煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
本日は、親鸞聖人のお誕生日です。築地本願寺にて降誕会法要がお勤めされています。降誕会とは、お浄土より降りてこられ、誕生されたという意味です。親鸞聖人は、人間として、この世にお生まれになりましたが、それは、阿弥陀如来様が、親鸞様という姿をとり、降りてこられ、この世に生まれたということです。そのことから、浄土真宗では、親鸞聖人を、聖の人とお書きしております。親鸞聖人は、日本の仏教界で初めて、公然と家庭を持たれた方です。妻である恵信尼様は、夫である聖人を観音様のようなお人でありましたと書かれています。その当時、僧侶の妻という立場は、世間の非難を浴びたかもしれませんが、聖人は、宗教者としてだけでなく、家庭を大事にされ、妻子を命がけで守られた方だったのです。今回、頂きましたご和讃の意味を申し上げます、『私の煩悩によって心の眼が閉じられた状態でありますから、如来の光明を見ることは出来ません。しかし、阿弥陀如来様の必ず救うという、大悲のお心は、私が気づかなくても、諦めたり、見捨てたりすることはなく、常に、私に注がれ、照らして下さっています』皆様の愛する方も、仏様と成って、いつも、皆様のそばにいて下さるのですが、私の煩悩によって、姿は見えないのです。しかし、いつも身近にいらっしゃいますので、亡き方は、寂しい思いなどしておりません。
先日、一時停止違反で、警察のお世話になってしまいました。そんな時も、罪の意識よりも、運が悪かったとか、何で、こんなところで取り締まりをしているのだと腹が立ち、自分中心の煩悩の深さを思い知らされました。しかし、よく考えてみますと、阿弥陀如来様が、大きな事故を起さないようにと、取り締まってくれたのかなと思いました。私は、誰も見ていないだろうと、一時停止を怠ってしまったのですが、阿弥陀如来様は、いつも、私を心配し見ておられるのだろうなと思います。私も、仏様に対して、出来るだけ心配かけぬよう、日々精進しなければならないと思います。仏の教えのカレンダーには、『世に不運はない 全て試練である』と書いてありました。不運と腹を立てるよりも、試練と受け止め、自分が試されている、そして、そのご縁を、更に、よりよく生きるための練習と受け止めることが大切であるというお言葉です。起こったことは、同じでも、不運とするのか試練と受け止めるのではまったく違います。
人生を生きる上で、大切なのは、不安がない悩みがないということです。病気になったらどうしようとか、お金が無くなったらどうしようとか、子供の将来が不安と悩みは尽きませんし、不安感は、どんどん、膨らむものです。先日、仏教の本を読んでいると、「今、この瞬間を大切に生きる」とありました。今も、何か、心配な事を考えている方は、今を生きていないというのです。今というこの瞬間に、いつも集中して生きられれば、不安感はなくなります。しかし、それは、簡単ではありません、ちょっと気を許すと、直ぐに、まだ起きてもいないことを、心配するのが私たちです。明日という字は、明るい日と書きますが、常に心配事を抱えて生きていては、明日は、明るい日になりません。それには、私は、親鸞聖人の教えをいただくことが一番だと思います。見えないけれども、大きなはたらきに支えられているを意識することで、必ず、生きる力となると示されています。宗教というのは、日頃、元気で心配事がない時には、求めることはありません。しかし、何か問題が起きたとき、人は、苦しみ、自分の不運をなげきます。どうか、そんな時は、試練であり、どんなことがあっても見捨てることがない阿弥陀如来のお救いを思い出して下さい。