続きです。
正直、ニーズがあるのかどうかわかりませんが、また五作を採り上げます。
今回採り上げる『占い大百科』は、ファンの間では女性の恐ろしさを描いた傑作と言われているのですが……あんまりそういう感じの感想になりませんでした。
後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。
『謎のズッコケ海賊島』
●メインヒロイン:なし
とにかく息もつかせぬ面白さの、宝探し話。しかし本当に純粋な活劇であり、ドラマとしては残るものはありません。『ズッコケ』は一作ごとのテイストの落差が激しく、そこも魅力ではあります。
『ズッコケ文化祭事件』
●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子、安藤圭子
文化祭で発表する舞台劇の台本を、近所に住む童話作家、新谷敬三に書いてもらおうというハチベエの思いつきから、話は始まります。
新谷は童話作家としてデビューしながら、児童文学の大手出版社から一冊本を出した後は泣かず飛ばずの四十絡みの男。物語の前半はこの新谷の屈折と、それ故に過去の栄光を振りかざすというキャラクター描写が前面に出ています。
彼は快く執筆を引き受けますが、いざ出来上がってきたものに対するクラス内での評判は今一つ――というか、「古い」「幼稚園児向けのようだ」と酷評の嵐。
ついには台本をアレンジしようという話が出て、プロットは以下のように。
昔々あるところに住んでいた三兄弟が魔法使いに母親をさらわれ、それを助けるべく冒険に――。
→
現代の花山町(三人組の住む町)に住む三姉妹が地上げ屋に父親をさらわれ、それを助けるべく暴力団と大バトル――。
→
現代の花山町(三人組の住む町)に住む三姉妹が地上げ屋に父親をさらわれ、それを助けるべく暴力団と大バトル――。
まるっきり変わっちゃったわけですね。
いえ、外装を変えただけで根っこは変わっていないとも言えますが。
しかしハチベエたち三人組を含め、子供たちは先生のお仕着せでなく、自らの手で劇を作り上げる喜びに目覚めて大奮闘。児童劇団に所属していた徳大寺という男子を中心に、クラス一同が団結して劇に取り組む様が本当に楽しそうに描かれます――読んでいる方は新谷という爆弾を抱えていることが気がかりで気がかりで、居たたまれないのですが――。
劇はめでたく大盛況ですが、見に来ていた新谷は案の定、激おこぷんぷん。担任の宅和先生に嚙みつきます。
宅和先生と言えば、劇のクライマックスに暴力団組長に消火器を浴びせてやっつけるという演出がなされるのですが、これについても「後々校長などにキツい処分を食らうだろう」と覚悟しながらも、子供たちの好きにやらせてやりたいと看過した人物。この文化祭は卒業式間際のものとされ、子供たちに最後の想い出として好きにやらせてやりたいというのが、彼の願いだったのです。
宅和先生が新谷に詫びを入れに行き、大喧嘩に発展する――というのがクライマックスです。
新谷は純粋な、しかし独善的な人物であり、それ故、今の子供の心を掴めない童話作家として描かれます。そんな新谷に、宅和先生が「あなたは自分の頭の中の子供像を守りたいだけなのだ」と一喝するのが見せ場なわけですね。
実のところ、ぼくは初読の時このクライマックスが非常に頭に残り、嫌な印象を持ちました。
宅和先生に作者の言いたいことを言わせてるだけじゃんと。
まさにこの作品それ自体が「子供のためを思って子供の前でマスターベーションをする新谷」そのものじゃんと。
が、再読してみると非常に面白く感じました。
読み直してみると先生と新谷の議論の描写は思ったよりもあっさりしており、膨大な他の描写が、既に上に書いた通りそれを補ってあまりあるほどに面白すぎるのです。いや、そうは言っても子供を廃した大人同士のやり取りに物語の重心があることは、やはりどうかとは思うのですが。
劇のプロット、外装を今風に変えただけと書きましたが、新谷にとってはそれがお気に召さない。「暴力団」が登場するのは小学校の劇としてどうかという意見は、この新谷のみならず親たちの口からも出され、この頃はまだ「子供を縛る大人」VS「それに逆らう子供」といった図式が生きていたのだなと感じさせます(議論においても宅和先生が「子供たちの自主性を……」と言うと新谷が「無責任な大人の大好きな言葉だ」とやり返す場面があります)。
本シリーズ、新書版では、どこのどなた様とも知れぬお歴々の「解説」が入るのですが、この「解説」がまあ、揃いも揃って激痛イタタタの助(やや古いアレンジ)なモノであり、そのうち扱ってみたいと思っているのですが、それらは口を揃えて「保守的な児童文学業界で『ズッコケ』シリーズがいじめられていること」「しかし小説の要は何より面白さであり、それを追求した本シリーズはエラい」みたいなことを言っているのです。
つまり、本作は児童文壇(?)にいじめられ続けた作者の意趣返しという側面が濃厚にあるわけです。
新谷の作品がどうにも啓蒙的で、彼を追い越して人気作家となったライバルの作品のタイトルが『ハッスル夢子のビックリ新学期』というある意味では『ズッコケ』的なノリのものであるなど、そうした描写がふんだんに立ち現れます。
しかし、むろん、それはそれで痛快に感じるモノの、ぶっちゃけ子供が「暴力団の話」を喜ぶというのはどうなのでしょうか。
本作の出版は1988年。実はこの作品の前作(『海賊島』)において、本シリーズで初のファミコンで遊ぶ描写が登場します。
新谷のシナリオを見て、「魔法使いは古い」とする子供のセリフがあるのですが、しかしこの時代の子供にとって「大蛇に化ける魔法使い」って結構ぐっと来るキャラクターだったのでは?
翻って「暴力団」はちょっと、いかにも「大人にわざわざ眉をひそめさせるため(だけ)」に持ち出してきたようなモチーフで、この時期の子供が喜んだのかなあ? という気がしないでもありません。
『オバQ』でも学芸会で(よい子のよっちゃんが『白雪姫』をやろうとするところを)オバQや正ちゃんがチャンバラやスパイ物をやりたがるシーンが出て来ますが、これは要するに「テレビ文化」なのですな(実際、作中でこの暴力団の劇は何度も「テレビふう」「テレビまがい」と形容されます)。それも、ごく初期の「大人が観る番組を子供が一緒になって見ていた」時期にこそ、こうした傾向は顕著だったのではないでしょうか。
本シリーズが「保守的な大人どもをねじ伏せ、子供たちに寄り添った良質な娯楽作品」という側面があることは論を待ちませんが、同時にそうは言っても、ぼく自身も当時から「でもちょっと古いな」と思いながら読んでいたところもある。
それをこうして数十年経って省みてみれば、「右から左から大人たちが涎を垂らしながら子供たちの下へ大挙して、先を争って靴を舐めている姿」にも、少し見えなくもない。で、まあ少子化が叫ばれて久しい昨今ではそれに代わってオタク業界が……(以下自粛)。
本作のラストでは一皮剥けた新谷が新作の童話を書き、そしてそれこそがこの『ズッコケ文化祭事件』なのではないかというメタ構造で話を終わらせているのですが――大変皮肉なことに、テーマ性までがメタ構造を持って、ぼくたちの前に迫ってくるのです。
つまり――「時代は一周していて、実は劇中で子供たちのやった劇こそ時代遅れやったやんけ」と――。
『驚異のズッコケ大時震』
●メインヒロイン:ヒメノミコト
三人組が「時震」、即ちタイムスリップを繰り返す話です。
関ヶ原の合戦、江戸初期、幕末と目まぐるしく舞台が変わりますが、タイムスリップの描写がなくいつの間にか時間移動しているので、子供は「小早川秀秋と水戸黄門と坂本龍馬って同じ時代の人物だったんだ」って思っちゃうんじゃないかなあ。
ラストは邪馬台国と、後、本当にサービス程度に恐竜時代へもタイムスリップ。
上のヒメノミコトは卑弥呼の日本での名前であり、三人組がタイムトリッパーであると看破、元の時代に戻る方法を教示しますが、それは実はタイムパトロール隊員のテレパシー装置に操られてのこと。つまり、『山賊修行中』の土ぐも様のような超常的存在としては、捉えられていないようです。
『ズッコケ三人組の推理教室』
●メインヒロイン:荒井陽子
シャーロック・ホームーズにハマった三人組が探偵を志し、飼い猫の誘拐事件を捜査する……というジュブナイルの見本のようなプロット。
しかし本作が当ブログ的に一つのランドマーク足り得ると思うのは、本作がシリーズ中初めて、ヒロインが「三人組と終始行動を共にする」話として書かれたこと。
『株式会社』では美少女トリオがクライマックスでようやっと「あちらから、こちら側へと入って来てくれる」ヒロインとして描かれましたが、本作では陽子が愛猫が事件に巻き込まれたため、当初はクライアントとして登場するも、すぐに三人と行動を共にするようになり、「四人組」と呼んでもいいくらいの活躍ぶりを見せます。
ドラマとしての深みはほとんどなく、猫を盗んでいたのが元ペットショップ経営者であり、金持ちの猫ばかり狙ったのはそうした連中が憎かったのでは、とハカセが僅かに語る程度。つまり、「俺はオタクが憎い……俺を受け容れなかったオタク界に復讐してやる!!」とばかりに同人誌の海賊版を売りさばくとか、例えばそんな話だったわけですが、そうしたテーマ性は最後に暗示される程度に留まっているわけです。
後、今回は珍しくモーちゃんが自己主張し、また犯人逮捕でも活躍するのが特徴的です。それはそれで面白いのですが、女の子の登場含め、ドル箱と化した本シリーズに、いろいろと出版社の思惑が絡み出したのかな……といった感想も、ついつい抱いてしまいたくはなります。
『大当たりズッコケ占い百科』
●メインヒロイン:市原弘子
以前、『(秘)大作戦』について語った時、とあるブログが那須センセを女性嫌悪の主、と評していたことを紹介しました。そのブログが「那須正幹の女性不信作品群の頂点に位置する作品」として挙げていたのが本作です(作品群と言うほどあるんかい!!)。他のブログを見ても「女性のドロドロとした心理が云々」との評が並んでおり、ワクテカしながらようやっと読んだのですが……期待値が上がりすぎたためか、そんなでもないというのが感想でした。
クラスで占いが流行するという導入部。ハチベエまでが女子に手相占いをし出すのですが、それがクラスメイトの市原弘子に「レイコンさん」の名人である不登校の少女、桐生寿美子を紹介されるに至って、話が一挙にオカルトめいてきます。
この「レイコンさん」というのは恐らく「こっくりさん」という名称の方がポピュラーだと思うのですが、女子小学生、女子中学生が好んでやる、百円玉を使った降霊術。クラスの女子、幸子はなくしたペンダントの在処を聞くのですが、同じクラスの絵美が持っているとの答えを得ます。ハチベエが絵美の鞄を開いて見ると、そこには果たしてペンダントが。
絵美には泥棒の疑いがかけられ、更には幸子と絵美がかねてより一人の男子を巡っての三角関係にあり、ペンダントはその男子からのプレゼント――といった事実が明らかになり、教室はドロドロとした噂話の徘徊する空間となります。
ハチベエ、そして幸子の机には「呪いの人形」が置かれ、さすがのハチベエも大いに恐れおののきます。犯人は絵美だ、いや自分を絵美の被害者に仕立て上げることを狙った幸子の自作自演だ……と更にドロドロがヒートアップするのですが――真犯人は、(要所要所で顔を出しつつも、目立たない存在であった)弘子でした。
彼女はシャーマン然とした寿美子を裏で操り、愉快犯的にクラスを引っ掻き回していたのです。
クライマックスで神がかって怯える寿美子(ちなみに彼女は中一で、一同より年上です)を小柄な弘子が抱きしめて「大丈夫よ」と言ってやっている様など、ゾクゾクする怖さ――と言いたいところですが、ちょっと展開が唐突すぎて感情がついていきませんでした(弘子が真犯人と確定する下りを、ハカセの名推理が見事と評するブログもありましたが、ぼくにはここも唐突に感じられました)。
弘子が幸子や絵美を陥れた理由が面白半分というもので、今一共感が得られないものであったからかも知れません。もっとも、「弘子はモテる女子を妬んでいたのだ」といった深読みも不可能ではありませんが、それと暗示する描写もありませんし。
ちなみにこの絵美、弘子、そして寿美子は共に「栄光塾」というスパルタ塾に通っている(た)ということが途中で明らかになります。そこは成績の優劣によって生徒間にあからさまなヒエラルキーを設定し、生徒たちもぎすぎすして悪質な嫌がらせ行為が横行する悪夢のような塾として描かれます。寿美子、そして弘子の病理もその塾のせいとされ、「痛烈な教育批判」とするブログもありましたが、この塾は直接に描写されることもなく、正直「取り敢えず悪者が悪者になった理由づけとして、塾を出した」以上の印象を抱けませんでした。
最後は、女子がちょっと怖くなったハチベエがバースディパーティに女子を招待するのを止め(招待すれば来てくれるんかい、と尋ねたいところですが)いつもの三人で変わらぬ友情を祝うところで終わっています。
さわやかではあるモノの、意識の高い人が見たら「ホモソーシャルガーーーーーーーーーーー!!!!」と発狂確実でしょうなあ。
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