ここしばらく、ぼくがずっとピル師匠、多摩湖師匠を案じていたことは、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
「2016年女災10大ニュース」などでぼくは彼女らを「面白半分にバラエティ番組で担がれた、田舎のラーメン屋」であると形容しました。というのも、表現の自由クラスタは「ポルノに寛容なフェミニストがいるのだ、いるのだ」と絶叫しつつ、その「真のフェミ」の具体例を提示できずにいた。そこに渡りに舟で出現したのがピル師匠、多摩湖師匠であったと言える。
しかしよく考えれば、元から彼らのガールフレンドたちには担ぐにふさわしい、社会的地位や知名度、何よりもオタクリテラシーを持った腐女子フェミニストが大勢いらっしゃったのです*1。彼らが今に至るまで彼女らを担がないのがどうにも不自然であり、いざとなったら切り捨てられるおばさんたちをわざわざ探し出してきたのだろうとの想像が、そうした不安の根拠となっておりました。それは丁度、「オタク界のトップ」やサブカルがオタクを特攻要員くらいにしか思っていないのではないかとの不安と、全く同じに。
そしてまたここしばらく、ぼくがずっとツイッターレディース、まなざし村を案じていたことも、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
というのも、社会的地位のあるフェミストたちと彼女らには、主張も品性もほとんど差異がないにも関わらず、表現の自由クラスタの彼女らへの憎悪は半端ない。彼らは彼女らを、お姫様に対して感じた不満を代わりにぶつける存在として選んでいることは、端から見れば自明だからです。幾度も指摘することですが、彼らが彼女らを好き放題に叩いているのは、彼女らが何ら後ろ盾を持たない個人だから、という面が大きいことは、どうしたって否定できないのです。
いずれにせよ、両者とも表現の自由クラスタに選ばれたスケープゴートである、というのがぼくの見立てであり、そうなると、彼女らの未来がどうなるかも明らかです。
『人造人間キカイダー』に出てくる悪の組織が失敗した戦闘員を処刑するシーンが、ふと思い出されます。「首領様、お許しを!」「チャンスを! もう一度チャンスをお与えください!!」と哀願する戦闘員たちがプレス機で押しつぶされ、廃棄処分にされてしまうシーンはぼくの心に深いトラウマとなって残っています。
大変に、恐ろしいですね。
ところが最近、よりにもよって、宮台真司師匠がピル教に入信してしまったのを知って*2、上の推理は修正を余儀なくされてしまったのです。考えてみれば確かに、表現の自由クラスタたちのピル神に対する崇拝心は天然であったようにも思います。「利用して捨てる気だ」などというのはいささか、彼らの知性に対する過剰評価だったかも知れません。
しかし更に困ったことに、よりにもよって宮台師匠は上野千鶴子師匠を「ラディカルフェミニスト」と断言してしまいました。表現の自由クラスタの皆さんはこれからも安らかに呼吸ができるのだろうかと思ったのですが、こちらの心配をよそに、気にしている方はどこにもいらっしゃらない様子。そもそもが上野師匠のデタラメ極まる著作を自分たちの都合のいいように解釈し、ピル神が「おっぱい募金」に反対したことも一切気に留めない方々です*3。彼らの信仰心は「事実」などによって、いささかたりとも揺るぎはしません。
どうぞ長生きなさって下さい。
――さて、ところで、しかし。
上のまとめで宮台師匠が「糞フェミ」などと罵倒しているのは、アンチポルノ運動をしているフェミニストのようです。そうしたフェミを、本稿では略して「アンポルフェミ」と呼称しましょう。もちろんポルノを認めるフェミなどいないのですが、これはあくまで便宜上のものです。
さて、確かに宮台師匠はずっとアンポルフェミたちともめておりました。ぼくもよく知らないのですが、「実際の強姦を記録した」との疑いのあるAVについて宮台師匠が擁護した、という(確かもう、十年以上前の)ことで執拗に「粘着」されていたという経緯があったかと思います。
正直、ぼくはこの問題にあまり立ち入ろうとは思いません。フェミニストのことだから無理矢理な文句を言っているんだろうな……といった感想は抱きますが、実際に悪質なAVもあるわけで、まあ、細かい査定は当事者同士でやっていただくしかない。少なくとも宮台師匠もまた重篤なフェミ信者である以上、冷静な判断力があるとは思えない(ことは、今回の入信騒動で思い知らされました)。どっちが勝とうと知ったことかという気にしかなりません。ノイホイ氏や鳥越氏の件についてあんまり舌鋒荒げる気になれなかったのと、同様な理由です。
が、いずれにせよこの「糞フェミ」が「ツイッターレディース」やら「まなざし村」やら「ツイフェミ」やらと同様の恣意的で幼稚なレッテルであり、宮台師匠の行いは上野師匠たちを「まだ、話せるフェミニスト」として延命させようとするだけの行為であることは、言うまでもないところです。
ところで、実は最近他にも、AVにまつわるフェミ同士のバトルがありました。
田中美津師匠がAVについて語った記事に、アンポルフェミが噛みついていたのです。
田中師匠と言えば、上野師匠の師匠に当たるようなフェミニストの中の大師匠。フェミニズムが「時流を解さない」ことをテーマにしているだけあって、記事のずれっぷりはハンパありませんが*4、同時にこの中で、
と、女優側を擁護しつつも「強要」に懐疑的な見方を示していて、それにアンポルフェミが噛みついた、という一幕があったのです(ちなみにこの箇所は抗議を受け、現時点では削除されてしまっています)。
むろん、常識的に考えれば、田中師匠の方がまだしも正しいことでしょう。
しかし同時に、女性の側の主体的な判断すらも「ジェンダー規範の刷り込みがあったのだ」として否定してきたのがフェミニズムです。
『部長、その恋愛はセクハラです!』を読むと、「セクハラかどうか、女性にもよくわからないので、その時点で合意があっても後づけでセクハラだと思ったのなら、それを尊重せよ」などとものすごいことが書いてあります*5。
そして大変残念なことに、この主張は「真のフェミニスト」であらせられるはずの上野師匠からも発せられ、同書に引用されたものなのです。
そう、女性に主体は認められない。
その時に何を言っていようが、本人は自分が何を言っているのかもよくわかっていない。
だから、女性の発言や主張は後から自在に撤回する権利を与えよ。
それがフェミニズムなのです。
アンポルフェミを憎む正義の味方たちは彼女らを「女性の主体性を認めない」と罵っておりましたが、上野師匠こそがそれだったのですね。
あ、いや……逆に「女性は発言の責任を持たなくていい」という前提を導入すれば、やはり彼女らは正しいのか……?
なるほど、田中師匠の判断は間違っていてまなざし村こそが正しいことが、そしてまたぼくの指摘は間違っていてピル神を崇拝する表現の自由クラスタや宮台師匠こそが正しいことが明らかになりました。
めでたしめでたし。
――終わってしまいました。
もう少し続けましょう。
「女に主体など認めてはならんのだ」とは、一体どこまで非人間的な主張なのかと思いますが、しかしこの問題、よく考えればセクハラ問題ともジェンダーフリー(即ち、ジェンダー規範は男にすり込まれたのだとするフェミの妄想)とも全く同じ構造を持っていることが、おわかりになるのではないでしょうか。何しろジェンダーフリーこそ、「あらゆる人間が主体的判断だと信じ切っているそれは、実はジェンダー規範に操られてのものであり、正されねばならない」という、人類史上最大の人権無視の思想なのですから。
全く途方もない考えで、呆れる他はない……と言いたいところですが、実のところぼくは女性のメンタリティを考えた時、それは実は、ある種のリアルをすくい取っていると言えるのではないか、と思うのです。
例えば、昭和時代のアイドルの決まり文句に「私は興味がなかったけど、友人が(オーディションに)応募した」というのがあります。もちろん、そのアイドルを清純に見せたい事務所によって作られた「設定」という側面もあることでしょうが、「自分から能動的にことに及んだわけではない、しかしあまりに可愛いので相手側から求められたのだ」という物語は女性にとって何よりも切実に希求する、この世で一番大切なものでしょう。
AV女優というのは90年代の頃から「芸能人志望」、つまりそのステップとしてAVに出演しているのだと称するのがお約束でしたが、これも上に近しい心理が働いているわけです*6。そうした発言について、
1.バカだから騙されている
2.わかった上で、ある種の見栄として芸能人志望と称している
といった「分析」が可能ですが、恐らく本人の中で上のいずれかの心理状態にあるというわけではなく、この二つが不可分に混ざりあっている。その上でAV界でちやほやされることで芸能人なりたい欲はほぼ満たされている、とでもいったことになるのではないでしょうか。
こうした曖昧さは「AV女優は主体性を持って、自らの意志でAVに出演しているのだ」としたくてたまらない表現の自由クラスタ(及び、リベサーの姫型フェミニスト)の主張とは極めて親和性が悪い。
しかし、人間心理がそんなに明確にくっきりはっきりとしたものである、という考え方こそ、フィクションではないか、とも思います。
精神科医の木村敏教授は「人間」とは「人の間」なり、みたいなことを言っています。
「主体」とは「人と人の間」にこそあるのだ。
A君とB君が食事に行った。「何を食う?」と、ああでもないこうでもないと話しあっている間にいつの間にかカレー屋に入っていた。場合によってはどちらかが強力なリーダーシップを取ることもあり、また両者の思惑がぴたりと一致することもあろうが、少なくとも日本においては「何とはなしのその場の空気」によりメニューが決定することが多いのではないか。言わば「人と人の間」こそが主導権を握っている。
まあ、そんな論法です。
何しろ何十年も前に読んだことを記憶で書いているので、厳密さには欠けますが、アウトラインは間違っていないと思います。
日本人の人間関係は受けと受けしか存在しない、腐女子が泣いて悲しむBLであり、「強固な、毅然とした主体的自我」などといったものは「西欧文明」の生み出したフィクションであり、そんなものは存在しないのだというわけですね。この考え方にはそれなりの説得力があると同時に、男性よりは女性に、より当てはまるのではとの印象を持ちます。
つまり、この木村教授の理論を前提した時、「AV出演を強制されたのだ、仮に自らの意志で出演しますとの契約書が残っていても」というアンポルフェミの言い分にややリアリティが増し、一方、AVに賛成するフリをしているリベサー姫がデートの時に男の子から教えてもらった「近代的自我」を前提とした物言いが、やや不利になる。
そうなると、必然的に上の『部長、その恋愛は――』などにおける「女は自分が何を言っているのかもわかってないから男たち、とにかく責任を取れ」といった言いがかりが浮上してきてしまう。
しかし、当たり前のことですが、女性に主体というものを認めないのなら、男性にだって主体はなく、責任能力はないとしないことには平等ではない。
いえ、『部長、その恋愛は――』が平然と出版されているという事実は、そうした平等の原則など歯牙にもかけず、男だけが無制限無条件無思考で全責任を負え、とのコンセンサスがこの世に根づいていることの表れでもあります(実のところ「チンポ騎士団」とは、フェミニズムに平身低頭すれば自分たちだけはそうした「女子力」の恩恵に与れるのだ、との宗教運動でした)。
確かに、この状況で男女平等を導入すれば社会は完全に立ち行かなくなり、全人類がやったあらゆる悪行の全てが「何か、安倍さんのせい」みたいなわけのわからないロジックが横行するディストピアしか成立し得なくなる。
そう、どう考えても詰んでいる、わけです。
将来的に、「近代的自我」というフィクションには限界があるのだということが明らかになった時、それを超克する社会パラダイムやら何やらかんやらを見出す必要に迫られるのかも知れませんが、今、パラダイムという言葉もよくわからずに書いているぼくレベルの手には余る話です。
ひとまず、AV出演強制問題に立ち戻りましょう。
パラダイムはともかく、今ここでこの問題にうまい具合に対応するには、もう少し女性のメンタリティの曖昧な性質に肉薄するノウハウを確立し、うまく手綱を握るしかない。
もっとも、そうした性質は現代の価値観からはあまりポジティブな評価を下し得ないものでしょう。そこをまあ、何とか当たり障りのない形で現実にソフトランディングする知恵が、ぼくたちには求められます。
現代の社会は(フィクションだろうと何だろうと)近代的西洋的自我というものの上に成り立っているのだし、女性ももう少し努力することで多少なりともそこに適応していただく他は、ありません。
いずれにせよ、その時にはフェミニストたちの曖昧模糊としたデタラメな言動を「兵器利用」しようとするだけのリベラルのやり方は、「女災」として厳に戒められることになりましょう。
彼ら彼女らの未来は暗いようです。
■補遺■
実は本稿の「人の間」に近しい論法が、ピル神の信徒の口からも聞かれました。
丁度このテキストを書いている最中だったので驚きましたが、フェミニズムがそもそも、こうしたロジックであったことは上に書かれている通りです。
彼女らの言い分はぼくが上でしている「ならば男性側もあらゆることから免責されなければならないし、そんなことは非現実的な空論だ」との指摘を全く織り込まないものでした。それでは自分が不利になった時にだけ、ちゃぶ台返しをしてもいいという身勝手な言い分にすぎません(しかしそもそも、ジェンダーフリーもこれと全く同様のグレートリセットであり、ポストモンダンクラスタの言い分って、基本、この程度のものなんですね)。
実はピル神がおっぱい募金を否定していることを指摘された時の言い訳もこれと同様の論法であり、いずれにせよこの種の「自己決定能力あるかどうかわからない論」を持ち出せば持ち出すほど、彼ら彼女らはアンポルフェミに限りなく近づいていくのですが、どういうわけか、それには全く気づいていらっしゃらないご様子です。
とにかくあの人たちはロジックを「自分の都合にあわせて倒すべき敵にだけ好きな時に好きなようにぶつけていいどくさいスイッチ」としか思っていないのですね。
*1 そうした腐女子フェミが「ポルノに寛容」なのは一応、事実です。しかしそれはリベサーの姫として場当たり的に言っているだけだということもまた、幾度も指摘してきた通りです。例えば藤本由香里師匠がドウォーキンの「全てのセックスは強姦」との主張を肯定的に引用するなどしていて、彼女らが「ポルノに寛容」というスタンスとフェミニズムの理論をどう止揚しているのか、全くの不明なのですから。
*2 「宮台真司首都大学東京教授、ネット上で流れている自称フェミの誹謗中傷のデマを否定する」
「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」
「宮台真司が妄想とデマの糞フェミ退治!'2017 みんなー!宮台先生の授業が始まるよー!」
*3 「おっぱい募金への反対論者との議論」。
ちなみに上の「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」ではピル神の言い訳と、それについてのぼくのツッコミが記されています。こうしてみても表現の自由クラスタは一切、ポルノを守る気がないことがよくわかりますね。
*4 「AV問題 男の力誇示にNO「女性のための作品を」」
BLがどうのといったツッコミはここではしませんが、考えると田中師匠が静かに主張を取り下げたことと、同様なずれっぷりを示した駒崎師匠があれだけ炎上したこととは、極めて対照的です。駒崎師匠が炎上した理由、それは彼を叩いているのがKTBアニキのそれと同様、「チンポ騎士」の地位を狙って彼を羨む層が主であった点にあります。「ツイフェミ」の反対語は「プロチンポ騎士」であり、彼らは「チンポ騎士」志願者から狂ったような憎悪を向けられる運命にあるのですね。
*5 兵頭新児の女災対策的読書「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」
*6 「女性たちは主体的にAVに出演しているわけではない」とのロジックに対する反証として、昨今ではAV女優たちが自主的に、嬉々として立ち上げているブログやツイッターなどが挙げられましょう。が、同時に、引退した彼女らが以前のブログを消し、「やりたくてやっていたのではなかった」と手のひらを返す現象も恐らく日常的に見られているはずです。AVマニアというのはそういうのに「粘着」したりはしないものなのか、ちょっと疑問ではあります……などと書いていたら、出て来ました。
「「AV女優の手のひら返しに戸惑い…」AV出演を“強要”したとされる男たちが、ついに重い口を開いた」
彼らも商売ですから、黙ってはいないことでしょう。
「2016年女災10大ニュース」などでぼくは彼女らを「面白半分にバラエティ番組で担がれた、田舎のラーメン屋」であると形容しました。というのも、表現の自由クラスタは「ポルノに寛容なフェミニストがいるのだ、いるのだ」と絶叫しつつ、その「真のフェミ」の具体例を提示できずにいた。そこに渡りに舟で出現したのがピル師匠、多摩湖師匠であったと言える。
しかしよく考えれば、元から彼らのガールフレンドたちには担ぐにふさわしい、社会的地位や知名度、何よりもオタクリテラシーを持った腐女子フェミニストが大勢いらっしゃったのです*1。彼らが今に至るまで彼女らを担がないのがどうにも不自然であり、いざとなったら切り捨てられるおばさんたちをわざわざ探し出してきたのだろうとの想像が、そうした不安の根拠となっておりました。それは丁度、「オタク界のトップ」やサブカルがオタクを特攻要員くらいにしか思っていないのではないかとの不安と、全く同じに。
そしてまたここしばらく、ぼくがずっとツイッターレディース、まなざし村を案じていたことも、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
というのも、社会的地位のあるフェミストたちと彼女らには、主張も品性もほとんど差異がないにも関わらず、表現の自由クラスタの彼女らへの憎悪は半端ない。彼らは彼女らを、お姫様に対して感じた不満を代わりにぶつける存在として選んでいることは、端から見れば自明だからです。幾度も指摘することですが、彼らが彼女らを好き放題に叩いているのは、彼女らが何ら後ろ盾を持たない個人だから、という面が大きいことは、どうしたって否定できないのです。
いずれにせよ、両者とも表現の自由クラスタに選ばれたスケープゴートである、というのがぼくの見立てであり、そうなると、彼女らの未来がどうなるかも明らかです。
『人造人間キカイダー』に出てくる悪の組織が失敗した戦闘員を処刑するシーンが、ふと思い出されます。「首領様、お許しを!」「チャンスを! もう一度チャンスをお与えください!!」と哀願する戦闘員たちがプレス機で押しつぶされ、廃棄処分にされてしまうシーンはぼくの心に深いトラウマとなって残っています。
大変に、恐ろしいですね。
ところが最近、よりにもよって、宮台真司師匠がピル教に入信してしまったのを知って*2、上の推理は修正を余儀なくされてしまったのです。考えてみれば確かに、表現の自由クラスタたちのピル神に対する崇拝心は天然であったようにも思います。「利用して捨てる気だ」などというのはいささか、彼らの知性に対する過剰評価だったかも知れません。
しかし更に困ったことに、よりにもよって宮台師匠は上野千鶴子師匠を「ラディカルフェミニスト」と断言してしまいました。表現の自由クラスタの皆さんはこれからも安らかに呼吸ができるのだろうかと思ったのですが、こちらの心配をよそに、気にしている方はどこにもいらっしゃらない様子。そもそもが上野師匠のデタラメ極まる著作を自分たちの都合のいいように解釈し、ピル神が「おっぱい募金」に反対したことも一切気に留めない方々です*3。彼らの信仰心は「事実」などによって、いささかたりとも揺るぎはしません。
どうぞ長生きなさって下さい。
――さて、ところで、しかし。
上のまとめで宮台師匠が「糞フェミ」などと罵倒しているのは、アンチポルノ運動をしているフェミニストのようです。そうしたフェミを、本稿では略して「アンポルフェミ」と呼称しましょう。もちろんポルノを認めるフェミなどいないのですが、これはあくまで便宜上のものです。
さて、確かに宮台師匠はずっとアンポルフェミたちともめておりました。ぼくもよく知らないのですが、「実際の強姦を記録した」との疑いのあるAVについて宮台師匠が擁護した、という(確かもう、十年以上前の)ことで執拗に「粘着」されていたという経緯があったかと思います。
正直、ぼくはこの問題にあまり立ち入ろうとは思いません。フェミニストのことだから無理矢理な文句を言っているんだろうな……といった感想は抱きますが、実際に悪質なAVもあるわけで、まあ、細かい査定は当事者同士でやっていただくしかない。少なくとも宮台師匠もまた重篤なフェミ信者である以上、冷静な判断力があるとは思えない(ことは、今回の入信騒動で思い知らされました)。どっちが勝とうと知ったことかという気にしかなりません。ノイホイ氏や鳥越氏の件についてあんまり舌鋒荒げる気になれなかったのと、同様な理由です。
が、いずれにせよこの「糞フェミ」が「ツイッターレディース」やら「まなざし村」やら「ツイフェミ」やらと同様の恣意的で幼稚なレッテルであり、宮台師匠の行いは上野師匠たちを「まだ、話せるフェミニスト」として延命させようとするだけの行為であることは、言うまでもないところです。
ところで、実は最近他にも、AVにまつわるフェミ同士のバトルがありました。
田中美津師匠がAVについて語った記事に、アンポルフェミが噛みついていたのです。
田中師匠と言えば、上野師匠の師匠に当たるようなフェミニストの中の大師匠。フェミニズムが「時流を解さない」ことをテーマにしているだけあって、記事のずれっぷりはハンパありませんが*4、同時にこの中で、
やりたくないと言いながら結局、AV出演契約をしてしまう人というのは、そういう深いところで倒錯した自己肯定感を持ちながら仕事をしているのではないでしょうか。数百本も出演して「強要だった」と訴えた人を「何を今さら?」と非難する人もいますが、そういう心の病があることを分かっていないと理解できませんよ。
と、女優側を擁護しつつも「強要」に懐疑的な見方を示していて、それにアンポルフェミが噛みついた、という一幕があったのです(ちなみにこの箇所は抗議を受け、現時点では削除されてしまっています)。
むろん、常識的に考えれば、田中師匠の方がまだしも正しいことでしょう。
しかし同時に、女性の側の主体的な判断すらも「ジェンダー規範の刷り込みがあったのだ」として否定してきたのがフェミニズムです。
『部長、その恋愛はセクハラです!』を読むと、「セクハラかどうか、女性にもよくわからないので、その時点で合意があっても後づけでセクハラだと思ったのなら、それを尊重せよ」などとものすごいことが書いてあります*5。
そして大変残念なことに、この主張は「真のフェミニスト」であらせられるはずの上野師匠からも発せられ、同書に引用されたものなのです。
そう、女性に主体は認められない。
その時に何を言っていようが、本人は自分が何を言っているのかもよくわかっていない。
だから、女性の発言や主張は後から自在に撤回する権利を与えよ。
それがフェミニズムなのです。
アンポルフェミを憎む正義の味方たちは彼女らを「女性の主体性を認めない」と罵っておりましたが、上野師匠こそがそれだったのですね。
あ、いや……逆に「女性は発言の責任を持たなくていい」という前提を導入すれば、やはり彼女らは正しいのか……?
なるほど、田中師匠の判断は間違っていてまなざし村こそが正しいことが、そしてまたぼくの指摘は間違っていてピル神を崇拝する表現の自由クラスタや宮台師匠こそが正しいことが明らかになりました。
めでたしめでたし。
――終わってしまいました。
もう少し続けましょう。
「女に主体など認めてはならんのだ」とは、一体どこまで非人間的な主張なのかと思いますが、しかしこの問題、よく考えればセクハラ問題ともジェンダーフリー(即ち、ジェンダー規範は男にすり込まれたのだとするフェミの妄想)とも全く同じ構造を持っていることが、おわかりになるのではないでしょうか。何しろジェンダーフリーこそ、「あらゆる人間が主体的判断だと信じ切っているそれは、実はジェンダー規範に操られてのものであり、正されねばならない」という、人類史上最大の人権無視の思想なのですから。
全く途方もない考えで、呆れる他はない……と言いたいところですが、実のところぼくは女性のメンタリティを考えた時、それは実は、ある種のリアルをすくい取っていると言えるのではないか、と思うのです。
例えば、昭和時代のアイドルの決まり文句に「私は興味がなかったけど、友人が(オーディションに)応募した」というのがあります。もちろん、そのアイドルを清純に見せたい事務所によって作られた「設定」という側面もあることでしょうが、「自分から能動的にことに及んだわけではない、しかしあまりに可愛いので相手側から求められたのだ」という物語は女性にとって何よりも切実に希求する、この世で一番大切なものでしょう。
AV女優というのは90年代の頃から「芸能人志望」、つまりそのステップとしてAVに出演しているのだと称するのがお約束でしたが、これも上に近しい心理が働いているわけです*6。そうした発言について、
1.バカだから騙されている
2.わかった上で、ある種の見栄として芸能人志望と称している
といった「分析」が可能ですが、恐らく本人の中で上のいずれかの心理状態にあるというわけではなく、この二つが不可分に混ざりあっている。その上でAV界でちやほやされることで芸能人なりたい欲はほぼ満たされている、とでもいったことになるのではないでしょうか。
こうした曖昧さは「AV女優は主体性を持って、自らの意志でAVに出演しているのだ」としたくてたまらない表現の自由クラスタ(及び、リベサーの姫型フェミニスト)の主張とは極めて親和性が悪い。
しかし、人間心理がそんなに明確にくっきりはっきりとしたものである、という考え方こそ、フィクションではないか、とも思います。
精神科医の木村敏教授は「人間」とは「人の間」なり、みたいなことを言っています。
「主体」とは「人と人の間」にこそあるのだ。
A君とB君が食事に行った。「何を食う?」と、ああでもないこうでもないと話しあっている間にいつの間にかカレー屋に入っていた。場合によってはどちらかが強力なリーダーシップを取ることもあり、また両者の思惑がぴたりと一致することもあろうが、少なくとも日本においては「何とはなしのその場の空気」によりメニューが決定することが多いのではないか。言わば「人と人の間」こそが主導権を握っている。
まあ、そんな論法です。
何しろ何十年も前に読んだことを記憶で書いているので、厳密さには欠けますが、アウトラインは間違っていないと思います。
日本人の人間関係は受けと受けしか存在しない、腐女子が泣いて悲しむBLであり、「強固な、毅然とした主体的自我」などといったものは「西欧文明」の生み出したフィクションであり、そんなものは存在しないのだというわけですね。この考え方にはそれなりの説得力があると同時に、男性よりは女性に、より当てはまるのではとの印象を持ちます。
つまり、この木村教授の理論を前提した時、「AV出演を強制されたのだ、仮に自らの意志で出演しますとの契約書が残っていても」というアンポルフェミの言い分にややリアリティが増し、一方、AVに賛成するフリをしているリベサー姫がデートの時に男の子から教えてもらった「近代的自我」を前提とした物言いが、やや不利になる。
そうなると、必然的に上の『部長、その恋愛は――』などにおける「女は自分が何を言っているのかもわかってないから男たち、とにかく責任を取れ」といった言いがかりが浮上してきてしまう。
しかし、当たり前のことですが、女性に主体というものを認めないのなら、男性にだって主体はなく、責任能力はないとしないことには平等ではない。
いえ、『部長、その恋愛は――』が平然と出版されているという事実は、そうした平等の原則など歯牙にもかけず、男だけが無制限無条件無思考で全責任を負え、とのコンセンサスがこの世に根づいていることの表れでもあります(実のところ「チンポ騎士団」とは、フェミニズムに平身低頭すれば自分たちだけはそうした「女子力」の恩恵に与れるのだ、との宗教運動でした)。
確かに、この状況で男女平等を導入すれば社会は完全に立ち行かなくなり、全人類がやったあらゆる悪行の全てが「何か、安倍さんのせい」みたいなわけのわからないロジックが横行するディストピアしか成立し得なくなる。
そう、どう考えても詰んでいる、わけです。
将来的に、「近代的自我」というフィクションには限界があるのだということが明らかになった時、それを超克する社会パラダイムやら何やらかんやらを見出す必要に迫られるのかも知れませんが、今、パラダイムという言葉もよくわからずに書いているぼくレベルの手には余る話です。
ひとまず、AV出演強制問題に立ち戻りましょう。
パラダイムはともかく、今ここでこの問題にうまい具合に対応するには、もう少し女性のメンタリティの曖昧な性質に肉薄するノウハウを確立し、うまく手綱を握るしかない。
もっとも、そうした性質は現代の価値観からはあまりポジティブな評価を下し得ないものでしょう。そこをまあ、何とか当たり障りのない形で現実にソフトランディングする知恵が、ぼくたちには求められます。
現代の社会は(フィクションだろうと何だろうと)近代的西洋的自我というものの上に成り立っているのだし、女性ももう少し努力することで多少なりともそこに適応していただく他は、ありません。
いずれにせよ、その時にはフェミニストたちの曖昧模糊としたデタラメな言動を「兵器利用」しようとするだけのリベラルのやり方は、「女災」として厳に戒められることになりましょう。
彼ら彼女らの未来は暗いようです。
■補遺■
実は本稿の「人の間」に近しい論法が、ピル神の信徒の口からも聞かれました。
丁度このテキストを書いている最中だったので驚きましたが、フェミニズムがそもそも、こうしたロジックであったことは上に書かれている通りです。
彼女らの言い分はぼくが上でしている「ならば男性側もあらゆることから免責されなければならないし、そんなことは非現実的な空論だ」との指摘を全く織り込まないものでした。それでは自分が不利になった時にだけ、ちゃぶ台返しをしてもいいという身勝手な言い分にすぎません(しかしそもそも、ジェンダーフリーもこれと全く同様のグレートリセットであり、ポストモンダンクラスタの言い分って、基本、この程度のものなんですね)。
実はピル神がおっぱい募金を否定していることを指摘された時の言い訳もこれと同様の論法であり、いずれにせよこの種の「自己決定能力あるかどうかわからない論」を持ち出せば持ち出すほど、彼ら彼女らはアンポルフェミに限りなく近づいていくのですが、どういうわけか、それには全く気づいていらっしゃらないご様子です。
とにかくあの人たちはロジックを「自分の都合にあわせて倒すべき敵にだけ好きな時に好きなようにぶつけていいどくさいスイッチ」としか思っていないのですね。
*1 そうした腐女子フェミが「ポルノに寛容」なのは一応、事実です。しかしそれはリベサーの姫として場当たり的に言っているだけだということもまた、幾度も指摘してきた通りです。例えば藤本由香里師匠がドウォーキンの「全てのセックスは強姦」との主張を肯定的に引用するなどしていて、彼女らが「ポルノに寛容」というスタンスとフェミニズムの理論をどう止揚しているのか、全くの不明なのですから。
*2 「宮台真司首都大学東京教授、ネット上で流れている自称フェミの誹謗中傷のデマを否定する」
「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」
「宮台真司が妄想とデマの糞フェミ退治!'2017 みんなー!宮台先生の授業が始まるよー!」
*3 「おっぱい募金への反対論者との議論」。
ちなみに上の「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」ではピル神の言い訳と、それについてのぼくのツッコミが記されています。こうしてみても表現の自由クラスタは一切、ポルノを守る気がないことがよくわかりますね。
*4 「AV問題 男の力誇示にNO「女性のための作品を」」
BLがどうのといったツッコミはここではしませんが、考えると田中師匠が静かに主張を取り下げたことと、同様なずれっぷりを示した駒崎師匠があれだけ炎上したこととは、極めて対照的です。駒崎師匠が炎上した理由、それは彼を叩いているのがKTBアニキのそれと同様、「チンポ騎士」の地位を狙って彼を羨む層が主であった点にあります。「ツイフェミ」の反対語は「プロチンポ騎士」であり、彼らは「チンポ騎士」志願者から狂ったような憎悪を向けられる運命にあるのですね。
*5 兵頭新児の女災対策的読書「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」
*6 「女性たちは主体的にAVに出演しているわけではない」とのロジックに対する反証として、昨今ではAV女優たちが自主的に、嬉々として立ち上げているブログやツイッターなどが挙げられましょう。が、同時に、引退した彼女らが以前のブログを消し、「やりたくてやっていたのではなかった」と手のひらを返す現象も恐らく日常的に見られているはずです。AVマニアというのはそういうのに「粘着」したりはしないものなのか、ちょっと疑問ではあります……などと書いていたら、出て来ました。
「「AV女優の手のひら返しに戸惑い…」AV出演を“強要”したとされる男たちが、ついに重い口を開いた」
彼らも商売ですから、黙ってはいないことでしょう。
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