さて、『ダンガンロンパ』です。
ファンの期待を受け、満を持して本年の初めに発売された新作ですが、その評価は大いに荒れております。
Amazonのレビューは目下のところ554なのですが、星1つが197。星5つが113ですから「賛否両論」とは言え、いかにファンの失意や怒りが大きいかわかります。
そんなわけで以下、ネタバレを含み簡単に経緯を記したいと思いますので、知りたくない方はご覧になりませんよう。
後、ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせるセンスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけてみましたが、いかがでしょうか?
* * *
――ちょっとネタバレの前に前フリを入れましょう。
同人誌文化華やかなりし頃――『エヴァ』放映時だったでしょうか。と言っても今がどんな感じなのか、とんと疎くなってしまい、わからないのですが――「ジジイ落ち」というのが流行っていました。ぼく自身はそこまで見た記憶はないのですが、当時の評論系同人誌でそれについてのコラムを書いている人物がいました。
エロシーンのクライマックス、美少女キャラのあられもない姿が大ゴマで描かれた一番の見せ場を読みつつ、更なる刺激を期待してページをめくると、そこにはクッソ汚いジジイのどアップが描かれている。或いは、痩せこけた飢餓地帯の子供の絵が描かれている。で、読者に冷や水を浴びせるような一言を放つ。後者であれば「君たちが無為にオナニーしている間も、世界には食べ物もなく死んでいく者たちがいるのだ、云々」など。
その同人作家氏は、これを以下のように評しました。
この落ちを一番最初にやった者はよい。先進性も批評性もあった。それなりの気概を持って描かれたのだろう。しかし、それを真似た者には、それらは全くない。単なる悪趣味な嫌がらせをやっているだけだ。
記憶で書いてるので、ぼく自身の考えも混じっているかも知れませんが、そんな主旨でした。そして、ぼくはこれに全面的に同意します――いえ、むしろ一番最初にやった者にすら、評価すべき批評性などないと、ぼくは考えます。
これを理解するにはいくつか押さえておくべきポイントがあるでしょうが、一番大きい理由としては、当時のエロ同人作家がオタク界の花形であり、ワイドショーのコメンテーター的「ご意見番」といったスタンスにいたことが挙げられるように思います。何しろネットもそこまで普及していない時代ですし、ぼくたちは同人誌を買うと共に、フリートークページに書かれた作者のアニメ評などを貪り読んでおりました。要は彼らは「エラかった」のです。
こうしたことが許されていた背景には同人誌が「趣味だから」「商売じゃないから」といった認識があったからですが(今はもっと商業化されているでしょう)、それ以上にとにもかくにもこの業界は「クリエイター様エラい主義」が非常に濃厚で、同人作家って何やったっていいと思われていたのです、当時は。
更に、そうした心理的土壌の深層には「オタクの、オタクへの憎悪」がありました。
当時はオタクの社会的地位がほとんど士農工商エタ申酉戌亥の、更にその下くらいに設定されておりました。近年、オタク文化が市民権を得たおかげでぼくたちは逆説的に「オタクは差別されている!」と団結するようになりましたが、当時はあまりにも地位が低いために、お互いにお互いを憎み、呪いあうことで精神の安定を得ていたのです。当時の同人誌即売会のパンフには「オタクは人間に最も近い動物なり」などと書いていた人物もおりました。そう、そもそもこの「オタクのオタクヘイト」は上に立つ業界人連中がそそのかしていたのです。
もちろん、エロ同人誌の売り手の気持ちを想像した時、心情はわからないでもありません。血眼で自らのエロ同人誌を求めるオタクたちを見るとどうしても、「醜い」と感じてしまう。それは無理からぬというか、当たり前のことではありましょう。
しかしそもそも最初にエロ同人誌を(他人様のキャラ人気に乗っかって)描いたのは自分です。彼ら自身が誰よりもエロ漫画に自らのリビドーをぶつけていたはずなのですが、いざそれを客観視してしまうと(漫画を描く時にもそんな自分を客観視しておいてほしかったものですが)嫌悪感を感じてしまうのでしょう。
結果、彼らは他人様のキャラ人気にあやかったエロ同人誌で稼ぐ俺様はエラいエラいクリエイター様、買う者はゴミのようなオタクどもなので何をしてもよい、という自意識を発達させてしまったのです(し、その弊害は今も残っているように思われます)。
――とまあ、大体言いたいことは言っちゃいました。
上の話が本件とどう関わるのかというと、(というわけで以下からネタバレですが)本作、最終章のチャプター6で黒幕が登場し、「お前たちはゲームキャラだ」と言ってしまうのです。
メタネタです。
もっとも、今回、キャラクターたちの人形が糸で釣られているといった、それを匂わせる演出が繰り返され、ぼくも当初から「黒幕はスタッフたちそのものでは」と予測をしていました。
が、それは半分当たり、半分外れといった感じです。
この『V3』の世界では『ダンガンロンパ』というコンテンツが大人気。『1』や『2』もこの『V3』世界ではゲームとして消費されています。主人公たちにコロシアイを強いていた黒幕の正体は「チームダンガンロンパ」のスタッフたちだったのですが、そのスタッフ以上に、彼らへと作品を求める、『ダンガンロンパ』の熱心なファンたちの声の方が前面に出てきているのです。
主人公たちはしかし、そんな連中の見世物になるためにコロシアイをさせられていた事実に憤り、「ゲームを終結させる」「『ダンガンロンパ』そのものを否定する」ことを決意します。決死の覚悟で学級裁判そのものを放棄、学園を破壊、そんで、何か九死に一生を得て「ぼくらの戦いはこれからだ!」でエンド。いや、最後はどうだったか忘れちゃいましたが、何かそんな感じだったと思います。
このメタネタ、それほど斬新でもありません。
『勇者特急マイトガイン』の最終回でも、「主人公たちがこの作品世界がフィクションだと気づく」落ちをやっていました。悪の大首領は「オモチャを売りたい玩具メーカー」であるとの暗示がなされ、スタッフたちのホンネが透けて見えました。
そう、この種のネタってクリエイターなら誰しもがやりたくなるものなのでしょうが、なかなかスマートにまとまりません。
本作においてはそれが顕著で、『ダンガンロンパ』ファンたちがモニタに現れ、ニコ動的演出で、コロシアイを止めさせようとするキャラクターたちを延々と罵ります。「もっと楽しませろ、今までどれだけのカネを落としてきたと思っているんだ」と。
そもそも先にフィクションと書きましたが、本作の主人公たちは生身の人間です。「チームダンガンロンパ」は生身の人間の出演者を募って(或いは拉致して? 描写が曖昧で判然としません)コロシアイに参加させています。生身の人間でありながら、その記憶をリセットし、捏造された疑似記憶を植えつけることで、フィクショナルなキャラに仕立て上げ、フィクショナルな舞台の中で役割を演じさせている、ということのようです。それを視聴者たちは見物して楽しんでいる。視聴者たちも出演者たちも、そのコロシアイを「ゲームだと思って」視聴し、出演を志望しているのだろうけれども、そこも詳述されず、判然としない。
そうした非現実的な、しかもあやふやな状況を仮想して、「お前たちファンはコロシアイを楽しんでいる悪しき存在だ」と糾弾されても、困惑するしかありません。それこそ非実在の少女に対する性的虐待を批判されるようなものです*1。
そのくせ、一体全体どういうわけかスタッフはそうした責から完全に免れている。スタッフは超越的な黒幕、ファンは主人公たちを口汚く罵る醜い存在と、役割がくっきりと分かれているのです*2。アニメ版『3』で愚かしい、節度を失った残酷描写でブーイングを受けたのはスタッフ側だろうに。
これでは「事実関係を捏造により入れ替え、相手を罪に陥れた」ようにしか見えません。
上にニコ動と書きましたが、仮に本作が十年前に作られていればここの演出は間違いなく2ちゃんねるのアンチスレとして表現されていたはずで、一言で言えばこれらはファンへのぼやき、『ダンロン』を作りたくないというグチという、一番やっちゃいけないモノにしか、ぼくには見えませんでした。
何しろ、黒幕は歴代作のキャラクターたちに次々と変身し、その口から旧作を否定する台詞を吐いてみせるのです。あたかも、『ダンガンロンパ』そのものを完全に葬りたいとでも思っているかのように。ご丁寧なことに旧作の声優が全てのキャラたちの台詞を新録しています。ぼくはこれは恐らく、ミニゲームの台詞収録のついでだったのだろうと考えることで何とか自分を納得させていたのですが、プレイしてみるとミニゲームの方に新録はない模様。
スタッフたちは、ファンに深い憎悪を抱いているかのようです。
そう、それはまるで、自分のエロリビドーをぶつけた漫画をカネに換えているのは自分なのに、読者にお説教をする、エラいエラいエロ同人誌作家サマのように。ネットで叩かれたので、それを劇場版『エヴァ』で大人げなく晒し上げた庵野のように。
*1 また、この作品世界では「世の中が平和で退屈なため」に娯楽としてのコロシアイが求められているとされます。それは不景気な世の中での逆説的な癒しとしてデスゲーム物が流行っている現状とは全くの裏腹で、これもまた奇妙な設定です。
*2 Amazonのレビューで痛烈に皮肉っている人がいました。この人ほどはっちゃけないまでも、「実はチームダンガンロンパは人間の心を荒廃させるゲームを制作することで世界征服を企む悪の組織」とか、そんな風にした方がよかったんじゃないでしょうか。
当ブログでは、今まで繰り返し、『ダンガンロンパ』について語ってきました*3。
それは本シリーズが極めて優れた「女災批判ゲーム」であったからです。
ですが、今回は作品が「女災」そのものとなってしまいました。
「女災」とは女性ジェンダーによる災害、もう少し詳しく言うなら「被害者ぶることによる加害」です。
いえ、確かに『ダンガンロンパ』のスタッフはほとんど男性でしょう。そしてまた「クリエイター」と「消費者」という関係性を男女ジェンダーのアナロジーとして考えた時(受け/責めで考えた時)、「クリエイター」が必ずしも女性的とは言えないとは思いますが、少なくとも本作において、全てをファンに押しつけ、一切の責から免れていたのはスタッフの側です。
そしてまたお約束の(という気がするわりに、じゃあこの種の演出がなされた作品が他にあるかとなると、ぱっとは出て来ませんが)ニコ動のコメント的にファンの罵声が流れる演出を見ていると、何だか旧来の大メディアがネット世論に怯え、敵意を剥き出しにする様、フェミニストが「ネットの女叩き」に憤ってみせる様と被って見えます。
ネットなどで大衆が発信できるようになった状況に「我らのアドバンテージが失われる」との危機感から描かれた本作は、言わば「弱者男性に対するフェミニストの悪辣な攻撃」、「貧困層であるネトウヨに対するリベラル様の汚物は消毒だ行為」と「完全に一致」していると言えるでしょう。
そう、『ダンガンロンパ』は今回、自爆芸をもって「彼ら彼女ら」の醜さを描破しきってしまったのです。
*3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」
「被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!」
「今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」
「これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」
「弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!」
本作では「ギフテッド制度」という設定が語られます。超高校級の才能を持った少年少女たちが集められ、コロシアイを強要される、というのが『ダンガンロンパ』のお約束ですが、本作においては「超高校級」たちは「ギフテッド制度」により奨励金や選挙権・被選挙権といった、さまざまな特権が与えられるとされているのです。
この「ギフテッド」自体が「先天的な天才」とでもいった意味であり、「才能」自体が『ダンガンロンパ』のテーマとして選ばれていました。『絶対絶望少女』では「与えられざる者」の甘えを喝破するシーンが描かれましたし、また「才能を持つ者は同時に才能に縛られる」といったテーマが語られたこともあったと思います(どこでだったかは忘れちゃいましたが)。
が、この「ギフテッド制度」という言葉、第一章で語られたのみで早々に打ち棄てられ、以降は出て来ません。実はこれも意図的な演出で、彼らは以下のように言いたかったのです。
我々は「与えられし者」である「クリエイター」だ。しかしながらそれ故に背負っているはずのノブレス・オブリージュなど履行する気はさらさらない。利だけを得て、後は「受け」としての無責任さを十全に味わうつもりだ。
そう、本作は『絶対絶望少女』などで描かれた崇高な精神を敢えて打ち捨て、(わざわざ導入した新設定を全く無視することで、確信犯的に打ち捨てる様をファンに見せつけ)「女災」の醜さを自ら演じることで、批判したゲームであったのです。
先の「ジジイ落ち」に立ち戻るならば、やはり一昔前のオタク界はそうした自由な気風があり、だからこそ先鋭的な表現が生まれたことも事実です。
翻って現代のオタク作品は商品として落ち着きすぎている。ファンもクリエイターを自分たちを満足させる商品を生み出す役割を担った芸者だと捉えているフシがある。
ぼくもそれがいい傾向だとは、全く思いません。
エロゲーやラノベの惨憺たる現状は、そのような風潮が生んだものだと言えます。
だから、本作についてはそこに牙を剥く気概ある意欲作であったのだと評することも、できるとは思います。
しかしそれでも、オタクへの憎悪を根源にした、左派のまた別な目的意識をもって主張される、「クリエイター様エラい主義」が正しいとはどうしても思えません(時々書きますが、岡田斗司夫や大塚英志が叩かれるのはそうしたクリエイター様エラい主義を相対化しようとしたからなんですね)。
『V3』の主人公たちが否定し、終結させた『ダンガンロンパ』はこれからどうなるのでしょう。
先にスタッフがやる気を失っていると書きましたが、同時に作品に対する愛情が全くないわけでもないでしょう(例えば藤子Fだってまさに「才能に縛られ」、延々と『ドラえもん』を描いていました。本人の中には『ドラえもん』以外の作を描きたい/『ドラえもん』を極めたいというアンビバレントな気持ちが共存していたのではないでしょうか)。
また、単純に商売として、ヒット作を簡単に終結させるとは、考えにくい。
だからまた次回作が出ることは充分に考えられますが、一方、或いはファンが本作で愛想を尽かして、作品の寿命があっさりと尽きることも充分に考えられる。
本作は「クリエイターが勝つか、ファンが勝つか」の勝負、リアル世界を舞台にしたクリエイターとファンの壮大な「コロシアイ」実験でした。
そしてその結果を、ぼくは予言します。
よくも悪くも、もう「クリエイター様マンセーの時代」は終わっている。
それは丁度、ぼくたちが「女災」についての認識を深めつつあるのと、全く同じ理由で。
『ダンガンロンパ』の息の根が完全に止まることはないでしょうが、次は「エッジさを失った、各方面のご意見を聞いたお利口さんなコロシアイ」が開始されるのではないでしょうか。
楽しみに、待ちましょう。
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