たくさんの鳥がとまっているので、おもわず撮ってしまいました。
こちらも傾いている木が気になって
国文学者、万葉集研究の歌人として活躍した佐々木信綱は、昭和19年、72歳のとき肺炎を患い病後の静養地として、冬の寒さの余り厳しくない熱海に転居してきた。「凌寒荘」の名は友人の徳富蘇峰が中国の名文章家、王安石の詩の一節をとって名付けた。
6歳の時から父の指導で万葉集、山家集を暗誦し作歌を始め、27歳のとき万葉歌風の「心の華」を発刊する一方、多くの優れた門人を輩出した。明治36年、32歳で処女歌集「思草」を出している。
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや(歌集「思草」より)
大正元年、第二歌集「新月」を刊行する。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲(歌集「新月」より)
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水と」に次のように歌われている。
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
昭和38年12月2日この地で永眠された(享年92歳)
潤雪庵(谷崎潤一郎 旧居)
外観のみ
谷崎潤一郎は家族の避寒地として西山の別荘を購入し昭和17年よりこの自宅で「細雪」の執筆に専念した。翌18年に中央公論に第一回を発表し、第二回を発表すると陸軍省報道部から、この作品は時局にあわぬという理由で掲載禁止となった。しかし谷崎はそれに屈せず友人からの援助を受けて「細雪」を書き続け昭和19年に上巻200部を私版として発行した。これも警察にみつかり始末書を書かされる事になった。この頃時局も緊迫して家族も熱海に疎開してきたが収入がなくなり生活は困窮していた。