面白かったという実際の踊り手さんからの声があったことです。
「踊りに集中できるからよい」
「人によって違う音楽で踊れるからよい」
もちろんワタシの直感的本音は「あ?あほか?それって盆踊りかよ」なのですが(笑)、
実際に楽しんでいる踊り手さんたちの素直な気持ちは
こうなんだなぁと、そういう時代なのだなぁ、と。
盆踊りというものの元の意味とはまったくかけ離れた楽しみ方が始まっているんだなぁと
関心したわけです。
見方を変えれば、より純粋に音楽や踊りを、ハタ目を気にせず楽しむ方法を見出した、とでも
いうべきでしょうか。
みんながみんな仲間と集まることに意義を見出すわけでもないし、
昔から面々と続いてきた空気感を味わいたいわけではないし、
よく考えてみれば、ネット上の音楽を共有したりするような感覚でもあるし。
「それが楽しい」と感じているいることは真実なのです。
400人もの人たちが、実際に楽しい、と感じているのですから。
それをアホらしいと思ってしまう自分こそアホらしいですよね。
それを考えると、廃れ行く江戸囃子を失わないために
江戸囃子を取り入れた新しい音楽を創造しようとしているワタシたちのバンドなんで、
そりゃ見向かれるわけもないご時世なわけですよね。
でもひとりでも面白がってくれる人がいる限り、いや誰もいなくても、
自分たちがそれを楽しいと感じている限りやり続けますともー。
和太鼓の音は遠くまで響くし、すり鉦の音は耳にキンキン残るし、
そりゃウルサイ人にはウルサイでしょうがー
ワクワクする人にはワクワクするんですわい。
一人盆踊りが肌に合うヒトに向かって発信しているわけでは、ぬ!
しかしながら、、、
ワタシは子供のころ、ADHDゆえにオクレ扱いされてしまっていたこともあり、
大勢の輪の中にはいるのは極めて苦手でした。
盆踊りの輪にはいれはいれ、と強制する大人をぶっころしたいと思ったくらい。
それぐらい苦痛だったのです。でもイコール、ダンスが嫌いだったというわけではありません。
みなと同じことができなかったのです。何かにつけて。
そんなワタシでさえ、同じヴァイブスを共有することで得られる快感みたいなものは
次第に身につけることができたのと、そうなったことに歓びを感じているので、
本来一人盆踊りが好きな人なんて本当にいるのかなー?それ病気の一種じゃないかなー?と
思わないこともありません。
強制されずとも、縁と出会いがあれば、人は変わってゆくのです。
今が他を害する可能性絶滅を求める無音の方向性にあるのなら、
それはそれで、それも流れ。もう地域の神様に感謝したりするお祭りではないわけです。
楽しければそれでいい。
高円寺の阿波踊りも、地域の人々の結託があって、あそこまでの規模に盛り上がったわけですが、
ここにきて苦情が増えているといいます。
当日の騒音はもう覚悟の上で引っ越してくると思うのですが(笑)
予想以上に練習の音がうるさいと。
阿波踊りって、あの当日のパフォーマンスのためにみんな1年間必死で稽古してくるわけですよ。
だから当然日常的に音を出す必要があるわけ。
でもそんなこと認識してなかった新しい住民(阿波踊りなんて興味ない方々)から
苦情が来てしまうということらしいです。
これもね、結局あの阿波踊りが地域の人がひとつになるためのお祭りではなくて、
「発表会」になってしまったからだと思いますよ。
あああ、これ別にdisってるわけじゃなくて、それはそれで楽しみ方として王道だと思ってます。
演者さんたちのキラキラ眩しい笑顔と達成感あふれる出で立ち、それを見守る親戚縁者たち。
日々積み重ねて努力してきた賜です、美しいです、ほんとうに。
でも発表会になってしまったので、どうしても観客と演者はまっぷたつですよね。
さらに単なる発表会なので、住んでるからって参加する意義もなし。
商業レベルで利益を得られる人と発表会を楽しみにしている観客のためのパフォーマンス、に
なってしまっているわけです。
そういうことだったら、そりゃ日常生活にいきなりズンドコ聞こえてきたら、うるせーな、になっちまいます。
本音は、ちょっとなんだか寂しいわねー、、、でっすけど(高円寺住民でもないのにスイマセン)
阿波踊りオリジンの徳島に一昨年遊びにいった友人によると
徳島の阿波踊りは観客との境目がほとんどなく、境目を誘発するようなルールもほとんどなく
(唯一の禁止事項は「川に飛び込むな!」だけ・笑)、本当に居合わせた人が
楽しみまくれる環境だったと感動して帰ってきておりました。
外部からの観光客を相当集めているお祭りなのに、そもそもの伝統が残っているのだなぁと
関心したものでしたが、その徳島でも近年は騒音苦情が増えているとのこと。
大きな流れがやっぱりあるのでしょうねー。
土地の神様への想い、
生かされてることへの感謝を表現する、というお祀りゴトが
忘れられなければいいなぁと思うのですが。
まぁそういうわけで、私は、天照大神がうっかりマツリ騒ぎが気になって
岩戸を開けちゃったという本質に迫る活動をしたいわけなんですわ。
さて、今日もいやがらせか!というくらい長く書いてみました。
ピーヒャララ♪
踊り手がイアホンで音楽を聴きながら踊る「無音盆踊り」が登場したという
恐ろしいニュースを目にしました。
もちろん、きっかけは「騒音苦情」とのこと。
何十年も行われていたものだろうに、
ここに来て地域のお祭りへの騒音クレームが
あちこちで相次いでいる模様。
街頭ヴィジョンの音の混じり合いの中に立たされる苦痛さに比べれば、
地域のお祭りの音なんて、その日だけの楽しい響きジャナイカと思うのですが、、
・・・・あ、そうかー、、、
日々の騒音が五月蠅いがゆえに、より静寂を求める方向が強まっているのかしらん?
私はときおり、路上ライヴというものをやらかす側の人間なのですが、
自らが音を出す側に回ってよりいっそう気づくのです。
もともと音が鳴っていないストリートが存在していないことに!
しかもその音響は相当ウルサイのです。音量が大きいからとかではなくて、
とにかく縁も所縁もないサウンドが混じり合っているからなのです。
もちろんそこには広告アナウンスメントも入り込んでくるし、
クルマから発せられるエンジン音やクラクションも混じり込んでます。
そこで立ち話をしようと思えば、相当デカイ声を出している自分に気付きます。
だって本当にまわりがすごくうるさいんですもの。
こんな話をしているわけですが、別に路上ライヴで人の注意を惹こうという好意を
自虐的に否定しているわけではまったくありません。
人間って(猫もだと思いますが)ものすごい選択能力があって、
特定の音を必死で聞こうとしているときはまわりの余計な音が切り捨てられます。
集中力のあるなしといった性格の影響ももちろんありますが、
どうしてもこの人たちが何をいっているのか聞きたい、と思って耳を向けているときに、
後の栄養ドリンクの効能を叫ぶ宣伝文句は耳にはいってきません。
よく聞こえないけど、何唄っているんだろう、聞いてみよう、と一旦スイッチがはいれば、
頭上ヴィジョンから大音量で繰り出されているJ-POPの音もスっと後に下がっていくのです。
通りがかりの人にそう思ってもらえるようにチャレンジしているのが路上ライヴなのです。
それが達成できないうちは、街の雑音・騒音の一部でしかありません。
人だかりが出来たり、苦情が出たり、というときは
着目された証拠ですので、路上ライヴとしては成功という皮肉なことになります。
できるだけ歓迎される地域でやるのが理想ですが、減る一報ですね。
都会だからかなぁと思っていたけれど、
盆踊りの苦情は、あちこちの田舎で生じているわけでして、ええ。
ま、騒音どうこうはまたどうでもいいんですが(また長い前置きだったのか!)
この東海市の無音盆踊り、興味深かったのは、
イヤホンでやらなくちゃならんのかーという点ではなく、
イヤホンでやってみたら意外と面白かったという実際の踊り手さんからの声があったことです。
「踊りに集中できるからよい」
「人によって違う音楽で踊れるからよい」
もちろんワタシの直感的本音は「あ?あほか?それって盆踊りかよ」なのですが(笑)、
実際に楽しんでいる踊り手さんたちの素直な気持ちは
こうなんだなぁと、そういう時代なのだなぁ、と。
盆踊りというものの元の意味とはまったくかけ離れた楽しみ方が始まっているんだなぁと
関心したわけです。
見方を変えれば、より純粋に音楽や踊りを、ハタ目を気にせず楽しむ方法を見出した、とでも
いうべきでしょうか。
みんながみんな仲間と集まることに意義を見出すわけでもないし、
昔から面々と続いてきた空気感を味わいたいわけではないし、
よく考えてみれば、ネット上の音楽を共有したりするような感覚でもあるし。
「それが楽しい」と感じているいることは真実なのです。
400人もの人たちが、実際に楽しい、と感じているのですから。
それをアホらしいと思ってしまう自分こそアホらしいですよね。
それを考えると、廃れ行く江戸囃子を失わないために
江戸囃子を取り入れた新しい音楽を創造しようとしているワタシたちのバンドなんで、
そりゃ見向かれるわけもないご時世なわけですよね。
でもひとりでも面白がってくれる人がいる限り、いや誰もいなくても、
自分たちがそれを楽しいと感じている限りやり続けますともー。
和太鼓の音は遠くまで響くし、すり鉦の音は耳にキンキン残るし、
そりゃウルサイ人にはウルサイでしょうがー
ワクワクする人にはワクワクするんですわい。
一人盆踊りが肌に合うヒトに向かって発信しているわけでは、ぬ!
しかしながら、、、
ワタシは子供のころ、ADHDゆえにオクレ扱いされてしまっていたこともあり、
大勢の輪の中にはいるのは極めて苦手でした。
盆踊りの輪にはいれはいれ、と強制する大人をぶっころしたいと思ったくらい。
それぐらい苦痛だったのです。でもイコール、ダンスが嫌いだったというわけではありません。
みなと同じことができなかったのです。何かにつけて。
そんなワタシでさえ、同じヴァイブスを共有することで得られる快感みたいなものは
次第に身につけることができたのと、そうなったことに歓びを感じているので、
本来一人盆踊りが好きな人なんて本当にいるのかなー?それ病気の一種じゃないかなー?と
思わないこともありません。
強制されずとも、縁と出会いがあれば、人は変わってゆくのです。
今が他を害する可能性絶滅を求める無音の方向性にあるのなら、
それはそれで、それも流れ。もう地域の神様に感謝したりするお祭りではないわけです。
楽しければそれでいい。
高円寺の阿波踊りも、地域の人々の結託があって、あそこまでの規模に盛り上がったわけですが、
ここにきて苦情が増えているといいます。
当日の騒音はもう覚悟の上で引っ越してくると思うのですが(笑)
予想以上に練習の音がうるさいと。
阿波踊りって、あの当日のパフォーマンスのためにみんな1年間必死で稽古してくるわけですよ。
だから当然日常的に音を出す必要があるわけ。
でもそんなこと認識してなかった新しい住民(阿波踊りなんて興味ない方々)から
苦情が来てしまうということらしいです。
これもね、結局あの阿波踊りが地域の人がひとつになるためのお祭りではなくて、
「発表会」になってしまったからだと思いますよ。
あああ、これ別にdisってるわけじゃなくて、それはそれで楽しみ方として王道だと思ってます。
演者さんたちのキラキラ眩しい笑顔と達成感あふれる出で立ち、それを見守る親戚縁者たち。
日々積み重ねて努力してきた賜です、美しいです、ほんとうに。
でも発表会になってしまったので、どうしても観客と演者はまっぷたつですよね。
さらに単なる発表会なので、住んでるからって参加する意義もなし。
商業レベルで利益を得られる人と発表会を楽しみにしている観客のためのパフォーマンス、に
なってしまっているわけです。
そういうことだったら、そりゃ日常生活にいきなりズンドコ聞こえてきたら、うるせーな、になっちまいます。
本音は、ちょっとなんだか寂しいわねー、、、でっすけど(高円寺住民でもないのにスイマセン)
阿波踊りオリジンの徳島に一昨年遊びにいった友人によると
徳島の阿波踊りは観客との境目がほとんどなく、境目を誘発するようなルールもほとんどなく
(唯一の禁止事項は「川に飛び込むな!」だけ・笑)、本当に居合わせた人が
楽しみまくれる環境だったと感動して帰ってきておりました。
外部からの観光客を相当集めているお祭りなのに、そもそもの伝統が残っているのだなぁと
関心したものでしたが、その徳島でも近年は騒音苦情が増えているとのこと。
大きな流れがやっぱりあるのでしょうねー。
土地の神様への想い、
生かされてることへの感謝を表現する、というお祀りゴトが
忘れられなければいいなぁと思うのですが。
まぁそういうわけで、私は、天照大神がうっかりマツリ騒ぎが気になって
岩戸を開けちゃったという本質に迫る活動をしたいわけなんですわ。
さて、今日もいやがらせか!というくらい長く書いてみました。
ピーヒャララ♪