浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
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5月の法話「善知識」

2012-04-30 17:23:31 | 法話

先日京都の本願寺に行ってきました。というと気楽に聞こえますが、法話を公式の場で話す資格(布教師)になるための検定試験です。それは筆記試験と実技試験がありまして、どちらも大変緊張しましたが何とか終えてきました。もし受かったら初めて研修合宿に参加できるのです。

そこで話した内容に近い話を今回の法話にしたいと思います。「善知識」・・一見すると「良い知識?賢い勉強家?」などと思ってしまいますがそうではありません。「善知識」=仏教の正しい道理を教え、利益を与え導いてくれる人。を言います。浄土真宗では念仏の教えを勧める人や歴代の門主をこう呼ぶことがありますが、実際は我々があまり使う言葉ではありません。これは何といっても親鸞聖人が多用した用語です。

代表的な御文に「善知識にあうことも おしうることもまた難しよく聞くことも難ければ 信ずることもなお難し」(浄土和讃)とあります。善知識とは悪知識に対する言葉ですから、まず親鸞聖人は素晴らしき祖師方に出会い、その教えは自分にとって素晴らしく、有難いことだと喜んでおられます。

「おしうること(教えること)」というのは、親鸞聖人が弟子に教えることではありません。善知識の祖師方が正しく後世に残してくださった、連綿と受け継いでくださった、直近の師、法然聖人が私に熱心に教えてくださった。これも有難いことだという意味です。

そしてすぐに疑いを持ち自分本位でしか物事を判断しない我々凡夫は、聞くことや信じることも難しいことだと嘆いておられます。他の文でも素晴らしい教えを伝えてくださった先輩みなを、善知識と呼んだのです。

そこで私にとって善知識は誰か、親鸞聖人はもちろんですし仏教学院で学んだ先生方もそうですが、一番は、現住職である兄かもしれません。私が就職か寺の手伝いか悩んでいるときに「一緒にやろう」と誘ってくれ、私が勉強を始めたころ「念仏の教えを学ぶうちに、浄土真宗のお寺に生まれて本当に良かったと思うはず」と励ましてもらったことは忘れられません。それまで私はお寺仏教には無知無関心でしたが、浄土真宗の教えを学ぶうち、誰もが平等に阿弥陀様に救われる、念仏は呪文ではなく、今、阿弥陀様に救われている喜びを感謝する意味だと判りました。このような素晴らしい教えに、なぜ今まで無関心だったのだろうと驚嘆しました。それから僧侶になり早18年。今では布教師になれるよう奮闘中です。しかし決して教える立場になるのではなく、先輩僧侶の話や法話を聞く事が一番大事だと思っています。先の御文にあるように難しいからこそ継続していけば有難いと思えるのではないかと思います。皆さんにおいても法話会に参加することが、一番の良い行いだと思いますので是非参加してみてください。

伊東知幸


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