天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

硯水

2020-07-12 17:59:03 | 日記
 新幹線を使っての不要不急の遠出には慎重であったけれど、22日からGO TOキャンペーンが始まると、混むといけないので、急遽飛び乗った。自由席ががら空きで3密から遠かった。気の毒に車内サービスも休んでなくて、コーヒーしか頼まなかったけれど、マンツーマン的な王侯貴族になったようなお持て成しだった。WiFiに接続してプライムビデオのNHKオンデマンドで懐かしの『あまちゃん』を見た。第1回には北三陸鉄道駅員大吉の若者時代役として東出昌大が出ていて、能年玲奈以上に懐かしかった。贅沢すぎて、グリーン席どころか、ゴールデン席だった。私のために景観を良くしてやろうと、天気も梅雨を休憩して晴れ上がった。ただ、渡る川、河は何処も濁っていて、呑気な気分になれる色ではなかった。
 ほうれん草を収穫した後の畑地に雑草が芽を出していた。つくづく逞しいと思った。人は望まれて存在するとは限らない。たまたま生年月日と丁目番地を授かっても、それを居場所と安住できるわけではない。たまに歌舞伎役者とか政治家のように永代跡目相続する例外も見られるけれど、大概はさいころの振り出しである。ましてや、雑草なぞ、種から生まれた正嫡でなく、鋤かれて切れた根っこのそのまたヒゲから生を細々引き継いだのだろう。まったく頭が下がる。自分はどこから生まれてどこに行くのだろうと思い悩む人間など、あまちゃんである。
 道路の隙間から植物が成長し、花でも着ければ、人は珍重する。そうした逞しい生き方は虫や微少生物にもあって、掘り下げていくと新型コロナウイルスにもなる。逞しさにエールを交わすばかりでなく、生きるか死ぬかの対決をしなければならなくなるときもある。雑草を見て感傷に浸っていると、とんだ酷い目に遭う。和泉式部を摘まみ読みして、
・飽かざりし むかしのことを 書きつくる 硯の水は 涙なりけり
ーの歌に行き当たり、脈絡なく、草の逞しさに比べ、墨の足りなさに思い至った。
 東京都は今日も新型コロナウイルス感染者が206人と4日連続2百台を維持した。いくら外国人観光客が居なくなったといっても、京の町をうろちょろしている場合ではない。

草の芽や
鋤鍬鎌を
交はさむも
つひには稲の
肥やしなりけり