さて、少々遅れてしまいましたが、新記事です。
実はツイッターが凍結され、バタバタしておりました。
これからどうなることやら先が見えないのですが、ともあれ前回の続きです。
参院選に出馬するとかで時の人となった松浦師匠ですが、その著作はどんなものか。投票の前にチェックしておきましょう。
未読の方は、是非前回記事から!
・LGBTの不都合な素行
本書を読んでいて、ぼくは「LGBTたちはそこまで国家や大衆に要求する前に、ちょっと考えるべきことがありすぎるんではないかなあ……」という意を、強くしました。
例えば同性愛者の議員となると、他にも石川大我師匠という人物がいます。彼は警官に対し「俺は議員だ」と恫喝したことで炎上しました。本件について、松浦師匠は大いに石川師匠を批判します。
もちろんそこは大変痛快なのですが、続け、師匠はこの事件の裏には新宿二丁目は常に警官に張られており、ホモがそれを「差別だ」と苦々しく思っているといった背景があるのだと指摘します。しかし何故警官が張り込んでいるかというと、「ホモがあまりに薬物汚染されているから」だと、平然と語るのです。
まあ、そうした事実を率直に書くのは立派かも知れません。
ただ……こうした記述を読み進めるうちに、どうにも妙な気分にさせられます。
ホモがラブホ利用をする時、「シャワ洗」とやらが「マナー」になっているのだそうです。これはシャワーヘッドを外し、ホースを肛門に当てて洗浄することであり、(ヘッドを外すってことはアナルに突っ込むんだよなあ……)勘弁してくれとしか。
そして仮にそれをしてもシーツに糞便を撒き散らすことが多く、嫌われるのだそうです。
松浦師匠の記述は一応、ホモの素行の悪さを批判的に書いてはいます。上の件にしても文脈としては、「LGBT運動家はラブホがホモ出禁にしているとわめくが、ラブホにしてみれば無理もない」といったものではあります。
が、師匠がこれらをタネに上の石川師匠のような「左派のLGBT活動家の欺瞞」を糾弾することに熱心なのとは裏腹に、読んでいるこちらとしては、「いや、ホモ全体に反省すべき点があるのでは」という感想が頭にもたげてくるのです。
以前、近しいことを書いたことがあるのを、ご記憶でしょうか。
当ブログで、『現代思想 男性学の現在』という下らぬ特集号を採り挙げたことがあります。
ここでは森山至貴師匠という同性愛者が「ベアバッキング」について言及していました。これはセックスの時、「ときにはHIVウィルスが感染するのも厭わず、むしろその危険性にこそ快楽を感じ、またえり好みせずに他者の精液を受容しようとさえする(122p)」というもの。ぼく自身もたまに聞くハナシだったけど、正直、ホモヘイターによるデマの可能性を疑っていたところ、当事者に邪気なく実際にあるのだと吐露されてたまげた、といったことを書いていました。何しろデータとしてもエイズの拡大は圧倒的にホモによるところが大きいわけなのですから。
しかし森山師匠はそこを省みるでもなく、「ベアバッキングは“挑発的”だからいいと思ったのに、やってるヤツらは愛国主義者だった、許せぬ」などと言うのみ(本当に、何を言っているのかぼくもよくわからんのですが、気になる方は以前の記事を読むなり、原典に当たるなりしてみてください)。
これと、松浦師匠の記述はそっくりではないでしょうか。
いえ、何しろこの「ベアバッキング」、本書でもまえがきで言及されているのです。
文筆家の木澤佐登志師匠とやらいう御仁からの引用ですが、「日本でもポジ種専門(?)のベアバッキングを実践している会員制サウナが大阪の某地区に存在しています。(4p)」とのことで、普通に読むとサウナの運営側がことを率先していると思われます。
ここでも師匠の筆致はこの行為に批判的ではあれ、どこか呑気さを感じずにはおれないもの。
ぼくは前々回、「ゴリラゲイ雨」に「差別」を見て取る言説を批判しました。
批判しつつ、そこにごく僅かな差別性を認めもしました。
そこでも書いたようにちょっと前までは「お前ホモかよ、キモいな」的な漫画はどこにでもあったわけで、「ゴリラゲイ雨」に対するホモのナイーブさもそうした「トラウマ」によるものもあるかもと、同情しなくもないのですが……同時に「世間がここまでホモに寛容になったのに、お前らの方は進歩ないの?」とも言いたくなってくるわけです。
松浦師匠の「敢えて」、「非難されるかも知れないが」といった覚悟がどうにも感じられないまま、身内の恥部をあけすけに書くその筆致が、どうにも奇妙なのです。
正直、「アフターUFO=タテマエとしてはホモ差別がならんという社会」であるがため、油断しきってるんじゃないかなあと。
・LGBTの不都合な嗜好
――さて。
ここまででおなかいっぱいだと思いますが、ここからいよいよ本書最大の欺瞞について述べていきたいと思います。
先に松浦師匠がホモの素行の悪さに対して、あまりに無防備であると述べました。
更に、動画では「オタクを無理からにセクシュアルマイノリティの仲間入りさせようという政治的な動機があるんじゃないか」といった推測を述べました。
それらの政治的意図は読むうちに、一つの節に結実します。
そう、本書は一節を費やして、「少年愛者」を擁護しているのです。
NAMBLAという組織について、詳しくは『WiLL』様の記事で述べていますので、以降は是非、それを読んだ上で読んでいただきたいのですが……松浦師匠は同組織を大擁護します。
まずは国際レズビアン・ゲイ協会ILGAがNAMBLAを切り捨てた件に激おこ(実はそもそもNAMBLA自体がILGAの下部組織だったようで、それだけでも相当ですが、少なくとも切り捨てるのは当たり前としか)。
ペドフィリアのほとんどは性犯罪をしないことがデータからわかっています。
(215p)
とも言いますが、何かそういうデータあるんですか。
そこが示されていないので、信じるか信じないかという次元の話にしかなりませんが、これ、子供への性犯罪が教師や親など身近なものからなされる率が高いというデータを曲解してるんじゃないかなあ。
また、いきなり「そうした性的な漫画も規制して、ペドフィリアから奪うのか」と言うなどどうにもその口調は、表現の自由クラスタのものとそっくりです(以上、216p)。
そもそも、リアル児童に欲情するペドフィリアを問題としている時に、それと全然意味あいの違う漫画などフィクションを持ち出すこと自体、こちらからするとぶっちゃけ迷惑なのですが、これ、表現の自由クラスタもよくする物言いですしね。
ついでですが、上野千鶴子師匠についても、その著作『おんな嫌い』を持ち出し「上野は少年愛者には批判的だが、表現の自由は守ると称している(大意)」などと説明。同書で売買春が全否定されていることには頬被りと、ここも表現の自由クラスタと北朝鮮のダンスのごとく歩調をあわせています(216~217p)。
ところが上野師匠のペドフィリアを性犯罪者予備軍とする意見に対しては否定的。
なぜなら彼らは、自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだからです。
(217p)
え……?
白饅頭の物言いそっくりですが、何かそういうデータあるんですか?
児ポ法以前は大量の児童ポルノが出回っていたわけで、そういう人たちが「自らの欲望をいかにコントロールすればいいか悩んでいる人たちだ」と言われても。
そもそもベアバッキングとかシャワ洗を考えた時、ホモ全体が……(以降五兆文字略)。
しかし大変に残念なことですが、これら姑息な詭弁も、まだまだ序の口なのです。
いまNAMBLAがどのような活動をしているのかネットで検索しても詳しくはわかりませんが、刑務所で刑に服しているペドフィリアたちへの支援を細々と行っているようです。
(219p)
はい、とうとうここまでのデタラメを並べ立て始めました。
『WiLL』様でも書きましたが、今もNAMBLAの公式HPには彼らの理念、目的が明言されています。つまり子供とのセックスを合法化しようというものが。
そもそも「今どんな活動をしているかわからん」という言い方そのものは確かにウソをついてはいませんが、逆に言えば「かつての活動」、「目的と理念」についてスルーしていると、暗に言っているも同然なわけです(当然、それらに対する記述は、どこにもありません)。
また、同節では「ジャニーズJr.」についても云々されますが、ページをめくって別な節を読み進めると、草彅剛がオカマを演じた映画や、香取慎吾の「お母さん食堂」の話題が出てきます。要はLGBT活動家が「オカマが不幸になるストーリーだから許せぬ」「オカマでもない者がオカマを演じるとはけしからぬ」と噛みついたことを腐しているわけで、これまた非常に頷ける内容なのですが、ぶっちゃけここまで少年愛者を擁護しておいて、ジャニーズの名を挙げる時、逡巡はなかったのか、と感じます。
また、動画にも引用したようにBLについて擁護的な内容も基本、頷けるのですが、その(ポルノに擁護的な)主張がなされる箇所で、師匠は森奈津子、鈴折のご意見を引用しています。
よりにもよってこの二人かよ、としか言いようがありません。
ここで引用される両者の主張そのものは「差別よくありませ~ん」という凡百の、誰でも言っているようなものであり、ことさらに否定するモノではありません。が、ペドフィリアに親和的な論者を持ち出したことは、何か意図があってのことではないかと考えざるを得ません。
・『LGBTの不都合な真実』の、不都合な真実
さて、ぼくは動画においても師匠がバ美肉などを「フィクトセクシュアル」であると強弁することを批判しました。青識亜論が同じことを言っていて、両者ともが歩調をあわせ、オタクをLGBTの傘下に統合しようと企てているかのようにも見えます。
本書においてもいわゆるオタク系の(否、オタクを自軍に取り込もうとしている表現の自由クラスタ系の)論者の名前が頻出します。
内容としてはミスコンの現状(女性差別と言われたり、出場者の性別が自由になったりしていること)についての批判などで頷けるものなのですが、そこで言及されるのが柴田英理(原文ママ)師匠やろくでなし子師匠の発言について。
(「ミスコンのどこが悪い」という主張は頷けるのですが、そうなるとろくでなし師匠の「女性器を手足と同じにしたい」との理念とは相容れないんですが、この人たちは一切、気にしません)
近い読後感は、坂爪真吾『「許せない」が辞められない』の時にもありました。
ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような、オタクを自称する「ネトリベ」たちの(場合によっては保守を自称し)「左派寄りの思想(多くはフェミ)への批判」を口にしながら、しかし実際にはその批判対象とどこが違うのかがどうにもわからない……というパターン。坂爪師匠の出現はそうした論調がオタク界隈を越え、マスコミ界隈の連中にも広がってきたことの証拠とも言えました。
松浦師匠も同様なのではないか、と思います。
本書を読んでわかったのは、その論調、「自分をツイフェミとは違う真のフェミだと思い込んでいる、ツイフェミと何ら変わることのない一般フェミ」がさらなる広がりを見せつつある現状であったと言えましょう。
本稿を書き終えた後、参院選を控え、ぼくはあちこちで松浦師匠が「親オタク候補」として持ち上げられているのを見ました。
師匠とオタク(利権)とを結びつけたのが誰か、もちろんぼくにはわかりませんが、ともあれ師匠に票を投じようとしている方は今一度、よく考えていただく必要がありそうです。
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