浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

あなたはあなたのままで良い

2023-07-27 17:48:00 | 法話

今日も、暑かったですね。もう、何日、この猛暑の話題をしていることでしょうか。私も最近は、植木鉢の植物に水やりが日課になりました、からからに乾いた土に、まいた水は、すぐにしみこんでいきます。私も、辛い時や不安な時、ふと、仏様の救いが、心にしみ込んでいくときがあります。日頃は、何でもない言葉が、時に、心にしみ込む時があるのです、そんなときは、仏様が、私のそばにいつも寄りそって下さっているからだろうと思います。今日も午前中、ご法事がありました。永代供養墓へのご納骨もございました。住職には、ONとOFFがはっきりしません。だから、住職というのですが、中には、お寺とは、別に、ご自宅があり、お寺に出勤される方もいらっしゃいます。日本全国にある浄土真宗の寺院は、街中にあります。人里離れた山中にあることはありません。それは、お寺は、修行の場ではなく、生きている者が、法話を聞かせて頂く、聞法の道場であるためです。法事も葬儀もお勤めしますが、浄土真宗では、読経の後には、必ず、法話がございます。この法話は、生きている方のためのものです。生きている者が、幸せな人生を歩んで頂きたいからです。それが、亡き方の願いだからです。皆さんは、最近、心配事や不安な事はありますか?人間生きていれば、誰もが、不安を抱えながら生きています。私は、他人は、何も心配事などなく、幸せに生きているように本気で思ってしまいます。自分だけが、心配ばかりしている、不安を抱えながら生きていると思いがちです。これは、まったく、間違いです。地位やお金や年齢すべて関係なく、みんな、平等にそれぞれの立場や境遇で、悩みや不安を抱えています。でも、悩みや不安は、人生には、必要です。不安や悩みがあるからこそ、幸せになれるのです。そもそも、皆さん、誰が、自分を苦しめていると思いますか?それは、他人ではなく、自分です。世の中で、自分が一番大事だからです。その自分を、守り生きぬくために、不安や悩みが生まれるのです。突き詰めると死にたくないからです。ですから、悩みや不安と上手に付き合うしかありません。その解説本は沢山出版されてますが、何故か、それを読んでもやはり、不安悩みは、また、出てきます。その本の著者は、上手くいっても、万人が救われる事はないからです、私が思うのは、無理ぜず、自然体で生きる、他人からどう思われようが、自分に対して素直に生きて下さい、辛い時は、辛いと口に出して言って下さい。私は、気がすすまない、面倒だと思うことは、どんどん止めています。幸せとは、何なのか、それは、自分が決めていることです。他人にどう思われようが、自分が幸せなら、それで良いのです。他人と比べて幸不幸を決めることは、バカらしいことです。自分は、自分らしく、阿弥陀如来は、あなたには、あなたなりの幸せな人生があり、それは、他人と比べるものではない、あなたはあなたのままで良い、他人の真似や他人を妬むことなどする必要ないと言われています。自分で自分を苦しめるのは、今日かぎりやめましょう。阿弥陀如来は、あなたをいつも大切に思って下さっています。そして、もちろん、亡き方も同じです。あなたが幸せに生きていれば、亡き方も喜んで下さっています。


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般若心経称えてますか?

2023-07-15 13:05:26 | 法話

ボタンを押すと、般若心経を称えて下さいます。何故か、父が、通販で買ってました。
私、お医者様にインターネットでこんな情報を見て心配になったのですが、と相談に行くと、お医者様は、「インターネットの情報を信用してはいけません」と言われます。逆に、私も、門信徒様から、ご相談をお聞きすると、インターネットを見たら、こんなことを書いてありましたと言われます。私も同じく、「インターネットの情報を信用してはいけません」とお話をします。みんな世の中、お互い様で、インターネットを中心に回っているようです。気軽に無料で調べられて、自分にとって都合の良い情報を教えてくれるのですから、誰もが、利用するのは当たり前ですが、タダより高いものはありません。いつのまにか、不安に追い込まれ、余計なものを買うはめになったり、いかなくてもよい、医者に行くはめになったりします。時々、「私は、毎日、ご仏壇に読経をしております」という方がいらっしゃいます。私は、とても、素晴らしいと思う反面、その方は、何のために、読経しているのだろうか?と思うのです。まず考えられるのは、亡き方の追善供養です。追善ですから、善を、毎日、追加するためです。それは、とても、素晴らしいと思われるかもしれませんが、それは、大きな間違いです。なぜなら、亡き方は、救われていないから追善が必要なのです。他の理由として、自分の願い事を叶える為いう方もいらっしゃいます。願い事というのは聞こえは良いですが、分かりやすく言えば自分の欲です。世界が平和になりますようにとか、みんなが幸せになりますようにではなく、自分が病気になりませんように、自分に災難が起こらないようにとかです。また、どんなお経を勤めているのですか?とお聞きすると、般若心経と言われます。浄土真宗では、般若心経を勤めないのですが、と言いますと、びっくりされます。その理由は、インターネットを検索してみてください。多くの検索結果が出てきます。でも、お経を称えていけないなんてことはありません。とても、素晴らしい内容が説かれているので、意味をご覧になって下さい。先日、有名な稲城和上の「法蔵菩薩とは」法蔵館の本を読んでおりましたら、興味深い事が書いてありました。「私には、般若心経を称える資格があるのだろうか」と書いてありました。続いて、その本には、有名な曹洞宗の名僧良寛さまの句が紹介されていました。

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

この句を、「なるほどそうだな」と思える方は、般若心経を称える資格がある。しかし、これを、震災や大切な家族を亡くされた方の前で言えますか?稲城和上は、私は、「災難に逢う時節には災難に逢うが悪く候 死ぬ時節には死ぬが悪く候」としか、思えない、自分だけは、災難に逢いたくない、自分だけは死にたくないとしか思えない私には、称える資格がないと書かれておりました。般若とは智慧という意味、智慧とは、仏教の最も大事な言葉の一つです。ありのままを見る眼です。智慧をえたら、世の中に怖いものはありません。老いること、病気をすること、死ぬこと、これは、すべて、当たり前のことです。これを、ありのままに受け入れることが出来るのが智慧のある方です。般若心経は、この智慧の心を得ること目指す経だと私は頂いております。ですから、もの凄く、有難いのです。でも、いくら有難くても、理想が高すぎて、そんなことが出来ますか?とても、人間の努力では、成し遂げることが出来ないからこそ、阿弥陀如来がいらっしゃるのです。「そのままのあなたを救う仏」と成られたのです。私は、今まで、どうして、浄土真宗では般若心経は勤めないのだろうか?とあまり考えたこともなかかったのですが、この本を読んで、考える切っ掛けを与えて下さいました。完全には、智慧をえることは不可能でも、世の中を、ありのままに見る智慧の眼は、とても、生きる上で大切な視点です。浄土真宗の読経の意味は、仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)です。仏様の救いを褒め讃えるためです。いつも、救われていることにお礼をするためです。亡き方は、救われていますから、追善の必要はありません。私も、つい、願い事を時々してしまうのですが、正直、浄土真宗の読経には、願い事を叶える意味はありません。でも、考えてみると、私の願い事は、自分にとって、本当に幸せかどうかは分かりませんよ。そもそも、無病息災の人生などありえません。病気や災難や大切な方の死から、学ぶことも多いはずです。そして、人生に深みが増すのです。般若心経も称えてはいけないとは、私には言えませんが、やはり、私にも称える資格はないと判断しました。


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さて、人生の後半どうするかなぁ

2023-07-13 20:23:28 | 法話

人生には、前半と後半があるのであれば、私も後半にさしかかっております。本当は、この世は、諸行無常ですから、前半と後半なんてことは、仏教ではいいません。明日の保証がない、いのちですから、いつでも、今が臨終なのです。ですから、明日も生きていれば、有難いことなのです。私は、人生100年時代と言われる今日、人生の前半と後半でどちらが、幸せが良いのかと言えば、絶対、後半の方が良いと思います。「終わりよければすべて良し」という言葉があるとおりです。皆様の人生が、今までの苦労が、報われる人生の後半になってほしいと願います。その点、一般的に、男性よりも女性は、凄いと関心させられるのは、知らない方とも、すぐに、仲良くなれたりする能力があります。私は、小さい頃から、そういうのが大の苦手です。今も、知らない方に、話しかけるのは極めて、勇気がいります。人生の後半を楽しく生きるには、損得勘定抜きの友人は不可欠です。一人が好きな方も多いとは思いますが、それでも、誰かとインターネット繋がるだけでも良いのです、繋がっているだけで、幸せは倍増です。趣味も大事です、家庭菜園も楽しいです、山登りも楽しいです、バイクに乗り始めるのも良いです、お金に余裕がある方は、思い切って、高級スポーツカーを買うのも良いと思います。人生の後半を是非幸せに暮らして欲しいと思います。あの世には、お金は持っていけません、残せば、争いの元です。でも、そうは言っても、自分が後、何年生きるか分からないですから、施設に入るための資金のためとか考えると、無駄にお金は使えませんね。私もそのお気持ちは、大変よくわかります。でも、将来の心配するのが、一番、いのちを短くする元です。私も、自分で、何か、不安になったりするとき、急に、身体の痛みが出たり、お腹が痛くなったり、自分の体が収縮するような感じに見舞われます。不安は、身体に負荷をかけているんだと実感します。今までどんなに苦労が多くても、今からでも、人生の後半を楽しんで下さい。そして、読書も大事です。健康寿命を延ばすのは、運動よりも読書です。私の90歳の父は、毎日、新聞3紙すべてに目を通し、何か、勉強しています。だから、頭はしっかりしています。運動をやりすぎて体を壊す方はたくさんいらっしゃいます。読書をし過ぎて体を壊す方はいません、目には、負担があると思いますが。人生の最期に、もっと、はたらけばよかったと思う方は一人もいません。逆に、もっと、自分の限られた時間を楽しむべきだったと思う方が多いと思います。生涯、仕事が生きがいという生き方もあるとは思いますが、それでも、仕事と遊び、良いバランスが大事ではないでしょうか。私も、定年がないので、働く気と体が健康であれば、一生はたらけます。でも、私は、60歳過ぎたらさっさと、息子に住職を代わってもらおうと思っています。もう一つ、人生の後半は、孫と楽しもうと考えて、期待するのは止めておいたほうが良いです。孫は、自分の子供ではありません。孫を自分の子供と勘違いして、思い通りにしようなどと考えると不幸になります。子供さん夫婦には、子供さん夫婦なりの人生があります。自分の幸せを、他人に頼るのは止めた方が良いのです。そして、子供が出来れば、家庭の主導権は、奥様が握ります。特に、息子さんは、奥さんのご両親と仲良くする傾向があります。その方が上手くいくからです。息子さんは、婿に出したというくらいに思っておかないと腹が立つものです。自分の幸せは、自分でつかむしかありません。その為には、50代から準備を始める方が良いと思います。皆さん、人生の後半について、住職として申し上げたいのは、ここからが本番です。無宗教という方であっても、「死んだらどうなるんだろうか?」と、一度も考えたことはない、という方はいらっしゃらないと思います。でも、皆さん、なるべく、考えないようにしているのです、考えても、自分では、答えが出ないからです。多くの方が、「死んだら終わり」と思っているのかもしれませんが、世界宗教と呼ばれる多くの信者を持つ宗教では、そんなことを言う宗教はありません。その救われる方法は、さまざまですが、もっとも、確実なのは、阿弥陀如来の救いしかありません。なぜなら、既に、私を、浄土に救うと呼びかけて下さっているのです。私が、お願いする前に、既に、阿弥陀如来の方から救いを呼びかけてくださっています。しかし、勿体ないことに、阿弥陀如来のおはたらきの中にあることを、知らない方がほとんどです。人生の後半を、後悔なく生きるには、どうしても、この死んだらどうなるんだという、大問題を解決しないかぎりは、楽しむことは不可能です。どんなに、心の強い方でも、いざ、健康診断で重大な病気を宣告されたらどうでしょうか、医学が進歩している今、心配ないことの方が多いとは思いますが、それでも、その瞬間、人生は真っ暗闇に堕とされます。昨日まで、楽しい人生だったのに、それは、死に捕まったのです。何をしても楽しくありません。でも、阿弥陀如来に出会った方は、同じ、死に捕まっても、それまでの人生に感謝をし、そして、これからの人生を、ますます、お浄土にまいらせていただける人生と転換されるのです、人生に悔いなしと言えるのは、阿弥陀如来に出会うか、それとも、出会えないかで決まるのです。


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他人の自慢話と失敗した話どちらが好きですか

2023-07-05 20:06:30 | 法話

以前、ラジオを聞いておりましたら、「友人の孫自慢は、聞いていて、一番、面白くない」という話が出ておりました。自慢話というのは、話している本人は楽しいかもしれませんが、聞いている側は、自分に興味のある話ならまだしも、あまり、楽しくないものです。でも、嫌な顔をせずに、無理に笑顔でうなづき、一緒に喜んでいるそぶりまで見せてしまいます。でも、心の中では、早く終わってくれないかなと思います。逆に、失敗した話や損した話は、とても、愉快です、もちろん、命にかかわるような話ではない場合です。本当に、困ったものですが、それらは、すべて、自分の抱えている煩悩より生じるのです。煩悩の中の妬みですね、私は、煩悩の中でも妬みは、かなりやっかいだと思っています。なんで、そんな話をするかと言えば、阿弥陀如来救いのめあては、煩悩を抱えた人間だからです。つまり、私のことです。阿弥陀如来の救いのめあては、聖者ではありません。阿弥陀如来は、「良い人間になりなさい」とは言われません、言われても変わることなど出来ないからです。だから、そのままのあなたを救う仏様です。私たちは、すぐに、人と比べてしまう癖があります。人と比べて、劣っていれば、自分を不幸に感じたり、勝っていれば、幸福を感じるものです。比べることを止めると妬みは少なくなります。自分は自分、他人は他人、比べる必要なし、これを、悟ればかなり楽になりそうです。自分が、幸せなのか不幸なのかは、決めているのは、自分です。誰に何とおもわれようと、自分は幸せだと思えば良いのです。私もインスタを始めて、あらためて、気付かされたのは、当たり前かもしれませんが、自分の良い写真しか載せません。自分が楽しそうにしている写真を選んでは投稿しています。困ったものですが、これも、私の煩悩のしわざです。いいね!が嬉しいのは、他人から「あなたは幸せですよ」と認めてもらいたいのだと思います。でも、私は、ひねくれているので、いいね!は、(写真をみるかぎりは幸せそうに見えますよ、本当はわかりませんが)ということなのです。それではまた。


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檀家という言葉に拒否反応

2023-07-03 18:03:21 | 法話

本日の法話会、お参りありがとうございました。私は、菩提寺とか檀家とかいう言葉に、拒否反応をされる方が多いと感じております。葬儀社の方も、お客様に、いつもお願いしているお寺はありますか?そのお寺さまの檀家さんですか?などとお聞きすると、即答「檀家ではない!」と言われるお客様も多いそうです。だからか、最近は、通夜や葬儀の前に、葬儀社の担当者さんから聞かれるのです。「菩提寺と紹介した方が良いですか?それとも、お手次寺と紹介された方が良いですか?」。たぶん、菩提寺ではない!とお客様からクレームがあるのでしょう。私の感覚ですが、お手次寺とは、お墓は霊園にあるが、何かあれば、お願いする、関係の薄い寺のことを指します。菩提寺とは、お寺に墓地があり檀家さんとなります。でも、中には、霊園にお墓があっても、私は、法徳寺が菩提寺であり、檀家になっていると言って下さる方もいらっしゃいます。ここで、私は、あえて、檀家さんと書いておりますが、浄土真宗本願寺派では、檀家さんなどと、法話の中で申し上げれば、本山や別院と言われる大きなお寺からは、出入り禁止になることでしょう。それくらい、檀家ではない、門徒・門信徒と言わないといけない暗黙の了解があります。ここでは、分かりやすいように檀家さんと使うのをお許し下さい。しかし、中には、ご自分の土地に、お墓がある方や、お寺の中の永代供養墓や樹木葬に入っている方は、グレーゾーンです。たぶん、檀家という認識をされている方は少ないと思います。私は、友人や知人から、ご自分のお墓のある菩提寺に対して、不満を相談されることがあります。どうしたら、縁を切れるのか?お墓を霊園にすれば良かった、墓じまいはどうしたら良いか?法事、葬儀のお布施が高いとか、態度が悪いとか、住職が威張っているとか、お布施を明瞭にしてくれとか、本堂が汚いとか、トイレが汚いとか、さまざまです。私は、それを聞く度に、そういう不満が出ないように、法徳寺は、改善していこうと勤めてきました。よく、スーパーやお店で、あなたのご意見をお聞かせ下さいというアンケートがありますが、あれは、お店にとって、貴重な意見なのだと思います。でも、そんな不満ながらも、法事をされたり、葬儀をされたり、文句もたくさん言いたいでしょうが、ある程度は、目をつむり、お付き合いをされています。その点、霊園さんは、お付き合いしやすいです。だって、何か、不満があれば、言いやすいですから。でも、私は、ふと思うのです、先祖代々お世話になって、お付き合いしてきた菩提寺、確かに、付き合いは、今の時代面倒だと思います。でも、もしかしたら、それが、良い種を蒔いていることなのかもしれない、あなたが、今、健康で暮らせる、元気でいられる、家族仲良く暮らしていることは、ご先祖がお世話になってきたご本尊様を、お守りするというお気持ちのお陰かもしれません。お寺の主は、住職ではなく、ご本尊様でございます、住職は、宗教法人の代表役員ですが、主ではありません。でも、私もそうですが、いつのまにか、住職が主だと勘違いしてしまうのです。中には、世話好きで、血縁関係にはない方の法事をされる方もいらっしゃるのです。血縁のあるお子さんは、やらないのにです。友人であったり、兄弟・姉妹の方が、法事をしてくれることもあります。私は、ある方に「そこまでしなくても、良いと思いますよ」と言ったことがありましたが、姉にはよくしてもらったとか、兄には、世話になったとか、この方に救われたとか、理由はいろいろです。私は、凄いな、偉いな、自分だったらそこまで出来ないなと思います。でも、もしかしたら、それが、良い種を蒔いているのかもしれないと思います。その方は、何か、見返りを求めているのではないでしょうが、結果的に、その方が、健康で長生きしたり、幸せに暮らしているのは、そんな、世話好きな人柄が、良い結果を人生に、もたらしてくれているようにも思えるのです。


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