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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2007年10月大分の旅 Ⅱ

2011-05-11 20:57:38 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

別府湾

翌日は早く起きて瓜生島の慰霊から始まった。

別府と大分の境の海岸へ行き、ノワタリさんの指示に従いお清めをした。ノワタリさんは海に向かって歌われた。この沖に5000人の人の住んでいた島がほんの400年前まであった事と、中央構造線がこの湾を抜けて阿蘇へ伸びている事を思うと、今何があっても不思議ではないと改めて思う。

その後、西寒多神社へ行った。朝日が差し、とても穏やかで気持ちが良い。

そこで奥宮があり昨日そのお祭りだった事を社務所の方に聞き、行き道を教えてもらい奥宮のある本宮山へ向かった。しかし、道幅はとても狭く悪路であった。途中でやっと広い道に出たがつかの間で又狭く急な坂道であった。いつものヴィッツであるから良いものの途中対向車が来たらと内心ヒヤヒヤした。

奥宮のイワクラ

テレビ塔のある所で車を置き、登と、何処からか子猫のニャアニャアと鳴き声がしてきた。お清めしながら歩いていると私達の足元にじゃれ付いてきた。私の好きな赤ネコだった。なんでここに子猫が?と思いつつ、今は飼うことが出来ないので出来るだけ知らん振りをしてきたが...やっぱりだめである。

子猫はまだ生後2か月くらいのオスで首に紐を編んだような首輪をしていた。一晩一人で心細く過してお腹もすいていたので必死でまとわり付いた。

お参り後、に乗せて一緒に下山した。社務所の人が言うには信者さんに着いて行き、山で分らなくなったそうだ。膝や肩に乗りゴロゴロ言いながら顔を舐め甘えた。別れが辛い...

「何か食べ物はありませんか。」と言うと、「鯉の餌しか」と言って鯉のえさとお弁当のおかずを少し頂いた。ネコは少しお腹の足しになったのかひとりで境内を遊んでいた。

その間に私達は鳥居を出て橋を渡った。後ろから悲鳴のような悲しい泣き声が聞こえた。

一人であれば、近くのホームセンターにえさを会に行き、つれて帰ったであろうと思うが、まだ回る神社もあり、ぐっとこらえて立ち去った。今でも思い出すと、辛い。

その後は雄城高校の横にある雄城神社にお参りした。ここも八幡様だという。そして此処に築城したのが小学生の頃読んだ本の主人公の「椿説弓張月」の弓の名手の源為朝したのでその霊も祀られているとの事だった。

そのまま町に出て昼食を取る店を探した。店内にいけすのある郷土料理の店に入った。それぞれ好きな物を頼んだが、 どれも美味しく満足した。川沿いの住吉さんにご挨拶をした後、最後の天満社鬼神社という変った名前の神社にお参りした。その神社は天満様と鬼神社が拝殿が区切られてその奥にそれぞれ本殿があったが、鬼神社の方は鬼のお面がいっぱい掛けられていた。拝殿から外を覗くと、其処から下はずっと低くなっていて変った地形だった。近くのおじさん達が数人お掃除に来られていたが、他所からお参りする人も珍しいのであろうと思うが御礼を言われた。

鬼神社は元々は大己貴命を産土神として祀ったという。

 

今回はこれで終了。別府駅でお別れしてノワタリさんとウチダさんは空港へ向かった。妹と一休みして別れ、叔父の家に向かった。その頃は抗癌剤治療をしており自宅にいた。

その翌月、1回目の手術があり出血を起こすと気道が塞がれ窒息したら危険と言われていたが、冷淡だった叔母が「奇跡よ!一滴血は出なかった。」と大喜びでして来た。その時は気道を塞いでる腫瘍を取り除いたが、縁に付いた部分はもっと体力をつけて12月に病院を替え、大学病院で又手術をすると聞いた。ひとまず一安心した。 

 その旅の数日後、妹は乳癌検査の結果が出ており、やはり癌であった。マンモでも見つからなかったのが又片方にも見つかり、早期発見と言うことで手術をせずに治まった。

ノワタリさんが胸の異変にホテルので隣に座った時、「何か変だな?」と気付いていた。

宇名岐日女神社でノワタリさんと妹の写った写真の顔は何処となく妹の顔でなく変に写っていた。

1ヵ月後、一緒になったヒラサワさんに見せると「これ!彼女の顔じゃないよ。おばあさんの顔だ。死相が出てるよ。」と言われたが、早かったので事なきを得た。本当に有り難い事である。


叔父の病気

2011-05-11 06:26:01 | 日々のつぶやき

普通ならば引き続き大分の旅と行く所だが、その前にこの事をかかねばならない。

きっかけと成った墓参りの時、叔父はよく咳をしていた。その時は余り気にもしていなかったが、その後母とのでもよく咳をするので母が心配して早く病院に行くように言ったが、叔父は「熱は無いから大丈夫」と言っていた。

しかし、何故か9月の初旬気になった母が叔父に連絡を取ると、気道の癌で3日前から入院していた。母は泣き崩れた。小学校4年で祖母が病気になり母親との縁の薄く母と20歳も違う叔父のことがとても不憫でならないらしい。

本来なら母が行く所、夏ばてでその体力が無い。ノワタリさんに連絡を取ると、「残念ながら私には手が出せない。」と気の毒そうに言われた。「でも、あなたがすればいいから、早く叔父さんの所へ行くように。」と言われたが、ノワタリさんが手を出せないという事はかなり悪いと言うことだろうと思った。すぐに妹に連絡を取り仕事を休み出かけた。幸いにも、左手首の骨折は腕の添え木と三角巾は8月の下旬には取れていた。

国立病院に見舞いに行くと、5月に在った時と大分変り叔父はとても小さくなっており亡くなった祖父に良く似ていたが、影が薄く叔父とは一瞬気付かなかった。

気道に腫瘍が出来て話すと喉の奥からヒューヒューと風が吹いているような音がした。でも、私達が行った事をたいそう喜んでいるみたいだった。

大変珍しい癌で担当医も本で読んだことはあるが初めての事なので母校に問い合わせながらの治療だと言う。同じ呼吸器系の患者の3人部屋は重苦しい雰囲気だった。叔父の家庭もうまくいっていない事もあり、叔父はもう人生を捨てていた感じであったのだろう。

久しぶりに会う妹と世間話をした後、朝日を日拝する事と腹式呼吸をする事を伝えた。

夕方になり叔母がやってきて私達を街までで送ってくれると言う。叔父は名残惜しそうに玄関まで見送ってくれ、私達の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

の中で叔母は病気の経過を話した。7月に結婚する予定の長男の相手の家族と顔合わせをする為に上京し、その後、叔母が信心している日蓮さんをお参りするため、身延山まで行ったけど叔父は動けず麓にいたと言う。よくそんな体にになっているのに叔父を厭う事もそんな状態までほっといた事にも腹が立った。

8月には本当に体力が無くなり仕事から帰るとすぐに横になっていたという。「病院へ行ったらと何度も勧めたんだけど、聞かなくて。でも、お友達が病院に予約したからと言って、家まで迎えに来て強引に連れて行ったのよ。其処では手に負えなくて『大きな病院へ言ってください』といわれてね~」と笑いながら叔母の話は続いたが、それはお友達でなくあなたがすべきでしょと言いそうだった。

「それでも行かなくて、その友人が国立病院までで乗せていったのよ。」と言う。何と有り難いお友達、命の恩人だ。

でもその国立病院は家から徒歩でも10分掛からない。聞いているうちに、叔父は生きる事に投げやりになり、病院にも自分からは行かなかったのだろう...叔父の空虚感と寂しさを思うととても辛く、笑いながら無神経に話す叔母に腹が立ち、途中で信号が赤になった所で妹と降りた。

以前から叔母が叔父を軽んじていた事は知っていたが妹と暗く沈んだ気持ちで夕飯をとって別れた。母にどう伝えようかと重い足取りでに乗った。

しかし、危惧に終わり叔父は見舞った後、元気付いたのか明るい声で母にして来た。

半月後、数冊の本を持って見舞いに行くと前回と変り表情も明るく、良く話した。人の好い叔父なので友人達が見舞いや本や差し入れに入れ替わり立ち代りやって来て話して帰った。

毎朝、廊下で別府湾から登ってくる朝日を拝み腹式呼吸をしている事を行った。丁度廊下の先には海が見え松の木が数本海岸にあり、其処を指差した。

放射線治療をしているのだがそれだけでもう用が無いので本を読んでいると言う。叔父の胸には+の印が書いてあり、やけどをしないようにする為、日替わりで焼き鳥の串のように正面、背中、右、左と回りながら当てると言う。

しかし、それでも同じ部屋の人は喉を火傷して、熱い物も冷たい物も飲めないと言う。

隣家の人が同じ頃オートバイの交通事故で入院しているが、一度覗いたら部屋の雰囲気が全く違って明るかったと叔父は言った。病気と違い怪我は日数が経てば良くなるので希望がある。

しかし、前回と違い叔父も明るくなっていたのでほっとした。

その後叔父は火傷にもならず、抗癌剤治療に移った。