プロ野球開幕はナイターか。天気がぱっとしないけれど、ニュー・ノーマルの象徴として景気付けになってほしい。クライマックス・シリーズはセ・リーグは実施せずに、パ・リーグは上位2チームによる3勝先勝(シーズン優勝チームに1勝のアドバンテージ)で決着とは、足並みが揃わないな。巨人にシーズン優勝の自信があるのかも。パ・リーグは西武が3年連続シーズン優勝するかが見どころである。MVPは西武ライオンズの高橋光成(こうな)投手と予想する。火の玉のような威力のあるボールを投げるのと、今年暴れまくっているコロナが何となく似通っている気がする。
ザクロと言えば、初夏に深緑に生い繁った葉の間から、パーッと燃えるように鮮やかな橙色の花を咲かせ、陽ざしの暑さを倍加させるエキサイティングな植物で、好きな花木の筆頭である。世間にも好まれており、この時季どこを歩いても走っても、あちこちで目を射るけれど、まるで東京ドームの野球試合のように100%ジャイアンツ応援のタオル色をしている。
と思っていたのに、遠出散歩の途次、動物のアルビノのように脱色して薄々黄色の柘榴に遭遇した。すわっ新種発見か、と興奮したけれど、ちょっと調べると、薄黄色どころか白い花の種類もあるそうである。未見であるけれど、ムクゲじゃあるまいし、白い花のザクロなんて冴えないだろうなあ。実も白っぽいのかな。
「口あけて はらわた見せる ざくろかな」の句は、名著『日本人とユダヤ人』の冒頭に載せられているけれど、白かったら随分印象が変わると思う。盛り蕎麦を頼んだのに白いのが出てきたら、俺はうどんを注文したんじゃねぇ、と怒鳴りたくなる感じだろう。
事程左様に、思い込みは真実を見る目を歪め、良くない。多目的トイレの前に立ったからといって、聞き耳を立てる習慣は卑しい。ましてや、SNS目的で盗聴カメラを仕掛けるのは犯罪で、新流行になったら真の利用者にとって迷惑極まりない。
トイレだけに限らず、日本の空も怖くなった。先次日米決戦末期の帝都東京並みに防空能力が無くなっている。ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』ではあるまいし、イージス・アチョー!なんてカラ元気だけで配備を撤回しているうちに、北朝鮮から白い気球に搭載したサリン爆弾を東北上空に飛来偵察されてしまったようである。為す術がなかった防空能力の手の内を知られてしまった。韓国からの謀略ビラの空中散布に対する報復なら南を狙えばいいのに、とんだ側杖である。恐らく日本政府には、日本海に展開する密漁に対し、海上保安庁等が口出しするな、という脅迫通牒が届いているとみられる。
側近の捜査はまかりならんと口出しできなくなったのが、昨夏の参院選での公選法違反買収容疑事件である。河井克行前法相と河井案里参院議員の夫妻同時に出頭を求め、容疑が固まれば逮捕というのは異例ではないのか。ふつう、候補者・当選者とその支援者では役割が異なり、周りから容疑を固めていくのが従来の捜査手順と思うけれど、完全に夫婦一体扱いとは!。
最近の検察は、政権に前歯も奥歯も牙をすべて抜かれていたのに、いつから変身したのか。よっぽど、捜査機関が舐められ切って、手出しができるはずがないと、買収手法が相当粗雑だったのかもしれない。二階自民党幹事長には、党や政権に影響を及ぼすほどの大物議員でない、と軽くあしらわれている。もう少し奮闘しなければ、政権のポチと見られている検察への不信は、この1件だけでは拭い切れない。随分前には、都市再生機構(UR)への誰しも認める自民党大物議員の口利きによって大金が動いた疑惑では、見え見えに李下に冠を正しているのを見て見ぬふりをして、不自然なやる気のなさで立件されず終いとなった事案もある。風向き次第で、扱いが異なることのないよう、法にのみ目を向けて忠実に職務に邁進してほしいものである。
口利いて
はらわた見せず
頬かむり
顔覗きたし
風の吹く待つ
藤井聡太七段のように次から次に妙手が沸くはずもなく、自粛生活に手詰まり感が濃くなり、投了寸前である。何十年来、朝7時のニュースはNHKラジオであったけれど、素材の取捨選択面から政府広報臭と官邸ヨイショ感が胸に詰まって息苦しく感じられるようになり、ダイヤルを回すと、954TBSもニュース報道していることに気付き、ここ2週間はこちらのお世話になり、コロナのお陰で生活習慣が変わった。
でも、テレビはどこも我慢できないので、『家について行ってイイですか?』以外はほぼ見ない。苦肉の策で、教育放送の高校講座を気が向いたら録画する。日本史、世界史に化学、物理もテーマによってたまに録る。きょうは日本史平安時代中期の武士の勃興を見た。乱を起こした平将門は首塚で少し名を知っていたけれど、それを討伐した朝廷軍の大将が平貞盛で、二人はいとこ同士だったと教えてもらい、大変、為になった。しかし、視聴率を意識してか、ゲストを招いてやり取りするのはどうもまどろっこしくて、付いて行き難い。そんな質問形式でやるなら、ハッシュタグで視聴者質問を受け付け、即答してくれればいいけれど、そんな才能の講師は見付からないだろう。従兄弟同士で平氏が平氏をやっつけた話に感じ入っていると、若い女性ゲストがへぇー、へぇーと2度も感嘆していたのには困惑した。吉本芸人ではなかったから、笑いを取ろうとしているわけでもなさそうだったけれど、何か微妙な後味が残った。
平家と言えば琵琶法師。散歩の道々に橙の色鮮やかな枇杷の実が盛りとなっているのが、この頃は目に付くようになった。
プライムビデオの無料映画も物色に手詰まり感が出てきたけれど、クラシック音楽も同時に楽しめる映画の掘り出し物を見付けた。『楽聖ショパン』と題し、1945年製作のアメリカ映画であった。音が悪かったけれど、もともと耳が良くないのでそんなに気にならなかった。ポロネーズやノクターンを若きピアニストから生で聞かせてもらった日々が蘇った。
ロシアなど列国の蹂躙を受けていたポーランドで宮廷の食事会に呼ばれ、演奏していたショパンは敵国貴族が着席すると、「人殺しの前ではピアノを弾けない」と癇癪を起して、叫び声をあげた。恥をかかせた仕返しによる身の危険が迫り、仲間たちに勧められ、都ワルシャワを舟で脱出し、パリに赴くことになった。その別れの際に、恋人のコンスタンチアからこの土地を忘れないでと、川原の砂をひと掴みして袋に入れて渡された。
パリではフランツ・リスト、ああ、知り合いが弾いてくれた『エステ荘の噴水』が今も耳に残る、に紹介され、男装の女流作家ジョルジュ・サンドと出会う。2人はマジョルカ島などで同棲し、ショパンは作曲に専念する。しかしその間、祖国ポーランド情勢はますます悪化し、コンスタンチアらポーランド人レジスタンス勢力が、資金面でショパンの助力を求めてやってくる。当初は人前で演奏する時間を惜しんだショパンは、欧州各国に演奏会旅行をして活動資金をねん出することに消極的であった。
しかし、コンスタンチアが渡した砂袋によって心が翻り、祖国愛に火が着いた。病弱の命を削ってウイーン、ベルリン、ロンドンなどヨーロッパ主要都市の演奏会に出かけ、無理が祟って39歳の若さで世を去った。
私はここで、この映画に隠された洒落に感動した。ショパン役のコーネル・ワイルドがアカデミー賞主演男優賞候補にもなったこの名作の監督チャールズ・ヴィダー氏が聞いたら、目を剥いて怒り出すだろうけれど、究極の決断を迫られたショパンが、自分の才能を見出してくれた大事な愛人のジョルジュ・「サンド」よりも、元恋人が祖国の同志の契りとして渡した布袋の「サンド」の方を、命を賭して選んだところがこの映画のミソだと解釈した。その究極の選択によって、ショパンが単なる夭折の天才作曲家としてだけでなく、民族普遍の心の作曲家として永遠不朽の名を歴史に残すことになった。
一握の
砂を啄木
忘らえず
祖国を偲び
ポロネーズ弾く
人生には曲がり角が来る。人間は社会的動物として、曲がり角を他人から指摘されて気が付くより、自覚できることがスマートであるけれど、これがなかなか難しい。会社の社長が居座ったり、政党の定年制でも73歳なんて関係ないと言い張る人も出てくる。ピンポン同好会などの緩い集まりになると、80代がバリバリである。明日は我が身で、扶け合うことは麗しい。でもこれが、政治指導者となると、そうも言ってられない。トランプ米大統領は国際関係でも国内でも剛腕の名で通って来たけれど、新型コロナウイルスに対し抗マラリア薬が効くと信じ自ら服用したり、Black Lives Matterの抗議運動に対し政府軍を使って国民を制圧しようと言い出したりして、国民側から体調不良の懸念だけでなく、老人性痴呆症が指摘されるようになってきた。若い頃から米大統領と言えば、世界のリーダーの第一人者として仰ぎ見る存在だっただけに、その偶像破壊ぶりにショックが大きい。そもそも米大統領とは、厚木飛行場に降臨したマッカーサー元帥や、天下布武の織田信長、和製大リーガーの佐々木主浩のような、大魔神と称される人物を、さらに超えるイメージだった。人の振り見て我が振り直せ、と言われるように、農家さんに枝豆を買いに行った。痴呆症(dementia)防止食物の代表格に挙げられるそうである。今晩はビールがうまいぞ。
赤毛のアンも孤児院から11歳でマシュー、マリラ老兄妹の養子となって、その天衣無縫ぶりが掛け替えのない宝物となって慈しみ育てられ、15歳にもなると、あどけない少女から自意識豊かな女の子となって、養親を戸惑わせるように成長してきた。ある日、養母のマリラがアンと並ぶと、アンの方が背が高くなっているのに気付いた。一葉落ちて天下の秋を知る、ではないけれど、手中での撫育からの巣立ちの間近いことを悟らざるを得なくなった。
"Why Anne, how you've grown!" she said, almost unbelievingly. A sigh followed on the words. Marilla felt a queer regret over Anne's inches. The child she had learned to love had vanished somehow and here was this fall, serious-eyed girl of fifteen, with the thoughtful brows and the proudly poised little head, in her place. Marilla loved the girl as much as she had loved the child, but she was conscious of a queer sorrowful sense of loss. And that night, when Anne had gone to prayer meeting with Diana, Marilla sat alone in the wintry twilight and indulged in the weakness of a cry. Matthew, coming in with a lantern, caught her at it and gazed at her in such consternation that Marilla had to laugh through her tears.
"I was thinking about Anne," she explained. "She's got to be such a big girl - and she'll probably be away from us next winter. I'll miss her terrible."
"She'll be able to come home often," comforted Matthew, to whom Anne was as yet and always would be the little, eager girl he had brought home from Bright River on that June evening four years before. "The branch railroad will be built to Carmody by that time."
"It won't be the same thing as having her here all the time," sighed Marilla gloomily, determined to enjoy her luxury of grief uncomforted. "But there - men can't understnd these things!"
There were other changes in Anne no less real than the physical change. For one thing, she became much quieter. Perhaps she thought all the more and dreamed as much as ever, but she certainly talked less. Marilla noticed and commented on this also.
"You don't chatter half as much as you used to, Anne, nor use half as many big words. What has come over you?"
Anne colored and laughed a little, as she dropped her book and looked dreamily out of the window, where big fat red buds were bursting out on the creeper in response to the lure of the spring sunshine.
"I don't know - I don't want to talk as much," she said, denting her chin thoughtfully with her forefinger. "It's nicer to think dear, pretty thoughts and keep them in one's heart, like treasures. I don't like to have them laughed at or wondered over. And somehow I don't want to use big words any more. It's almost a pity, isn't it, now that I'm really growing big enough to say them if I did want to. It's fun to be almost grown up in some ways, but it's not the kind of fun I expected, Marilla. There's so much to learn and do and think that there isn't time for big words. Besides, Miss Stacy says the short ones are much stronger and better. She makes us write all our essays as simply as possible. It was hard at first. I was so used to crowding in all the fine big words I could think of - and I thought of any number of them. But I've got used to it now and I see it's so much better."
"What has become of your story club? I haven't heard you speak of it for a long time."
"The story club isn't in existence any longer. We hadn't time for it - and anyhow I think we had got tired of it. It was silly to be writing about love and murder and elopements and mysteries. Miss Stacy sometimes has us write a story for training in composition, but she won't let us write anything but what might happen in Avonlea in our own lives, and she criticizes it very sharply and makes us criticize our own too. I never thought my compositions had so many faults until I began to look for them myself. I felt so ashamed I wanted to give up altogether, but Miss Stacy said I could learn to write well if I only trained myself to be my own severest critic. And so I am trying to."
***この部分は松本侑子訳によると;
「あらまあ、アン、大きくなったねえ!」マリラは信じられないといった面持ちで言った。そしてすぐにふっとため息をついた。アンが自分の背を越すほどになり、なんだか妙に名残惜しいような寂しさを覚えたのだった。マリラに、人を愛するということを教えてくれた小さな子どもは、いつのまにか跡形もなく消えてしまい、その代わりに、目の前には、すらりと背が高く、真剣な眼差しをした十五歳の少女が、思索的な顔つきをして、小さな頭を誇らしげにそらして立っているのだ。今のアンも、幼かった頃のアンと同じように愛しかったが、何かを失った気がして、マリラは無性に哀しかった。その夜、アンがダイアナと祈祷会に出かけてしまうと、マリラは、薄暗い冬の夕闇の中に、一人ですわっていた。すると気弱になって涙がこぼれ、ひとしきり泣いてしまった。仕事を終え、ランタンを手に入ってきたマシューは、そんなマリラに驚いて、目を見はった。マリラは、泣き顔に無理に笑みを浮かべた。「アンのことを考えていたんですよ。いつのまにかあんなに立派な娘になって。来年の冬は、もうこの家にいないんですよ。あの子がいなくなったら、どんなに寂しいでしょうねえ」
「でもな、ちょいちょい帰ってこられるよ」マシューは慰めた。彼にとってアンは、いまだに、いや、いつまでたっても、四年前の六月の夕方、ブライトリバー駅から連れてきた時と変わらぬ、ひたむきで小さな女の子なのだった。「その頃には、おおかた、鉄道の支線がカーモディまで延びているだろうしな」
「でも、いつも家にいた頃のようにはいきませんよ」そう言うと、マリラは陰鬱そうにため息を漏らした。慰められることのない哀しみなら、いっそ思う存分にひたって寂しい楽しみに身をまかせる気でいた。「とにかく、こういうことは男の人には分かりませんよ!」
アンが変わったのは体だけではなかった。歴然とした変化が、ほかにもあった。その一つは、前よりずっと口数が少なくなったことだ。おそらく、前にも増してもの思いに耽り、また、いつもながらに夢想を楽しんでいるのだろうが、それなのにめっきり無口になったのだ。マリラもこれには気づいていた。
「あんたは、前の半分もしゃべらなくなったね。大げさな言葉づかいもしなくなったし、どうしたんだね?」
アンはちょっと頬を染め、はにかむように笑うと、読みさしの本を置き、夢みるように窓の外を眺めた。春の陽ざしに誘われて、窓辺のつたから、赤い芽が萌えいで、ふっくらとふくらんでいた。
「どうしてだか分からないけど、あまり話したくないの」アンは思案深げに人差指をあごに押し当てた。「大切でひそやかな想いは、宝物のように胸に秘めていたほうが、すてきなのよ。人に話して、笑われたり、変に思われたくないの。それに、大仰な言葉も、もうつかいたくないわ。大げさに話したければ、話してもかまわない年になったのに、なんだか残念ね。大人になるって、楽しいこともあるけど、想像していたのと違ったわ。勉強や、用事や、考えることがありすぎて、大げさな口をきく暇もないのよ。それにステイシー先生は、短い言葉ほど説得力があって分かりやすいんですよ、作文はできるだけ簡潔に書きなさいって言われるの。最初は難しかったわ。だってそれまでは、派手で大げさな表現を思いついた端から全部、並べていたから、いくらでもそんな言葉が頭に浮かんでくるの。でも、慣れてくると、すっきりした言葉のほうが味わいがあるって分かったわ」
---「おしん」ちゃんが小林綾子から、田中裕子に代替わりしていくような、切なさが感じられる場面である。作家もこんな世界的なアイドルを世に送り出してしまうと、成人してからの造形が大変だと思う。政治家、国のリーダーはそれ以上に切実に衆目を集めているのだから、出処進退に公と歴史の目を意識して、間違っても晩節を汚さないようにしてほしいものである。
若き日に
仰ぐアメリカ
統領も
ぼけ疑はる
枝豆買はむ
アトランタといえば日本人にとっては、アカデミー賞受賞映画『風と共に去りぬ』の舞台となり、南北戦争の南軍の拠点で黒人労働者による綿花栽培が盛んだったというイメージがまず浮かび、次に夏季オリンピック(1996年)の開催地という印象である。そんな土地で、ミネアポリス警官による黒人男性暴行死事件に端を発して「Black Lives Matter」が全米から全世界に拡大しているさなかに、また黒人男性が警官に撃たれ死亡した事件が発生した。メディア情報に突き動かされて判断するのは慎重にならなければならないが、なぜ自制が効かなかったのか、残酷で痛ましいという印象しか起きない。折から『風と共に去りぬ』に人種差別的描写があるという理由で、配信が停止となり注目されていた。同市の警察署長が辞任する事態に陥っている。この悪い連鎖を世界の民主主義陣営のリーダー国が、良識と対話で食い止められなくてどうするのか。圧政や民族抑圧を行っている国があっても、自国がお手本を示せなくては、政治介入したり、武力制圧する正統性が失われるであろう。法と秩序を回復するために、蛮行が許されてはならない。まず為すべきことは、国民の政府に対する信頼を回復することである。言葉の不自由な他国の匹夫が要らざる口出しをして誤解を招くのは避けなければならないが、アトランタ事件ニュースの感想として、
That's cruel !
Shot by the cop.
Gone with the Feud.
---と新聞社に送信した。
コロナウイルスのパンデミックを押さえようとすると、どうしても徳と天罰という古くからの政治思想を持ち出さないと腑に落ちない。国民というより権力志向の大統領が適当にあしらっている国に被害が大きい傾向がある。ヒドロキシクロロキンでも飲めば治るとか、風邪の一種で気にすることはないとか、ウオッカで消毒すればよいといったような、マッチョだが粗雑な思考に頼る嫌いがあるためかもしれない。経済は国民の欲を上手く引き出せば、為政者が大したことをしなくても潤滑に回ることがある。一方、病原菌は一応、科学的知見に基づいて対処しなくては制御できない。しかし、新型コロナウイルスについては組成や発生のメカニズムがまだ何も分かっていない状況である。罹患者の治療については、肺の機能を代替する医療技術で回復することもあるけれど、大概は自己免疫力に頼っている。病原菌の特性がよく分からないものだから、感染の経路も解明されていない。だから、古代からの医療法である、人から人への伝染を抑える方法、いわゆる3密回避、ソーシャル・ディスタンス、手洗い、うがい、マスク着用程度しか思いついていない。感染者・死者の多寡は、国ごとの医学的処置の優劣を反映するというより、運不運に左右されている嫌いもある。これを医療専門家という人種が、無理に何とか総括しようとする。それをまた政治用語に変換すると、「日本モデルの力を示した」という、大多数の愛国的日本人が納得したけれど、私にはよく咀嚼できない結論が導き出されている。そんな不思議な迷路にさ迷い込んでしまったものだから、つい、特異な気質の大統領のそれぞれの「徳」に起因するのではないかと考え込んでしまう。また、彼らが自分の脚下を見直すよう「天罰」が下ったのではないかという結論に誘惑される。しかし、徳の薄さから世界を見渡すと、まだまだ天の審判は大物に向け進行中という予感がする。
神の怒り
弾けぬ前に
跪け
ちからと力
恨み残せば