兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

女宮崎勤の歌う「感動的」な幼児殺害ソング

2013-12-06 19:46:15 | レビュー

■注意!■
タイトルでおわかりになるかと思いますが、今回かなり刺激的な内容です。
ショックを受けないよう、注意して読んでください。
しかし何か、宇宙刑事のサブタイトルみたいなタイトルですなあ。


 *     *     *


「ママ」という歌が話題になっています。
 シンガーソングライター、文月メイによる児童虐待をテーマにした歌で、内容を一言でまとめてしまえば、以下のような感じです。


母親に虐待の末に殺され、ゴミ袋に入れて捨てられた男の子が「そんなことをせざるを得なかった弱いママ」を守れなかった自らの無力さを贖罪するため、またこれからはそんなママを守ってあげるために天使になった。


 萌えるショタソングですね。
 いわゆるエロゲー、エロ漫画の中には幼女を誘拐し、監禁し、酸鼻を極める陵辱を繰り返した挙げ句殺し、
ゴミ箱に捨てる、といったものもあります。命乞いをする少女を嬲り殺しにして楽しむものもあります。
 それと同じくらい
萌えますね
 詳しい歌詞は曲名、アーティスト名でググってご覧になってみてください。
 ググると同時に「過激な歌詞内容のため、予定されていた有線放送を見送られることになった」との情報も目に入る仕掛けになっており、要はそういうステマで売り出されたということのようです。
 ちなみに公式サイトでご本人のバイオグラフィを見ると、


本当の愛を知りたいというテーマで曲を作っているシンガーソングライター。
混沌とした現代社会の中で、楽しくもあり悲しくもありうる全ての出来事の中に、
本当の愛があると信じ続けて歌います。


 とあります。
 格好いいですね。
 さて、本作品についての評価についてネットを漁ったところ、手放しの絶賛が多いことに慄然とします。


この歌聴けば、(引用者註・幼児虐待を)やめようと思う人だって絶対にいるんじゃないかな。


全ての母親が聴くべき歌だ。有線放送見送りを決断した担当者は虐待犯予備軍ではないか


亡くなったその子が一番悲しいんだろうなと思った。。ママを助けたくて、ママを幸せにしたくて生まれてきたのに、ママにそれを伝えることができなかった。反対に、ママを苦しませてしまった。自分の力不足を悔やんでいるんじゃないかと。。


 こうした人たちは「感動的」「泣いた」とひたすら書き綴っており、そこに正否の判断は実のところあまり見受けられません。この人たちはテレビで垂れ流されるワイドショーに反応するごとくに、動物的にただ「泣いた」だけなのではないでしょうか。本件でキモチワルイのは、歌い手も支持者もその「涙の渦」に呑み込まれたまま、自分たちのキモチワルさについて無自覚なことです。
 むろん加害者が居直っている身勝手な歌だという冷静な分析もまた多く、ぼくは当然、そちらに全面同意します。更にぼくの感想を付け加えるならば、この歌はまさに上のような感想を漏らした人たちに向けられた商品なのだなあ、というものです。


 宮崎勤という人物がいます。
 世間では忘れ去られ、オタ論壇では「こいつのためにオタクが差別されるようになったのだ」と言われるばかりで、幼い女の子に性的ないたずらをして殺した、凄惨な事件があったことを覚えている人は少ない(かも知れません)。
 が、実はこの人物、自分がいたずらして殺した四人の女の子たちが草原か何かを裸で駆け回り、自分に向かって「ありがとう!」と手を振る夢を見ているのです。そこにあるのは「ボクがこんなにキモチヨかったんだから、幼女タンも喜んでいないはずがない」という無邪気な確信です。
 死ねばいいのに、と思います(あ、死にました)。
 しかし考えれば、このメンタリティって上の歌とそっくり同じですよね。
 フェミニストは全ての男性が性犯罪者予備軍であるかのような主張を頑迷に繰り返しますが、ぼくはそれに今まで「留保つきの肯定」をしてきました。
「ある種の暴論としてならば、わかる」と。
 誰だってかっとなって人を殺す可能性はある、という程度でならそうしたことも言える。そして女性から男性へのレイプもあるとは言え、男性ジェンダーの性質を鑑みるに、「性犯罪者予備軍」との称号が女性よりも男性に冠せられることはまあ、理には適ってるよなあと。
 しかし同時に、それと同様な意味であらゆる女性は「性犯罪冤罪を男性に着せる予備軍」でもある、といったことを、ぼくは主張し続けて来たはずです。
 今回、ぼくはここにもう一つ、全女性に対して「児童虐待予備軍」との称号をも冠したいと思います。
 それは一つには、単純に「女の方が育児する率が高い」ということでもありますが、本作に現れている子供との同一化、子供の私物化というのはやはり、女性に普遍的に見られる傾向であるように思えるからです。
 フェミニストは男性が性欲故にレイプをするから、男性の性欲は全て悪だと説きます*1。
 それはむろん暴論であり、性欲があるから男性は女性に優しくもするし、会社で働きもするということは、フロイト先生に聞かずともわかりきったことです。
 それと同様に、母親の子供との同一化という傾向も基本的には子供への愛情という良き方向で顕れているはずですが、何かの加減で一歩間違えれば、今回の歌のような悪しき表出の仕方もしてしまう。
 それはまどかちゃんが愛の心で世界中の人々の内面へとアクセスし、「希望」そのものとなってあげられたのと裏腹に、ほむほむがまどかちゃんを愛するあまり「悪魔」と化し、彼女を自らの中に取り込もうとしたのと全く、同じに。


*1彼女らは「レイプの原因は性欲ではなく支配欲」と言うのがお決まりですが、ぼくはその論拠を一度も読んだことがありません。彼女らは単純に「男の悪しき性欲」を「支配欲」と読み替えているだけなのではないでしょうか。


 当たり前ですが、ぼくは「全ての母親が文月メイと同レベルだ!」「女なんてみな幼児虐待犯だ!」と言っているわけではありません。
 しかし、その「萌芽」は普遍的にあるよ、と言っているだけです。
 それはほとんどの男性は性犯罪者ではないが、「萌芽」はみな持っているというのと、全く同様に。
 まずそれを前提にした上で、女性が自らの欲望を肯定され続ける現代において、そうした萌芽が悪しき発露の仕方をしてしまう可能性が増えているのではないか、ということを、ぼくは指摘しているのです。だから女性全員が悪者ではなくとも、欲望の悪しき表出は、相対的に多くなりつつあることが想像できる、と。
 それを示唆する材料として、もう一つその萌芽の悪しき「萌え方」をご紹介しましょう。


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『ママでなくてよかったよ―小児がんで逝った8歳 498日間の闘い』。
 丁度十年前に出た本です。内容は尼からコピペしておくと、


「ママ、教えてくれてありがとう。僕、絶対に死なないから、がんばるから大丈夫」―絶望的ながん(横紋筋肉腫)を告知する母と、それを真っ正面から受け止め、精一杯生き抜いた6歳の子。運命と呼ぶにはあまりにも壮絶な親子の闘病記。


 しかしぼくはこれ、何とはなしに母親本人の手記だと思っていたのですが、そうじゃなかったようです。
 タイトルの「ママでなくてよかったよ」はもちろん、「死ぬのがぼくでよかった、ママじゃなくてよかった」といいう意味ですね。この言葉、本当に「言わせた」にしろ「薄い本」における「二次創作」にせよ、何ということを言わせているのでしょうか。
 何よりも両者とも、遺児が女の子であれば成り立たなかった種類のものであることを、見逃すべきではありません。
 両者とも自らの息子が「男性ジェンダー」を背負い、女性である自らのために死んでいくことで成立するスナッフフィルム*2なのです。
 文月メイとこの本の著者は宮崎勤と全く同じであるということを、ここでぼくたちは心に留めておきましょう。
 本作に批判的な感想の中には「こんな歌は我が子を虐待している母親には届かない」との声もありましたが、それは全くそうではない。我が子を殺した母親たちはむしろ、「我が子が裸で手を振って『ありがとう』と言う」夢を見るために、この歌を誰よりも欲することでしょう。
 この歌は子供を殺した親のための、極めて実用的な、殺人体験をより楽しむためのマスターベーションツールだったのです。
 本件で一番キモチワルイのは、この歌をそのようなものであると、「児童虐待ポルノ」であると位置づけることのできない、ぼくたちの見識の低さではなかったでしょうか。
 ぼくは先に、胸クソの悪くなるエロゲや漫画について述べました。
 ぶっちゃけこういうものを作る者も楽しむ者も全員しょっ引いて磔にし、腹を割いて腸に鉤針を引っかけ、一方を馬に結わえて全力疾走をさせることで内蔵を引きずり出すなどして、こちらも楽しませていただきたいと思います。
 しかし。
 それでもまだ、実のところ、こうしたものは「インモラルなもの」という前提の下で流通し、また作り手もよほどの薄らバカでない限りは自身の作品のインモラルさに自覚的であるわけです(まあ薄らバカが結構いるのでは、という話は置くとして……)。
 だから恐らく、そうしたポルノの作り手たちはよほどの薄らバカでない限りは、「我々の表現が公共の図書館など、陽の当たる場所に出せないことは許せない」とまでは言わないでしょう(まあ薄らバカが結構いるのでは、という話は置くとして……)。
 しかし話が「女/母性」にまつわることになると、「殺人」までもがどういうわけか聖化され、おぞましいものであるとの認識が、放棄されてしまう。
 本件で何よりキモチワルイのは、本件における「感動」クラスタの「ピュアネス」さです。
 この歌の母親の、子供を殺しておきながらたちどころにその子供に「憑依」することで自らの加害者性から目を背ける、おぞましい無責任さです。
 一部の女性に徹底的に欠けているのは、そうした自分たちの性向に対する内省です。
 フェミニストたちが往々にして、こちらが唖然とするような邪気のない「ピュアネス」な自己イメージを抱いていることも、これらの傾向と決して無縁ではないはずです。
 いつも言うことですが、フェミニストたちの男性観は極めて歪んだ、時代がかったものです。彼女らの脳内には「今時いないだろ」としか思えない傲慢で高圧的で女性を蔑ろにする凶悪な、つまりは「男性ジェンダー」に居直った、ティーンズラブコミックのヒーロー然とした男性たちでいっぱいです。
 フェミニズムとは、死滅した「男性ジェンダー」を保存することを目的とした、一種のティーンズラブでありボーイズラブなのです。
 が、現実世界では残念なことにそうした男性はおらず、いるのは「女性ジェンダー」に居直った女性たちばかり。
 でなければそもそも、今回のような歌は表には出て来なかったはずです。
 ぼくたちの社会は、「男性が威張り散らして女性をレイプし放題のヒャッハー社会」を反転した「女ヒャッハー社会」です。しかしその社会を捉え、動かすツールであるはずの「言葉」はそれに全然追いつけずにいるため、まだ「男ヒャッハー社会」にしか対応できていない。最新のソフトをWINDOWS95で動かそうとするかのようなムチャ振りを続け、動作不良を起こし続けている。それが、この女災社会の実情です。
 一刻も早く新たなOSの開発が待たれますが、旧来のソフト会社が貧乏ライターを恫喝するなどの妨害活動を続けているので、多分無理でしょう。


*2娯楽用途に流通させる目的で行われた、実際の殺人の様子を撮影した映像。往々にしてポルノ的消費がなされると言われています(ただ、これは都市伝説レベルの話で、実在するかどうかは不詳ですよ)。


 

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