職場構内の泰山木(たいさんぼく)が見ごろである。
背の高い木に、白い大きなつぼみが次々と開いていくのを見るのが
この時期毎朝の楽しみだ。
きのうは雨降りで、一時間に90ミリなどどいう豪雨はいただけないが、
しとしと降る雨の中で見上げる木は、また格別の風情である。
こういうシチュエーションで連想するのは
やはり川端康成の「片腕」。
「私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが
娘の肩の丸みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。」
この一節で、もう、泰山木という名が完全に頭に焼き付いてしまうのだ。
「私」が娘の片腕と一夜を共にするのは、雨ではなく濃いもやの夜だが、
その湿った空気は、
「ラジオの天気予報が
たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、
小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は
小鳥をひかぬよう気をつけてほしい。
と言っているように思える」ほどの密度である。
なんだか読んでいるうちにだんだん窒息してきそうな
湿った空気の重さ、この閉塞感がなぜかくせになり、この時期なると
毎年「片腕」を読んでしまうのだ。
これが8月になると、今度は軽井沢を舞台にした「高原」や「百日堂先生」。
「片腕」とはまるで違う、からりとした夏の清々しさで、
行ったことのない避暑地の光景を思い浮かべながら読むのが楽しい。
こうやって、同じ小説を繰り返し読んで、どんどん今の作家に疎くなっていくのだ。やむを得ん。
下の画像は雨に濡れた泰山木。花より葉っぱにピントが合ってしまったなあ・・。
背の高い木に、白い大きなつぼみが次々と開いていくのを見るのが
この時期毎朝の楽しみだ。
きのうは雨降りで、一時間に90ミリなどどいう豪雨はいただけないが、
しとしと降る雨の中で見上げる木は、また格別の風情である。
こういうシチュエーションで連想するのは
やはり川端康成の「片腕」。
「私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが
娘の肩の丸みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。」
この一節で、もう、泰山木という名が完全に頭に焼き付いてしまうのだ。
「私」が娘の片腕と一夜を共にするのは、雨ではなく濃いもやの夜だが、
その湿った空気は、
「ラジオの天気予報が
たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、
小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は
小鳥をひかぬよう気をつけてほしい。
と言っているように思える」ほどの密度である。
なんだか読んでいるうちにだんだん窒息してきそうな
湿った空気の重さ、この閉塞感がなぜかくせになり、この時期なると
毎年「片腕」を読んでしまうのだ。
これが8月になると、今度は軽井沢を舞台にした「高原」や「百日堂先生」。
「片腕」とはまるで違う、からりとした夏の清々しさで、
行ったことのない避暑地の光景を思い浮かべながら読むのが楽しい。
こうやって、同じ小説を繰り返し読んで、どんどん今の作家に疎くなっていくのだ。やむを得ん。
下の画像は雨に濡れた泰山木。花より葉っぱにピントが合ってしまったなあ・・。