天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

新解釈

2021-06-24 17:14:55 | 日記

 引退の勢関、現年寄・春日山はゴルファーとの婚約を解消していたことが公けになった。人情紙風船、浮遊して何処に落ちるか分からない。何処に向かうか分からないけれど、365日の紙飛行機のように、願いを乗せて飛んで行くしかない。
 高校時代はズレていたのか、論語、孟子を熱心に自習した。信、義、礼、智の徳目を実践していた。花の東京に進学したら、坂東武者の礼儀知らずや、蝦夷、熊襲の末裔の野蛮人ばかりの素行に気を失いそうになり、孔孟の学を捨てた。世の中は理屈通りに動いてないことを知った。以降、飯のために自分を偽りはしたものの、世の中に合わせようなどと思わなくなった。
 コロナ下でじっとしていると、晩酌だけが楽しみである。論語を読み返して、新解釈に至った。巻2「為政」の有名な「三十にして立つ」の個所は難しい話でなかった。
 1)吾、十五歳にして学に志す。―は、受験勉強があるから現代も変わらない。
 2)三十にして立つ。―は、大学受験に合格してからというもの、20代は放蕩三昧、飲んだくれてきてしまったのをハッと反省し、「立つ」というのは酒を「断つ」という意味であった。
 3)四十にして惑わず。―は、仕事上のお付き合いでまた飲み始めたけれど、若い時のように前後不覚にはならなくなったのである。
 4)五十にして天命を知る。―とは、量さえ飲めれば満足というのではなく、天狗舞大吟醸のような天下一品の酒に出遭った喜びを表している。
 5)六十にして耳順う。―というのは、酒は日本酒に限るとか頑固一徹にならず、飲む相手によって芋焼酎とか、泡盛、ビール、ウイスキー、ブランデー、ワイン、カクテルと、TOPを弁え、何でも調子を合わせて楽しめることができるようになった満足感を示している。
 6)七十にして心の欲する所に従い矩(のり)を超えず。―とは、肝臓に悪くないかなとか心配しなくても、好きなだけ飲んで度を過ごすことのない境地に至った自慢である。
 こう読むと論語も、親しみやすく、奥が深いことが改めて分かった。きょうは先生の言葉に得心が行ったので、いつもより1ランク上の「Teacher's」 SELECTにしようと思う。

学べども
処に合わず
時を得ず
ななそぢ過ぎて
時にへべれけ






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