きのうは建国記念日だったんだなあ。世情に疎いやまん中暮らし、TVで日本書紀のことをやってていろいろまた考えてしまうが日本の建国というのは大和朝廷の成立をもってその日とするんだろう。僕は古墳にいたくのめりこんでしまって、特に弥生の墳丘墓から前方後円墳が登場するころの3世紀、4世紀に興味をそそられ少し勉強してみたことがあった。それで時代は大和朝廷成立の時なので、自分なりの日本書紀、私見を述べてみたい。3世紀倭の国は諸国に国が成立し邪馬台国といえばわかりやすいだろうが連合体ができていく。邪馬台国論争というのがあるが僕はあくまで邪馬台国は九州連合でそのような大きな国が瀬戸内連合、東海連合、日本海連合、これは言わづと知れた出雲の国を中心として北陸越後の国までがまとまった大連合である。という情勢の中でさらに大きな連合体への必要性に迫られ、それは具体的に朝鮮半島情勢であったリ、また鉄の争奪戦の中でその分配をめぐる争い、いろいろあったろうがとにかくまとまろうとなり大和政権みたいのができていく。この時出雲の国はその立地の良さと国の繁栄になかなか入ってこようとしなかった。そこで登場するのが威雷の神と大国主命の談判、国譲り神話である。そこでどおいう条件が出されたのかともかく出雲連合も大和政権の仲間になり大和朝廷が成立していく。ここで面白いと思うのはそれが武力制圧ではなく、卑弥呼の擁立の時もそうだったが話し合いによる連合体になることだ。その連合体の結束を図るための一つの象徴が前方後円墳だった。葬送儀礼というのは民族固有のものがあり墓を見ればどの民族かわかるのである。そこで昨日まではそれぞれ別な国として別な墓を作っていたのが我らは今日より一つの民族、同じ墓を作り同じ民族としてまとまっていこうということで前方後円墳が考え出されたのだ。この特異な形からまた五万といろいろな説が出されるが僕は単純に考える。それは個々の連合体墳墓の合体である。前方部は出雲の四隅突出墓、後円部は円墳である。ともかく連合体として出発した大和朝廷は連合体ゆえの弱さの中に様々なことが起こるがこれがより強固に国としてまとまるのは雄略天皇の時代を待たねばならない。この雄略天皇も不思議な人である、たぐいまれな武人でありそれでいて、万葉集第一の歌が雄略天皇である。それはともかく日本第一の巨大古墳、大仙古墳は誰が被葬者かといわれるが僕は雄略天皇を上げておきたい。