さて、相も変わらず『社会にとって趣味とは何か』レビューです。
先週は「M1」さんのAmazonにおけるレビューをご紹介しましたが、実はそれ以降、本書の編者であるところの北田暁大師匠がレビューのコメント欄に登場、激しい論戦が繰り広げられました。
レビューが消えてしまい、この師匠の貴重なお言葉も、それに対する「M1」さんのコメントも、現時点では読めなくなってしまっているのですが……それはあまりに惜しいと、採録させていただくことにしました。
ただ、本当に専門性の高いやり取りになってしまい、読んでいてぼくも部外者感がハンパありませんでした。
一応、ブログ主の特権で「*」マークをつけ、ちょこちょことコメントめいたものを挿入してはいますが、それにはあまり惑わされず、読み進めていただければ幸いです。
さて、しかし本件にかかわるのがぼくだけという状況はどうにも心許ない。
もし自分のブログでも「M1」さんのレビュー、またコメント欄を転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
それでは、以下から本文です。どうぞご覧ください。
* * *
M1さんへのお返事(1) 北田 暁大
これ星つけないと書けないんですね。自分の本を評価するのはものすごく恥ずかしいですが、とはいえ一定程度の自信をもって上梓したものですので真ん中の「3つ」で勘弁してください。この星は参考にしないでください(笑)。
M1さん、詳細なコメントをありがとうございました。社会科学を学ばれているかたとのことで、広義での学問共同体の共同構成員でもあり、できるかぎり誠実に回答したいと思います。主として私の担当箇所についてのご批判かと思いますので、その点に限定して、かつまずは簡潔にお返事させていただきたいと思います。おそらくM1さんが一番気になっている「フェミニズム信者」という問題系は後ほど。
1. 「腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ」
→まず何度も繰り返し書いているように「≒」としており、かつ操作的定義である旨は明確にしている点をご勘案ください。「全員」という対応条件の設定は無理があります。もちろん「≒」としつつ、可読性の観点から「=」と読みうる書き方をしている箇所があるのは事実です*1。仰る通りこのエコノミーは部分的な引用などの場合、誤解を招きかねず、本来的には回避すべきものであり、その点は問題なしとはいえません。しかし論文に課せられたデータの性格の限定性は明示しているので、論文全体を手続き論含めて読んでそのような解釈に至ることはありえないと考えます*2。
*1「可読性」という言葉の意味はわからないのですが、それこそが問題なのではないでしょうか。ある時は「≒」としながら、ある時は「=」となっているのですから。
*2 これは、「自分は腐女子と二時創作好きの女性を同一視などしていないぞ」と言っているのでしょうが、ならば、なおのこと、それで腐女子についての妄想をたくましくできる理由がわかりません。「腐女子について語る資格なし」以上の論評はしようがないのではないでしょうか。
2. ヤクザの条件設定と「二次創作に興味のある女性オタクをとりあえず「腐女子」とみなす」という条件設定は、果たして対応するものでしょうか。本論文では「二次創作好き」と「オタク尺度」の二つをもとに操作的に「(≒)腐女子」という定義(変数構成)を行っており、仰る通り「二次創作好き=二次創作をしている」「二次創作=BL」ではない、というのは確かです。BL好きと二次創作好きを識別しうる質問項目を入れておくべきであったことは確かだと思います。しかしこの点の留意は書いておりますし、二項目をもとにした操作的な変数設定を、ヤクザ条件と同一視するのはいかがなものかと思います。a「ヤクザに興味がある≒ヤクザである」とは違い、b「二次創作に興味がある≒二次創作に興味がある女性オタク」としているので、「興味がある」ことと「ある成員カテゴリーに属すること」の意味がa,bでは異なっています。興味を持つことが集団カテゴリーに含める根拠となりうるケースとそうでない場合を識別すべきではないでしょうか。ここは数字だけでどうこうできる話ではなく、意味連関を考察すべき事柄であると思います。
3. 概して操作的定義ですので、執筆段階でも「腐女子と「≒」にするのはいかがなものか」というご意見はいただきました。ここは「二次創作好きでオタク尺度得点が高い女性には腐女子でない可能性は低いのではないか」という判断をもとに私の判断で「≒」としました。それは操作的な定義(というかカテゴリーの創出)ですので、この判断が誤っている可能性は十分にあり得ます。またBLへの指向も聞いていればより正確な情報を得られたということは間違いありません。ただ、「腐女子である」というカテゴリーの自己・他者執行を正確にどのように分析するかは、それこそEMや概念分析的な分析を期すしかなく、「BL志向は本質的なものであるか」は最終的にはそうした分析を経て判断すべきことであり、操作的な概念・変数の設定で分析者が議論しても収拾がつくようなものではないと考えます(つまり、分析水準でいえば、BL指向が「腐女子であること」にとって本質的という判断もまた、私の判断と同じ水準にあるということです*3)。とはいえ、「≒腐女子でも絶対ダメだ」といわれるのであれば、それは仕方がなく、そうするとなにが分析上問題となるのか、を指し示していただければ、「≒腐女子」という表現は撤回して、「二次創作好きのオタク尺度の高い女性」に関して、見受けられる傾向の分析として再提示いたします。しかしご批判のなかでは、まだこの点が私には理解できないでいます。もしかすると、フェミニズム的偏見という話が関係しているのかもしれません*4。この点については後ほど。
*3「腐女子という言葉を同定義するのか、難しいね」という一般論をいきなり「BL好きだからと言って腐女子とは限らない」という奇妙な物言いにスライドさせた、おかしな物言いとしか思えないですね。
*4 これはご明察という感じで、恐らく師匠の中に、「二時創作好きのオタク女子」の中に、「普通の、男子向けの萌え作品の美少女エロを描く者」がいることについて、目を伏せたかったのだ、と推測することは充分可能でしょう。
これからお仕事なので、帰宅後また続きを書かせていただきますが、ごく簡単なテクニカルな点のみ。
※ 「「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。」あくまで%は有意水準を示すものであり、「10%で有意」というのはごく普通の書き方です。有意性判断(および関連の強さ)そのものは有意確率の大小で決まるものではありません。つまりp値が.01、.05なら有意で、.1なら有意ではない、ということではなく、「有意である水準をどこに置くか」という分析者の判断です。通常5%がとられますが、10%だからといって有意ではないということではありません。(ただし、ある論文のなかで5%未満を有意とするという宣言をした場合には、10%有意であっても「有意ではない」と記述します。しかしそれは有意ではないというのと同値ではありません。私も基本的に有意水準5%を指標にして分析していますが、とくに単純比較で実数での差が読みにくいような場合、参考として10%も記すことがあります。当然ながらその都度明示してのことです)
※指導教授は本当に「因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がない」と仰ったのでしょうか。回帰分析などで変数が増え過ぎないように因子得点を出したり、質問項目の傾向性をみるために因子分析や主成分分析をすることと、個別の質問項目を検討していくことは両立するものです。個別回答の持つ情報量を重視して個別に分析する場合と、回答間の関係を知りたい場合は、混同してはならないものの、どちらかだけに絞るべきということにはなりません。もちろん回帰分析等で因子得点を入れるのであれば、精査して個別質問を変数としたカテゴリカルな処理をすべきというのであればそのとおりですが、それもいったんしたうえでの論文での提示となります。いずれにしても始動教授のかたの指摘の含意が分からないので、ご教示頂けると幸いです。
「フェミニズム信者によるイデオロギー的な分析だ」というご批判については、あらためてご回答いたします。とりいそぎ。
///////////続き//////////////
まずは手続き的なことから。
4. 「「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。」→注意深くお読みいただきたいのですが、ここでは(1)まず二次創作好き女性オタクの「マンガの登場人物に恋をしたような気持になったことがある」への肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」の低さ、対する二次創作好き男性オタクの男性内での高さであり、この相違がなぜ生じているのか(どのような変数と関係しているのか)、という問題であり、たった二つの設問であれ、対照性を説明することは非合理なことではありません。(2)とはいえその対照だけで解釈するのは難しいということで次に、友人関係因子得点、友人数、学歴、暮らし向き、オタク尺度、モテ自認などを独立変数、「マンガみたいな恋をしたい」を従属変数とした回帰分析をしています。M1さんは「2つの質問だけで」と書かれていますが、ここでは友人関係含めると20近い設問の関連が問われていることになります。その結果(3)男性においてはオタク尺度とモテ自認に効果が見られたのに対して、女性では見られない、という結果を得て、「女性二次オタクの場合、オタク的な情報行動をとること、「モテ/非モテ」の感覚が、「マンガみたいな恋をしたい」に関連していない可能性が高い」という解釈を経て、(4)「マンガみたいな恋をしたい」に対する男女差をreasonableに解釈しうる可能性の一つを提示しています。ここを「二つの質問だけで判断した妄想」と考えるのは無理があるのではないでしょうか。「登場人物への恋愛」については、そうした点を踏まえた上で、女性他群との比較で解釈しています。ご確認ください。
5. 「「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。」→額面通りに受け取ると有意差という概念そのものが崩壊しそうな気がします(そういう立場もあるでしょうが、そうした技術的なことを仰っているわけではないようです)が、まずなにより「76.1%に上るが…」と始め、(1)その数値の高さそのものをまず確認し、(2)他の女性群に比して優位に低い値であることを主題化しており、ようするに統計的な傾向性の分析であり、あるカテゴリーに属するメンバー全員の「属性」を言っているわけではありません。100点満点のテストで76点は「低い」とは言えない気がしますが、平均や分散を考えたときに「低い」と言える場合にはその因果関係や意味を考えたりしますよね。それと同様です。また(3)76.1%が「低い」というのも統計的な意味においてだけではなく、「20歳前後の多くの若者たちにとって結婚も出産もリアリティのある話ではない」、つまり、「高くて当たり前」と私も考えるため、低さについての解釈が必要である、として議論を進めています。ツイッターでバズったp291の図は標準得点化したものなので、劇的に見える効果を持ってしまいますが、標準得点化した(実得点ではなく偏差値をみる場合のように)事柄を比較考量する必要はままありますし、お読みいただければわかるように、これらは単純な標準得点の比較だけではなく、クロス分析、回帰分析や対応分析等複数の方法で精査しています。「76.1%」を統計的に考えることと実感的に考えることはいずれも大切ですが、私は相応のデータをもとに「ジェンダーセンシビリティ」の傾向の現われと解釈したわけで、実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論はいかがなものかとも思います*5。また私の記述が全称化しているように思われたとしたら申し訳ない限りですが、「相対的に否定的な態度(p301)」などカテゴリーを人格化しないような表現の努力はしたつもりです。統計的な比較分析で「「日本(人)は…」とまとめ上げるのはおかしい」と批判されるのであれば、それはその通りですが、その限界は分析者も認識することであり、またM1さんが社会科学をされているのであれば、集団カテゴリーの統計的差異についての分析が無効とは考えないことと思います。私の記述に全称化を疑わしめるものがあったとすれば申し訳ない限りですが、論文全体を丁寧にお読みいただければ、そのように捉えられることはないと思います。
*5 問題は腐女子の全員が全員、フェミ闘士であるかのように師匠が描いていることであって、「普通の女子より、フェミ女がちょっと多いよ」という分析であれば、誰も文句をつけていないのでは。
6.「北田さんが、本人の「意識の存否に関わらず」腐女子は男性中心主義的な世界観に異議を申し立てているというのはプルデュー的と言うよりも、フロイトの無意識説のように反論を認めない決めつけや言いがかり的であるというのがゼミでの結論でした」→まず「意識の存否」と「問われれば応えうる/えない」の違いについて、第二章で相当に紙幅をとって説明しています。「問われれば応えうる」自己行為の意図を(統計的な手法で)近似値的に確認し、その後に妥当と思われる推論を経て、解釈を得ることは、それ自体「非科学的」なことではありません。その手続きの不備が批判されるのであれば甘受したしますし、今後の研究で修正していきたいところですが、M1さんは意識的である/ないと意図である/ないとの区別を受け入れられないように拝察いたします(その意味で、賛否は別として私が批判したブルデュー理論と同様の前提をとっているように思えます。フロイトの話がどこから出てきたのかもわかりません)。その方向性で行くとほとんどあらゆる社会意識の統計研究が無効になるのですが、私はブルデュー批判の文脈でそのような主張をしていません。その意図的と判断しうる根拠として、私は自分たちのデータセットだけではなく、牧田さんなどのBL計量分析や東さんのやおい研究を参照しており、「二次創作好き女性オタク」における表現様式とそれが意味するものについて考察しているわけです。その適否はお読みいただいた方にご判断を願うしかありませんが、必要にして十分という分析が経験的に不可能である限り、「いいかがり」という判断と、「他の解釈も可能なのになぜ阻却しているのか」「他の解釈のほうが妥当だ」という他の解釈可能性の提示は、まったく異なった主張です。「いいがかり」と仰ったM1さんにこの点説明責任があると考えますが、いかがでしょうか。
7.ちょっと見落としていたのですが、6とも関連する事柄として。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデューの「ある趣味を自認しない者もその趣味の界の中に取り込まれ、その趣味による差異化・階層化ゲームのプレイヤーになる」というあたりから考えたのでしょう」とありますが、第二章ではかなり明確にブルデューの立場(対応分析と社会空間論)を方法論として批判しており、そのさいに「ルールに従うこと」「意図的であること」については、相当紙幅を費やしてブルデューとは異なる立場を明示しています。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデュー」という信念はどこから生じたのか、いささか疑問に思いますし、本書の総論でもある第二章をお読みいただけてないとすれば大変残念に思います。
8.以上の点をご再考いただいたうえで、「フェミニズム信者の妄想」というそれ自体根拠に乏しい解釈を正当化していただきますよう、お願い申し上げます。むろん社会科学は無謬のものを提示することが使命ではなく、反証可能性を持つ経験的性格を持つデータと推論を提示することが旨かと思います。その意味で統計的なデータの取り扱い等、それに基づく解釈については、M1さんご自身がされているように反証可能性があるわけで(反証になっていないと今のところ私は判断しますが)、実際専門的な社会統計家からも有意義なご批判を頂いております。とりわけ「イデオロギー」というよりは、わたしが山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判についてのご見解を詳述していただけると幸いです(M1さんのレビューにはここの記述がまったく見受けられないので)。「フェミニズム信者の妄想」という解釈は、きわめて理論負荷性が高く、またフェミニズムという言葉で含意されているところの内実についての認識の妥当性が問われうるものです。「イデオロギー的だ」と相手を批判するときは往々にして、自らもイデオロギー的になってしまうものです。まずは1~7までお読みいただいたうえで、適切な「科学的」な対応をお願いいいたします。
※「さすがは上野千鶴子さんの後輩ですね。男性社会に対する怨念こそがフェミニズム系社会学の命なのですね。」と書かれていますが、制度的には上野さんの後輩ではないですよ(笑)。それはどうでもいいとして、上野さんにフェミニズム運動の旗手として敬意を払っていますが、上野さんと私とは、社会学的には、計量分析の捉え方、構築主義の捉え方、マルフェミ・ポストモダンフェミニズムの捉え方、歴史認識、経済政策、移民問題に至るまでまったくといっていいほど考え方が異なり、その都度私は批判を差し出してますし、上野さんもそれを認識されています。M1さんだって指導学生だからといって指導教員と同じ考えや理論的・政治的立場になったりしませんよね? 「怨念」という理論負荷性がものすごく高い解釈を提示されているわけですが、まずは1~7について精査していただきますよう、お願い申し上げます。
※※わたしは特に個人特定等には興味がありませんが、ゼミで「いいがかりだ」という結論に達したというのはやや気になるところです。口外は絶対にいたしませんし、とくだん戦闘的な姿勢をとったりもしませんので、東京大学の情報学環HPのわたしのメールアドレスにご連絡いだければ、ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸いです。そこでの議論を流していただいても一向にかまいません。相互批判はなによりも学問的な共同体の存立にとって大切であり、山岡本と本書を読み合わせて頂いたことは、本当に嬉しく思います。ご検討頂けると幸いです。
北田先生へ M1
友人からここがすごいことになっていると言われて、見てみたら北田先生自らのお出ましとはビックリしました。光栄ですが、M1ごときにはある意味恐怖を感じます。
ご期待に添えないとは思いますが、いくつかお答えしたいと思います。
1,「結婚したら子供を持ちたい」について
実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論、と北田先生は解釈なさったようですが、それは違います。山岡さんの「腐女子の心理学」との対比で話をします。もともと山岡さんの「腐女子の心理学」と北田先生の「社会にとって趣味とは何か」を対比させて読んだことがもとになっているので、このような形になることをお許し下さい。
私の指導教授は社会科学の科学性とはいかにデータで現象を捉えることができるかにかかっている、というスタンスで研究に取り組んでいます。思想性はバイアスを生み出すものと考えています。ちなみに北田先生の「ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸い」というお言葉を伝えたところ、指導教授は「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とのことです。データ至上主義的なところがあるので、議論で何とかなるものはエビデンスとしての力がないという考えです。なので、「議論よりデータ」ということだそうです。
さて、山岡さんの「腐女子の心理学」ですが、例えば、研究5-1でオタク群の交際経験率は一般群よりも有意に低かったことを報告したうえで、次のように書いています。「オタクはモテないから異性交際の経験がないことを示す結果とステレオタイプ的に判断すべきではない。そうであれば、オタク群の交際経験者よりも未経験者の方がはるかに多くならなければならない。しかし現実には、オタク群全体でも、男性オタク群でも、恋人との交際経験者の方が未経験者よりもはるかに多い。この調査結果ら言えることは、あくまでも、恋人との交際経験率がオタク群は全体より低いということだけである。(p.115)」
北田先生はいろいろと前提を述べた上での議論であることは理解できますが、有意であるから、自分たちのジェンダー論と整合するから、「腐女子は家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている」ことにしています。カイ二乗の捉え方なんでしょうが、指導教授は「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです。ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。
2,北田先生が山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判について
北田先生のオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目ですよね。つまり、北田先生が「オタク」と操作的に定義している人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物ということで良いですよね? 北田先生のオタク像の中ではオタクにとって、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数とですよね。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
北田先生は山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判されていますよね。
これは、ゼミでも議論になりました。この話に関しては、「腐女子の心理学」のレビューに書こうと思っていたのですが、北田先生のためにこちらに書くことにします。
はっきり言って、北田先生が山岡さんを批判するのと同じことをご自分でやっているのではないでしょうか。少なくても私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田先生の設定がおかしくないとは思えません。区別がつきませんでした。どこが違うのか教えて下さい。
また、これは私の誤解である可能性が高いのでしょうが、北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか。オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。おそらく来年、オタク・腐女子関係のテーマで修論を書くと思うので、参考にさせて下さい。
また、やっぱり理解できないのですが、「二次創作に興味がある」が、腐女子を腐女子たらしめる要因であるとは思えません。商業BLなどの読者も多いですが、二次創作に関心がない腐女子の友人も結構います。また、「二次創作への興味」という同じ質問に対する回答を男女で意味が違うと断定している根拠は何でしょうか。女子でコミケに行っている友人たちでも腐女子ではない人もいくらでもいます。
質問です。ここまで書いていて、何となく私がもやもやしている理由がわかったような気がします。北田先生は腐女子の操作的定義は明記していますが、概念的定義は明記していましたでしょうか。私の読み落としの可能性もありますが、ここで北田先生が腐女子をどのように概念的に定義していらっしゃるのか教えて下さい。概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね。オタク度が高く「二次創作に興味がある」女性を操作的に「腐女子」としているわけですので、そのもとになった腐女子の概念的定義を愚かなM1に教えて下さい。よろしくお願いいたします。
M1さんへのお返事(2)
重ねて拙著についての詳細なご検討を感謝いたします。私の返信(1)に対応するお返事をいただけておりませんが(部分的なご回答であるとの印象です)6/6に追加された内容について、とりあえずのお返事をしておきます。https://www.facebook.com/akihiro1971/posts/1366519266770913?pnref=story
その前に2点ほど学問的な相互理解のための確認をさせてください。
(a)「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」→
こういわれると、どうしたものか困ってしまうのですが、いかに学問共同体の成員であっても立場の非対称性がある限り、私も修士課程1年の方にこうした詳細な反論はしないと思います。しかし、M1さん(そして指導教授も)は、匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、「(学問的評価に関して)安全な批判」の立場であることが可能です。
もちろん、先述の通り、私はM1さんのお名前や所属を知りたいわけではありません。ネットでこうした批判をすることも当然の権利でしょう。しかし、イデオロギー的立場の如何ではなく、学問的な水準での適切性を論じたいというのが趣旨であると拝察しますので、書き込ませていただきました。私の反論そのものが抑圧的であると感じられるようであれば、アマゾン・レビューという公的な場を選択されたことに疑問を持ちます。議論をするのが目的ではないのであれば、「この本を肯定する信者の皆さん、コメント待ってます」は空手形になってしまいます。立場の非対称性についての話はこれきりにしてください。
(b)経験的科学としての社会(科)学についての認識確認しておきたいところです。指導教授の言葉として「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とされていますが、これは相当にそれ自体理論負荷性の高い社会科学についての見解です。たとえば課税のために一世帯をなにを規準にカウントするか、というかなり基本的なことですら、「数え上げるためのカテゴリー」づくりをしなくてはならない、そのとき、常識的なひとびとの信念や理解を踏まえて有意味なカテゴリーづくりをしなくてはならない、というのが社会科学全般にいえる基本的な事柄です。数えるためにも解釈が必要なわけで、この点はおそらく指導教授も認識されていることと思いますので、ご確認ください。「イデオロギーに毒されたデータ解釈/解釈の余地のないのデータ」という0/1ではなく、「社会科学におけるデータ」、とりわけ社会意識等に関しては、なので、この解釈そのものを提示する必要があります。この点に関して、私が解釈をしていることは明示しているはずです。
(b#)指導教授はそのように強い認識論的な負荷をもった主張をされたわけではないと思います。そうした立場(論理実証主義等調べてみてください)もかつてありましたが、ほとんど社会科学の実態を捉える経験的テーゼとしても、社会科学が従うべき規範・規約としても有効でないことは議論されつくされています(少しだけ科学哲学の本を読んでみてください)。状況はこと計量的な研究(質的なものもそうです)に関しては、「弱められた反証主義」が指針となっている、という感じではないでしょうか。
M1さんは、(b1)わたしの議論に対して「反証に合理的に反論せよ」という要請をしている部分と、(b2)わたしの議論は科学的ではない(反証可能性をもたない)という二つのタイプの議論を展開されています。データの解釈についての議論は(b1)の問題系に属するものであり、(b2)とは異なります。M1さんにはどうも、「解釈を要さない社会科学のデータ処理が可能である」という信念と「反証することと反証可能性があることの混同」があるようにお見受けします。わたしの議論は部分的に反証を求められているわけで、そうすると、「社会科学」であるとの認定をいただいたことになります(これも規約的なことですが)。「解釈を要さないデータ」というのは、実はそれ自体経験的(empirical)とはいえない、強い哲学的立場を表明するものです(仰る通り「思想性はバイアスを生み出すもの」です)。この点は、共有させていただきたい「科学観」です(逆に言うと、指導教授はどのような計量的な社会意識研究であれば「科学的」と仰っているのか、具体例を挙げて頂けると助かります)。
匿名/実名のリスク差があるので立場の非対称性はご勘弁をいただきたい、ということと、なにを有意味なデータとするかを含め、とうてい社会科学が満たすとは考えられないあまりに強い「データ至上主義」という負荷は解除して、議論をさせていただけると幸いです。(b)に関して緩やかであれ合意がないと、「科学的である」条件の設定に関する挙証責任はM1さんのほうに生じます。そんな思弁的な負荷を背負う必要はないと私は考えますが…。
さて、内容についてですが、折をみて詳細に書かせて頂くとして、ごく簡単に。
2-1.「「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです」
→指導教授のご見解が、「有意差があったとしても、そもそもの回答の肯定・否定率が高ければ、集団カテゴリーとして分析するさいには留意しなくてはならない」ということであれば、まったく適切な指導方針であると思います。有意差に拘泥するあまりカテゴリカル・データの情報量を見失ってしまうことは回避されるべきことであり、その点を指導教授は指導されたかったのだと思います。
→問題は、「見逃しうる有意差か」という解釈によるものと思われます。M1さんは解釈という言葉を忌避されていますが、ご自身の議論のなかにどれほど多くの解釈が入っているかはお考えください。先述の通り、私も「76.1%は高い」ということは考慮したうえで、「解釈に値する有意差である」と判断しました。また有意差についてχ2乗検定だけではなく、他の変数を統制したうえでの議論も提示しています。これまた繰り返しになりますが、ジェンダー規範については、他の項目でも看過し難い、考察に値する差が検出されており、対応分析をもとにした二軸の図でも、数学的に興味深い位置の遠さが確認されています。「解釈に値しない有意差」と考えるほうが難しいと思う次第です。差に過剰な意味を与えるのは問題ですが、私としては、クロス分析、回帰分析、対応分析などを総合的に踏まえて、「解釈に値する有意差」と判断しています。「解釈に値しない有意差である」ことの挙証責任はM1さんのほうにあると考えます。というよりは「解釈に値しないという解釈」の根拠を示す必要があるということです。ご検討願います。
→これも繰り返しになりますが、わたしが「二次創作好き上位二層_オタク尺度高」の女性をもって「腐女子」と「≒」としたのは、仰る通りたしかにもっと適切な調査票設計が可能であったとは思いますし*6、「腐女子≒二次創作オタク高女性」というカテゴリーを独り歩きさせてしまう(属人的にカテゴリーを記述してしまう)記述があったとすれば、先述の通り、それは申し訳ない限りです。2章を読んで頂ければご理解いただけると思うのですが、私は宮台氏の著作にみられる「カテゴリーの人格化」を厳しく批判しています。繰り返しますが、記述のエコノミーのためそうした解釈を生んでしまったとすれば、率直に申し訳なく思いますが、確率の問題であることも忘れてはいけないと考えます。
*6 この時点でダメな気が。師匠の師匠である東浩紀師匠が「女のオタクはやおいと呼ばれる」と書いて笑われたことを思い出します。
2-2.「失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。」→操作的定義については示していますね。「二次創作好きへの肯定上位二層」で「オタク尺度」が上位二層になる人たちです。M1さんは操作的定義ということで「定義」の日常的用法のほうに目が向いてしまっているようですが、操作的定義というのは、辞書的な・内包的な定義ではなく、その対象の存在論的・認識論的身分に関係なく(「心」や「態度」が実在するかどうか措いておくとして)、「そういうものとして定義して、数え、解釈する」という行動主義心理学において定式化された概念です。わたしは①まず標準的な意味での操作的定義を完全に明示化しており、②そのうえでその定義によって「創り出された」カテゴリーがどのような変数とどんな関連を持つか、を議論しています。「言い訳」といわれるような記述はしていないと考えます*7。
「概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね」というのはその通りだと思いますが、ご存知の通り、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、概念としてどのように使用されているのかは、M1さんはお好みではないかもしれませんが、EMや概念分析(オタク・カテゴリー概念分析の章をご参照ください)、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となります。その点についてはあまりに議論が紛糾しているので踏み込まず、「操作的定義(操作的な変数構成)でここまでいえるのではないか」という議論をしております(全てを一つの論文に求めるのは無理です。私は先行研究に準じて自分のできる範囲の議論を提示したつもりです)。M1さんは、概念的定義が必要である(つまり「解釈」ですね)という一方で、操作的にしか得られないはずの「解釈の余地のないデータ」を要請されています。いささかお応えに窮するご批判と考えます。限定的でしかない操作的定義から質的調査や更なる調査によって概念的な位置づけを考察していく、というのが「科学的」な態度ではないでしょうか。というより操作的でない概念の内容を先に提示せよ、というのはものすごく解釈負荷性の高い要請であると思います。この点もご検討をお願いいたします。
*7 学術的な手続きについてはツッコミを入れまいと思っていたのですが、一つだけ。師匠は「操作的定義」をすること自体には何の不当性もない、と主張しているように読めますが、M1さんも、(そして多くの読者も)「操作定義をすること自体は悪くはないが、その操作的定義の内実がヘンじゃん」と言っているのではないでしょうか。
また、これ以降の師匠の言い分は「腐女子」の定義が難しいので便宜上の「操作的定義」をしただけだ、いいじゃん、というものに読めますが、腐女子の定義は「BLを愛好する者」とかなり明確であり(オタクよりも相当に明確でしょう)、例えばBL雑誌の愛読者を調査対象にするなど、いくらでも考え得るはず。ぼくの目からは師匠は手持ちのデータを利用することの口実として、いろいろと詭弁を弄しているようにしか見えません。
2-3.「独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています」→これはまさしく批判されてしかるべき点であり、専門の研究者からも指摘され、私自身データの見直しをしている箇所です。これは適切な批判であると思います。専門研究者のかたからも「表8-2と8-3 (p.280)、および、表8-4(p.282)において、説明変数である a)「友だちをたくさん作るようにこころがけている」 b)「初対面の人とでもすぐに友だちになれる」 c)「遊ぶ内容によって一緒に遊ぶ友だちを使い分けている」と、被説明変数である d)「同じ趣味の友人が大切」は、1次元の同じ志向を測定しているものを測定している」のではないか、とのご批判を頂きました。この点については、仰る通りと思います。ピアグループから指摘を頂いた後に、このトートロジーを排除しても議論が成り立つか、ということ、分析全体に大幅な変更の必要性が生じるかを検討し、目下全体の議論に影響はないと考えていますが、論文等にて説明をする責任がある、と強く感じています。
M1さんのこうしたご批判は経験的な社会研究にとってとても重要なことだと思いますし、詳述の必要があると思います(反証可能性を認めて頂いているわけですから)。逆にいうと、自らの非を認めたうえで、「山岡本のトートロジー」に関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。私はこのトートロジーをよきものとは思いませんので、説明責任を持つと考えますが、M1さんご自身はトートロジーそのものについてはどのようなお考えなのでしょうか。この点、「トートロジーはダメだ」で合意できると私としては議論しやすくなります。ご検討をよろしくお願いいたします(文中にあるように、このトートロジーを完全に回避することはできませんが)。
2-4.「オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。」→この点ついてはご精読いただきたいと思うと同時に2-3のように私の分析設計のミスもあるので、お返事をお待ちして、誠実に回答したいと思います。「相当に注意するべき」というのが私の立場であり、自らの非を認めたうえで、山岡先生の分析には首肯できません。そしてそのような調査設計をM1さんがなされないことを切に望みます。「同じヒアリングから抽出する」こと自体を問題にしているのではなく、論理的に、抽出したデータ・情報を丁寧に識別すべきというのが私の主張です(「北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか」と問われれば、違うとお応えするしかありません)。そうした疑念の薄い、有意義な研究をされることを願っています。
2-5. 「ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。」→どうにもジェンダー論を忌避されているように思いますので、この点についてはあらためて丁寧にご説明さしあげたいと思います。その前に、データ収集の方法、サンプリング等についてM1さんのゼミでは問題とならなかったのでしょうか。学生調査は予備調査でよく使うもので、また、それ自体意味のあるものですが、M1さんがサンプリングについてはほぼお話になっていないことがやや気になります。また「ゼミの結論」という記述はご自身の主張を正当化するものではありません。あくまで事象とデータ、適切な・合理的な推論に即してご議論いただけると幸いです。
よりテクニカルなレベルでピアグループからも批判をいただいていますが、そうした批判に誠実に対応していくことは学問の基本的ルールであると考えます。M1さんは、「真/偽」と「真/偽の判断がなしうること」を混同され、後者での反論提示により、私の議論が「フェミニズムの妄信」に規定されている非科学的なものと「解釈」されているのではないでしょうか。これまで示した来たように、あくまで批判可能性には開いておりますし、その可否についても理由とともに提示するよう努めています。「言いがかり」「反論を許さないドグマ」「フェミニズムの信者」といった相当に強い思想的解釈は、まずはひとつひとつの論点を検討することによってしか正当化されえないと思います。「ディベート」ではないわけですから、この点もご確認いただきたく思います。
3回目追加レビュー*8
*8 この追加レビューというのは、消されたレビューを再度投稿した時に、追加された文面を意味します。
北田先生たちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないとお見受けしました。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、何となく分かりました。一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわかりませんよね。質問の再利用だから操作的定義は語れても概念的定義は語れないのですね*9。
やはりオタクや腐女子について語る資格なしというのが私の結論です。
*9 この印象は、恐らく本書を読んだ人の多くが抱いたものではないかと思います。北田師匠の方だって予算を無制限に使っていかなる調査もできるわけではないでしょうから(ぼくたちに比べればその力は何千、何万倍も強いでしょうが)、「有りあわせの残り物でお夕食を作った節約母さん」に対してリスペクトを持ちたい気もする一方、カップ焼きそばの戻し湯でスープを作るかのような無理やりさにこそ、ツッコミが入れられているような気がしないでもありません。
4回目追加コメント
北田先生、一つ教えてください。
北田先生は「自らの非を認めたうえで、山岡本のトートロジーに関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。」と書いていらっしゃいますが、山岡さんの研究1は北田先生がトートロジーとおっしゃる意味も理解できる気がしますが、他の研究はどうなのでしょうか? ほぼ、山岡さんの「腐女子の心理学」の全否定の書き方をなさっているように感じます。「腐女子の心理学」には多くの研究結果が書いてありますが中にはどう考えてもトートロジー批判が当てはまらない研究も多いと思います。「腐女子の心理学」全否定ならその理由を、研究ごとに否定と許容なら研究ごとに許容の理由と否定の理由を教えて頂けないでしょうか?北田先生のお答えは、私の今後の研究の有益なガイドラインになると考えています。ご教授お願いいたします。
5回目追加レビュー
「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」に対する北田先生のコメントに対して
北田先生は、「匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、『(学問的評価に関して)安全な批判』の立場であることが可能です」と書いていらっしゃいます。これは、本を書くことを含めて表現行為に伴うリスクではないでしょうか。一読者からの批判を許せないのなら、本など書くべきではないのではないでしょうか?学会誌に論文を発表して、匿名不可で議論をすれば良いのではないでしょうか。本を広く出版することで著者は利益を得るわけですから、一読者の匿名の批判は受益者が負担すべきリスクであると考えます。
おそらくご自分では気づいていらっしゃらないのでしょうが、東大の教授というのは社会的な権威です。その権威者が一読者に対してこのような丁寧なコメントを下さることは大変有り難いことと思いますが、同時にやはり恐怖を感じます。北田先生は☆1つのコメントを書いた私に対してだけではなく、本人コメント削除のあおりで消えてしまった☆1つのレビューに対しても即座にコメントを返しています。さらに私のレビューへのコメント欄で、アマゾンレビューとは無関係な中央大学法科大学院の大杉謙一先生のツイッターに対しても否定的なコメントをしていらっしゃいます。このような反応をする方に、まして、東大教授に対して恐怖を感じるなと言う方が無理です。それでも、著者から直々にご教授賜る機会はありませんので、勇気を振り絞ってコメントしている次第です。もちろん北田先生にはそのような意図はないと信じていますが、「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」というお言葉は権威者が被害者面して議論を封殺する安倍晋三大先生に近いものを感じてしまいます。もやもやが強くなります。男性権威者の態度にこのようなもやもやを感じるとフェミニズムに目覚めるのかもしれませんね。「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」という北田先生のお言葉に権力者の卑怯な言論封殺の臭いを感じてしまいます。このようなコメントは北田先生のイメージダウンになるのではないかと心配してしまいます。僭越ながら、あまりこのようなコメントはなさらない方がよろしいのではないでしょうか?
「腐女子の操作的定義と質問項目」について
やはり、私がこだわるのは腐女子の概念的定義の曖昧さと質問項目の大まかさです。質問項目に関して北田先生は、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」というお答えを下さいました。確かにセクシュアリティに関する質問などは答えづらいだろうし、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄なのかもしれません。山岡さんの「腐女子の心理学」でも、アンケートの目立つところにあったBLを読むかという二択の質問ではNOと答えていても、多くの質問項目の中にあった「BLを好んで読むか」という質問項目では肯定的に答えていた人がいたことが書いてありました。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「腐女子の心理学」ではあまり感じなかったけれど「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやを生み出す原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法なのでしょうが、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。
また北田先生は本文中で概念的定義を明記なさっていませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、というコメントをなさっています。海法紀光さんがコメントなさっていますが、私も海法紀光さんに賛成です。
明確な概念的定義はしていないけれど北田先生は次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論されています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。
また、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き=二次創作をしている」という仮定が正しく、それが腐女子の条件になるのなら、「二次創作に興味がある非オタク」の類型は意味をなすのでしょうか?二次創作作品を読んでみたいという意味で積極的に興味を持つ人はオタクでしょう。しかし「二次創作に興味があるか」と質問された場合、二次創作についてよく知らないオタクではない人でも、よく知らないからこそ二次創作に興味があると答えたひとがいたのではないでしょうか?この「二次創作に興味がある非オタク」の存在は、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き」という前提自体が破綻していることを意味しているのではないでしょうか?
やはり北田先生のご研究は「腐女子に関する研究」であるとは思えません。北田先生からコメントをいただいて明らかになったところもあります。コメント感謝しています。明らかになったことは、北田先生が「社会にとって趣味とは何か」の中で紹介している調査結果から「オタクや腐女子について語る資格はない」という私の結論に確信が持てました。
北田先生、ありがとうございました。
【M1さんへの最後のお返事】 6/11北田
ご返信するかどうか自体、ややためらいはあったのですが、学問的といえる事柄について二点のみ、簡単にお答えしておきます。
3-1. まず、若者の趣味の全般的調査であることがそのものとして問題であるわけではありません。この点はM6さんがお書きになってるように、インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあります。直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もあり、「いかに聞くか」「それで何の回答が得られるのか」というのは、ラザースフェルド(計量社会学の走りの人といってよい人です)以来、理由分析(reason analysis)といった形で、計量分析でも伝統的に問われていることであり、研究の目的に即して問いの設定を考える、あるいは問いで問えたことになっている事柄の限界を考えるうえで不可欠の作業です。つまり特定の問いでいかなる回答が得られたかは、様々な変数間の関連の分析等も考えつつ、「解釈」しなければならない事柄です(本書p142~の分析をご覧ください)。
仰る通り、BLの読書頻度や二次創作へのかかわり方(書くか、読むだけか)などを組み入れればより情報量のある分析ができたでしょう。また第七章のように、概念分析の視座を採りこんで、いけば第四章のように「自認」と、先行研究・民間社会学的推論から尺度化された操作的カテゴリーとの差を分析の対象とすることもできるでしょう(自認/情報行動の差はとても大切な分析テーマであることは繰り返し論じています)。その意味で、8章は限界をもっています。このことを否定するつもりはありません。しかしそれは―私でなくてもよい―次なる論文・研究が取り組むことで、私は、私なりに自らの用いた「問い」への回答から合理的に説明できるであろう事柄を書き留めたわけです。「不十分であること」と「読むに値しない/非科学的」、「ある記述が偽・不適切である/記述の真偽そのものが問えない」は異なる事柄です。この点は繰り返しになりますが、ご確認ください。「解釈の余地のないデータ」と論理学的推論でやっていくというのは、社会科学においてはきわめて困難なことであり、またありえたとしてそれが適切であるとは思えません。このあたりは、それこそ『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』『社会科学の方法論争』等の基本文献をご覧ください。総じてM1さんの規準で行くときわめて多くの社会科学的分析が無効となってしまいます。よい統計データをとることは大切で、それを情報量を失わない形で適切に分析していくことはいうまでもなく、重要なことです。それと「解釈無しのデータ」というのは全然違う発想です。
3-2. トートロジーの件については、コメントでの私の書き方が強すぎたかもしれません。私の立場については本書288にあるものをご覧ください。「因果推計のもととなる関連性を調査するのが、回帰分析や分散分析などの多変量解析の目的であるので、こうした意味的なトートロジーは回避不可能なものであるが、他の変数との関連の相違や意味的な検討をもって対処するのが常道であり…」と書き、そこに付された注15(p310)で、変数の関連と因果推計の関連性について、やや踏み込んで書いています。そこで、統計的な精査の他に、意味的・常識的推論が果たす重要な役割を果たすことを述べています。そこを無視して数字だけで語ろうとすると適切性を欠いた因果帰属になりうる、ということです。
二つの変数間の相関係数が1であれば「関連がある(変数は独立ではない)」、0であれば「関連がない(独立である)」ということになりますが、相関係数1というのは「強い相関」ですが、私たちの認識に情報をもたらすものではありませんね。重要なのは、「相関関係がある(ない)こと」と「情報をもたらすものである(ない)こと」の違いです。私が本書で「トートロジーは不可避」といったのは、統計的な関連(無関連の棄却)を求めつつも、それが情報をもたらさない「トートロジー(相関係数1)」にならないよう、分析のさいに投入する独立変数の意味を考えなくてはならない、情報価値があるか否かを解釈しなくてはならない、ということです。そういう意味でトートロジーは不可避だけれども、問いの設定に適切(relevant)な形で、変数を解釈する必要がある、その痕跡が見られないものは問題がある、ということです。
ですので、「トートロジーそのものを全排除する」ということではなく、M1さんには、上記のような解釈のプロセスを重要視してほしい、というのがコメントの趣旨です。
※以上をもって、M1さんとの直接のやりとりを終わりとさせていただきたく思います。表記の修正を明示しないことは別に良いと思いますが、二回にわたって私が極力誠実に論点を分節してお答えした事柄には、ほぼご回答をいただけず、また、お応えするたびにお応えへのご対応なく質問を敷衍し、議論を拡散させていくというご姿勢に、徒労感を感じています。学問は勝ち負けを競うディベート空間ではなく、適切な記述や解釈を目指して、問題点を相互批判し続ける場であるとわたしは考えています。そのconventionからするとM1さんとお話を続けることは難しいと判断しました。
本当に修士課程一年のかたであるのならば、ぜひ社会科学の方法論をめぐる議論の蓄積を参照し、「適切な批判」を創り出す準備作業に勤しんで頂きたく思います。「フェミニズムの妄信者」という結論を導くにはどれほどの距離があるか、「解釈を要しないデータ」なるものを提示せよ、ということがどれほどに「理論・思想負荷的」なものであるか、を熟考いただきますよう、お願い申し上げます。
ご研究のテーマからすると、遠からずM1さんの論考を拝読する機会もあるかと思います。無用に意味分析と計量分析を分断せず、また「解釈」に関する先行研究の蓄積を重視しつつ、よい修士論文をお書きになられることを願っています。これは皮肉でもなんでもなく、この歳になると本気で思うのです。そうした論文のなかで、わたしの議論が反証されていくことはわたしの願うところです。
これまで「誠実なお返事をお待ちしております」と毎回申し上げてきましたが、もう申しません。意義のある修士論文をお書きになられることを願いつつ、これにていったんの私側の終止符とさせて頂きたく思います。
* * *
■兵頭新児の所見
コメントはここでいったん、一区切りという感じです。
正直申し上げると、北田師匠の指摘通り、「M1」さんも師匠の反論の全てにレスポンスしているとは言い難い。感じとしては調査の方法論への疑問から、解釈への疑問へと、議論の軸足を移したい気分になっている、という印象です。そこに師匠が怒っているのは、恐らく学者としての誠実さによるものでしょう(ならばレビューを消したAmazonに対しても、その誠実さを爆発させて欲しいものですが……)。
ただ、「M1」さんも師匠とのやり取りには負担を感じており、「答えろ」と無理強いするわけにもいきません。
(ただ、師匠の気持ちもわかるので、やや彼に肩入れしたような書き方になりました。「M1」さん、すみません)
ところがここで話は終わったのかと思いきや、何と北田師匠は「M1」さんに「セッションに参加してくれ、あなたにはその義務があるぞ」と迫ってきたのです。これも気持ちとしてはわかるのですが、いささかスットンキョウと言うしかない。
以降がその時のやり取りとなります。どうぞご覧ください。
* * *
「腐女子」という概念をめぐる横領、象徴的闘争に与することをは厭います。学術的にも研究倫理的にも。ことここまで至っては、M1さんも「研究者として」調査協力者への倫理的責任が生じると考えます(pixiv騒動はご存知ですね?)。社会学や心理学、社会心理学の専門的オーディエンスを揃えたセッションを開きましょう。わたしが立場が上(?)で、抑圧的というのなら、指導教授や合意したお友達、同意してくれる専門研究者を連れてこられて結構です。私はM1さんというよりは指導教授の指導方針・研究倫理・統計知識について深い疑念を抱いています。個人情報は徹底して管理し、お名前や所属が漏洩することのないように、最大限の配慮をいたします。gyodai@iiii.u-tokyo.ac.jpです。ご連絡をお待ちしております。わたしはいつでもあなたの個人情報を尊重しつつ、議論を開いています。ローデータも持ってまいりますし、断る理由は何もないと思います。
どうしても直接議論するのが躊躇われるのなら、スカイプの捨て垢参加で結構です。ただ、指導教授には顕名で研究者・教育者としての責任を果たしていただきたく思います。指導教授がそれも回避したいというのであれば、学者としての説明責任を放棄したに等しいわけですが、それでも匿名・スカイプまではこちらも譲ります。参加者は、双方が推薦する社会学、心理学、心理統計、社会統計、BL研究者の専門家5名ずつでいかがでしょう。その場に山岡先生をお招きしたとして、なにぶんプロなので山岡先生も前向きにご検討くださることと思います。私のほうから山岡先生にご連絡いたしますので、M1さんは指導教授とご相談ください。
繰り返しますが、あなたには完全な匿名性(私に対する匿名性含めて)が保証されています。拒絶する理由はなにもないと思います。
* * *
■兵頭新児の所見
……以上です。先に「M1」さんが北田師匠を恐れ、「男性に高圧的に迫られ、フェミニズムに走る女性の気持ちがわかりました」と揶揄なさっていましたが、見る限り師匠には「無反省」という言葉が当てはまるように思います。一方では、「追う側の性」に設定されているぼくとしては、師匠に同情するところが、全くないでもないのですが……。
しかし「M1」さんが返答に窮している間に、Amazonのレビューは(繰り返すことですが)またも消え、また「M1」さんが書き込めなくなったといいます。
もしぼくが北田師匠であれば、自分と「M1」さんの「対話」を妨害したAmazonに徹底した抗議を加えることでしょう。
もっとも、「M1」さんはかなり消耗なさっているご様子。対話がなさりたいのならばせめてコメント欄上でなさってはいかがか……と老婆心ながら進言するものであります。
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