浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

見濁

2023-07-01 17:18:09 | 法話

私は、コロナ過で、すっかり、ドラマを観ることが習慣になりました。ただ、医療系ドラマだけは観ないようにしています。なぜなら、自分も病気なのではないかと不安になるからです。その他は、どんなジャンルのドラマも好きです。その中で、サスペンス系のドラマの中で、主人公に、親切だったり、優しかったり、親友だったり、良き先輩だったりが、犯人のパターンが多いのです。逆に、主人公に、いじわるをしたり、見た目が悪人だったりする方は、犯人ではなく、主人公の味方だったりするのです。私は、もう何度も騙されました。こいつが、絶対、黒幕だと思っていたのが、良い人だったりするのです。これは、正に、ドラマ作成者の思う壺です。ドラマの中で、主人公にとって、親友やよき理解者だったと思っていた方が、犯人であったと分かった時、犯人は、主人公に言います「私は、あなたのことを昔から大嫌いだった!」「私は、善人なんかじゃない!」と、そして、敵だと思っていた方が、本当は、主人公を裏で助けてくれていたなどという展開はよくあります。これは、ドラマの中の話で、現実には、自分の周りの方の大半は、良い方です。しかし、仏教では、見濁(けんじょく)という言葉があります。私たちのものの見方は、常に濁っていて、本質を見ることが出来ないのです。皆さんも、時々、自分のものの見方を、疑ってみて欲しいと思います。そうすれば、人間関係で悩んだり、騙されたりすることが、少しは減るのではないかと思います。私事ですが、私は、人付き合いが昔から苦手というか、あまり、好きではありません、友人も多くありません。山にも一人でしか行きません、その方が気楽だからです。私には、上司も部下もいないので、本当に助かっています。法事や葬儀の会食なども、コロナ禍前から、すべて断ることにしています。正直、気を使うのが嫌なのです。たぶん、皆さんも、お坊さんに気を使いながら、会食するのは、嫌だと思います。話の長いお坊さんは、嫌われます、相手の話を聞くことが大事です。相手の話をさえぎってまで、自分の話をしてはいけません。でも、そういう私も、つい、さえぎってしまうことがあり、反省します。法話会でも、時間だけは、絶対に守るように心がけています。私が、法話を教わった先生から、いつも言われていたことでした。僧侶の仲間でも、気が合う方もいれば、苦手な方もいます。しかし、私の見方が、正しいのかどうかは、分かりません。見濁と言う言葉は、自分のものの見方を疑ってみることを教えて下さいます。自分にとって、都合の良い方を、善人といい、都合の悪い方を悪人とします。でも、本当は、そうではないかもしれないのです。それでは、また、明日も何か、ネタが出来たら、更新致します。


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縁起と供養

2023-06-11 20:46:16 | 法話

今朝も梅雨空のお寺でした。自分がやりたいことを、時間がない、暇がないと理由をつけては、我慢して、先延ばしにする方が多いと思います。私は、数多くの葬儀にお参りするので、ご遺族の後悔の言葉は身にしみます。人生で後悔することの中で、もっと自分らしく生きたかった、会社や家族や周りにどう思われようとも、やりたいことをやればよかった。と思う方は多いと聞きます。もっと、家族を大切にすればよかった、大切な方と、もっと、旅行に行きたかった、もっと、子供と遊びにいけば良かったと思う人も多いと思います。後悔先に立たずです。でも、どんな生き方をしても後悔するのが、人間です。もっと、違う生き方があったのではないか、違う、選択があったのではないかなどと考えたりしませんか。でも、私は、一つだけ、私の人生に間違いはなかったと思えるのは、お寺に生まれ、住職になったことです。お寺に生まれたからといっても、必ず、住職になる必要はなく、僧侶にならなくても良いのです。私の知り合いでも、経営者になった方もいるし、医者に成った方もいるし、弁護士になった方もおります。でも、私の知る方は、皆、住職には成らなかったけれども、お寺に生まれ、浄土真宗の教えに出会えたことが、仕事にいかせると話されています。たとえば、仏教の教えの中でも有名な縁起という考え方です。縁起が悪いといいますが、その使い方は、間違いです。縁起とは、世の中のすべては、お互いがつながりあっている、助け合っているという考えです。縁起とは、とても、有難い教えです。おかげさまという言葉に繋がる言葉です。おかげさまは、目には見えなくても、みんなのおかげで、私は生かされているのです。お医者様も、患者さんが居なかったら、廃業です。お医者さまは、患者さまがいるから、病院が成り立つのです。数年前、テレビCMのコピーに「世の中は、誰かの仕事で成り立っている」というのがありました。私は、そのとおりだと思いました。でも、世の中の多くの方は、働かないと食べていけないから仕方がないと思うのかもしれません。しかし、みんなのおかげで、自分は生かされている、だから、自分も働くことで、恩返しをさせてもらっていると考えると、少し、世の中の見方が変わります。昨日、ホームページの事で、どうしても、わからないことがありました。でも、土日だし、問い合わせても、対応してくれないだろうとは思ったのですが、電話をしてみましたら、ちゃんと、繋がり、丁寧に対応してくださいました。そして、めでたく、謎が解けました、大変、有難く感じました。私も葬儀や法事を勤め、感謝されると嬉しいものです。お互いが相手の事を思いやる気持ちが、供養(共に養う)という言葉の意味だと思います。日本は、とても、良い国です。それは、知らず知らずのうちに、仏教の教えが日常の中に浸透しているからだと思います。


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ておくれなし

2023-06-09 20:16:59 | 法話

浄土真宗で、という言葉を使うのは、既に、阿弥陀如来のいのちの中に、生かされていた私であったと聞かせて頂くことを、というのです。 また、浄土真宗では、信とは、阿弥陀如来の心を表わしますので、今回の法語カレンダーのお言葉、信は、如来の生命なりというお言葉に繋がるのです。 既に、私たちは、阿弥陀如来の生命の中に、生かされ、お浄土へと導かれる人生を歩ませて頂いていたという意味です。信じれば救われるとは、浄土真宗では、用いない言葉です。私たちは、今まで気付かずにいたけれども、既に、阿弥陀如来の救いの中にあったのです。信じることが条件ではないのです。どこに、証拠があるかといえば、今、私の口に、南無阿弥陀仏がはたらいてくださっているからです。いつも如来と一体なのです。 インターネットでこんな物語をお聞きしました。 90才のおばあちゃんに、「今までの人生で、後悔したことはありますか?」という質問をしました。おばあちゃんは、「私は、60才の時、バイオリンを始めようと思ったのですが、後、何年も生きられないと思い、やめてしまったのです。もし、あの時、バイオリンを始めていれば、30年間も私には、時間がありました。もしかしたら、バイオリンも上達して、今も、演奏することを、楽しめていたかもしれません。」というエピソードです。これは、何かを始めるのに、遅すぎることはないということを、教えてくれる物語なのです。その方も、60才の時、まさか、後、30年生きることが出来るとは、思ってもいなかったのでしょう。もし、それが、分かっていれば、間違いなく、バイオリンを始めていたのです。南無阿弥陀仏の救いは、いつでも、間に合います。臨終でも、ておくれはありません。既に、阿弥陀如来の救いが届いているからです。お念仏を称えるのに、遅すぎることはないのです。 浄土真宗の救いは、阿弥陀如来の救いにより、私の人生は、死んでいく人生ではなく、お浄土に生まれていく人生であると転換されます。 どうか、阿弥陀如来様、信じています、お浄土にお助け下さいとお願いする必要はないのです。


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本日の法話会

2023-06-02 17:00:00 | 法話
本日の法話会、無事、終了致しました。法話中は、強風となってしまいました。そんな中、23名の方にお参り頂きました。ありがとうございました。法話の一部をご紹介いたします。

「終わり良ければすべて良し」ということわざがあります。意味は、物事の結末が最も大事であって、それまでの過程は問題にならないです。人生の終わりには、平等に、死が待っているのです。その臨終の時に、今まで、どんなに幸せな人生であっても、「私は、死んだらどうなるのだろうか?」という後生の一大事を、考えない方はいないと思います。どんなに幸せな人生であっても、後生の一大事には関係ないのです。それは、「終わり良ければすべて良し」の人生にはならないのです。

逆に、阿弥陀如来に出会い、お浄土に参らせて頂けることを知る方は、今まで、苦労も多かった、辛いことも多かった、でも、歯を食いしばって生きてきた。そして、私は、この世を卒業したら、阿弥陀如来に導かれ、お浄土に参らせていただける。今までの人生に、無駄な事はなかった。と思えるのではないかと思います。まさに、「終わり良ければすべて良し」です。私の人生は、有難い人生だったと、終えることが出来るのではないでしょうか。阿弥陀如来に出会うことで、今までの苦労が、全部、有難い人生に変わっていくのです。

 

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これからが これまでを決める

2023-05-28 15:00:00 | 法話

浄土真宗本願寺派の本山から各寺院宛てに送られてくる「宗報」というものがございます。住職は、その「宗報」に目を通して、宗派のさまざまな情報を知ることが出来ます。今月5月号の記事の中に、お寺から離れて暮らす門徒さんと、どのように、縁を繋いでいくかという取り組みをされている山陰教区 西楽寺さんが紹介されていました。お寺が門徒さんに出している、おハガキの中の言葉に、

これからが これまでを決める 藤代聡磨(ふじしろさとまろ)師 真宗大谷派僧侶

のお言葉が紹介されていました。名僧と言われる方のお言葉です。「これまで(過去)が、これから(未来)を決める」のではありません。変えることも、消すことも出来ない”これまで”ですが、”これから”の生き方次第で、その意味は大きく変わり(決まり)ます。と、菅原住職の解説がされておりました。

皆さんも、変えられない過去にとらわれ、苦しむ時がないでしょうか?しかし、これからの生き方で、過去の意味が変わってくる。たとえば、大切な方との別れです。「ああすればよかった、こうすればよかった」と別れた悲しみ、寂しさで、生きる力も気力も失ってしまうことでしょう。しかし、亡き方は、残された者が、前を向いて生きて欲しいと願っているはずです。失ったものは大きいですが、亡き方のお陰で、阿弥陀如来に出会うことが出来た、生きている有難みが分かった、家族の絆が生まれたなど。この悲しみは、決して、無駄ではなかったと過去の出来事の意味が変わってくるのです。10年程前、私も母を亡くした時、しばらくは、体調を崩すほどの悲しみが続きましたが、ある先輩僧侶の方が、「あなたにとって、お母さんの死は、無駄ではないですよ、いつか住職として、プラスにはたらいてくれます」と、言って下さいました。確かに、私も、母の死をきっかけに、少し、生き方が変わった気がします。人生には、何一つ無駄はないと言われます。でも、無駄にするかしなかは、自分のこれからの生き方次第だと思いました。


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