歴史というものは自己正当化の道具か、せいぜい娯楽、慰み物で、決して歴史学者が言うような進歩や反省の教科書たり得ない。安全な塹壕から首も出さないで盲撃ちしても標的に当たるものではない。歴史は同時代性を持たなければ意味を持たない。きのうの事を改められなければ歴史の力と言えない。昭和天皇の綸言が御付きの「拝謁記」として賑わしているけれど、令和の世になってモグラのように蠢き出すのは、単なる興味本位の覗き趣味としか言えない。世の中を変革する何の力も持ちえない干乾びた襖の裏張り程度のものである。そんなものはラシャメン総理の吉田茂の在世当時に出してこそ価値がある。入用の時には息を潜め、無用になってからノコノコ出てくるのはどういうことか。NHKがそんなものに対価を払っているとしたら問題である。御歌などでなく公けにすることを前提にしない私語を暴露することに公益性はない。歴史の解明などとバカげたことを言うではない。物には旬がある。旬を外して、歴史の進路を修正する力を持たない乾燥食材は、その辺の好事家の餌食でしかない。池に撒いた麩に集まる金魚が喜ぶだけである。
日韓関係の険悪化が袋小路から抜け出せなくなっては拙いとして、反日運動を反安倍運動に収斂して糊塗しようとする動きがみられるようだけれど、永遠の負の連鎖がそんな小手先で断ち切れるものではない。ソウル旅行をした経験から、観光地の寺院、宮殿跡でよく小中学生と思しき遠足集団に遭遇した。そこでは必ず豊臣秀吉軍や昭和日本軍の破壊や横暴が教えられ、反日敵意の憎悪が永遠に拡大再生産される感懐を持った。事実が、京都辺りに耳塚や鼻塚が残るのだから、伝えられるのは当たり前の事である。反省などの言葉で済ませられる凶悪事でないし、時間を経て水に流せることはあり得ない。歴史意識として永遠に憎しみ、わだかまりを持つのは自然である。しかし、時の政府が正規の教育として憎悪を扇動するのは国交の先を思って空しくなる。明治日本政府、軍部が仮想敵国を暗にロシアに置いていたけれど、国民に露骨に敵国教育を施すようなことはなかった。むしろ丁重にニコライ皇太子を招いて余計な刺激をしないよう配慮していた。ただ、強大国ロシアの無言の圧力が国民に広がり、襲撃事件を引き起こしてしまったけれど、政府当局の本意ではなかった。政府が率先して敵国教育を施せば、民間の力で衝突の危険を防ぐのは難しくなる。民間にはいろんな思惑があり、扇動の動きがどの国でも起こるものだけれど、政府が主導してしまえば行き着く所までブレーキが利かなくなってしまう。どの国でも利益集団が利己のため扇動し、政権担当者が政権維持のためその扇動に乗っかるようでは、天与のものとされる選挙制度や民主主義など近代政治制度の疲弊を繕い直す必要があると思われる。
釘を打つ 藁人形の 甲斐あらば
いま甦れ 耳鼻の霊
いま甦れ 耳鼻の霊
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