このシリーズも第4弾になりました。
今回はイタリア映画「人生ここにあり」をご紹介したいと思います。
映画の概要、背景を以下、wikipediaから転載します。
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1980年代ミラノ近隣における脱施設化(Deinstitutionalisation)、バザリア法施行の時期の人々のつながりを描いている。
(あらすじ)
イタリアのミラノ。労働組合で働くネッロは急進的な問題児で、精神医療センター内の「協同組合」に異動させられる。
そこは法制定によって精神科病棟が閉鎖され、行き場のない患者の自立のための組織だが、実際には施しのような仕事をする場である。
医師で理事長のデルからマネージャーの業務を任されたネッロは、まず入所者に組合員としてやりたい仕事の多数決をとってその結果、市場参入して寄木張りの木工作業をすることになる。 しかし障害者への仕事発注はなく、困ったネッロは友人パデッラに頼んで彼の店の床張りを任せてもらう。ところが寄木材が不足するトラブルが生じて、間に合わせの廃材を利用して何とか床張りを完成させたが、その床のデザインが絶賛され、これを機に仕事が舞い込むようになる。
組合員にはそれぞれ役割が与えられ、報酬を得たことでやりがいと自信が生まれる。 やがて組合員に対する過剰な投薬が意欲減退という副作用をもたらすことに気付いたネッロは、デルに減薬を相談するが聞き入れられない。
そこでネッロは、彼の取り組みに賛同する医師フルランと共に、精神医療センターを離れて新組合を発足させる。
薬を減らしたことで皆は元気と欲望を取り戻していくが、性欲のはけ口が必要と考えたネッロは買春ツアーまで催して、評判を聞いて入会希望者が増えていく。
しかし事件が起こる。ルカと共に作業に出向いたジージョは、その家の若い女性に恋をして、二人は彼女のパーティーに招かれるが、ジージョをからかった男をルカが殴って警察沙汰になる。女性は彼らを勘違いさせた自分のせいで、精神病患者を起訴しないで欲しいと頼み、それを陰で聞いたジージョはショックを受けて自ら命を絶った。
この事件を機に組合は元の体制に戻る。デルが書いた報告書には、ネッロの取り組みは事件とは無関係と記されたが、ジージョの死への責任と自信喪失からネッロは組合を去る。
だがその後、パデッラの下で働き始めたネッロを組合員らが訪れ、パリの地下鉄の仕事を受注すると聞いたネッロは再び組合に戻り、組合の仕事は順調に増えていった。
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この映画は私が講義で上映します。
2022年くらいにレンタル落ちで2,500円くらいで購入した記憶があります。
「障害者福祉」「社会参加とは?」というテーマで視聴してもらいます。
この映画のポイントはまず「吹き替えがあること」です。
洋画、特にハリウッド映画以外の精神科関連の映画は吹き替えがないものばかりです。
第一話で触れた「カッコーの巣の上で」も「吹き替えがある」のでお勧め上位に挙がってくると思います。
この作品を観て、私が感じ取って欲しいのは、「普通は普通じゃない」ということです。
精神科病院に入院させられていた人は、「家族が面倒見切れなくなっただけ」の人だということです。
余裕がある家族なら、面倒が見れるます。
しかし「時間、経済、心」の余裕がない家族にあたってしまうと、「この子は無理」となり、どこか施設に預けることが常態化してしまいます。
家族という受け皿のキャパシティが小さければ、自分たちの生活を優先してしまうため、社会で面倒をみて貰わなくてはならなくなります。
そこで、面倒をみてもらうための「口実作り」「レッテル」が必要となってきます。
そのレッテル貼りが、「精神疾患という病名=ラベル」なのです。
精神病は「一般人以下、犯罪者以上」という被差別カテゴリーを社会が認めているのです。
これは、知的障害者や身体障害者にも同じことが言えます。
これらの人たちを区別すること自体、「社会全体が人間を大切にしていない」現れです。
現代社会は、労働生産性、つまり「労働力があるか?経済を回せるか?回せないか?」という基準だけで、人間の尺度を決めて、基準から外れれば「障害者」扱いし、被差別カテゴリーに転落させるのです。
先進国は、障害者に対して、
①労働できず、路上生活者、つまりホームレスとなるか?
②犯罪して生活し、刑務所暮らしになるか?
の単純2択の世界です。
そのどちらにも属さない人は、
③精神病院で死ぬまで社会的入院の人生
が待ち構えています。
ある意味、精神病院はホームレス対策、社会的弱者の受け皿として機能しています。
「働かないと食べていけない世界で、働かない人たちは、社会の常識や価値基準から逸脱しているため、精神がおかしい」
と判断して、精神病による障害を負った人と定義しているのかもしれません。
・・・何と愛のない世界なのでしょうか?
イエス様が活躍した2000年前も生まれながら麻痺があり、歩けない人が、神殿の「美しの門」で物乞いをしているシーンがあります。
現代は、科学技術は進歩し、便利な社会になりましたが、社会的弱者に物乞いのような事をさせています。
現代も、イエス様の活躍した時代と同じ2,000年前と心の中、考えは変わりないように思えます。
どれだけ物質的に豊かになっても、障害のある人達に対して、政治家や企業経営者といった権力者、金持ちたちは、慈しみや憐れみの心1つなく、「障害者」という枠組みに閉じ込めて、「社会から隔離しろ、社会に出て来て迷惑をかけるな」と考えているのです。
この映画を観て、私は、「人類は何も進歩していない、弱肉強食の考えから抜けだせていない」「愛が冷めている」と感じるのです。
映画の舞台はイタリアですが、日本はもっと障害者に対して冷ややかです。
充分な公助もなく、訓練しろ、自分の足で歩けと自助ばかり要求します。
別に障害者だけでなく、定年退職した高齢者に対しても、僅かばかりの年金を支払い、老後、ギリギリの生活しかできないようにするような政治家が選ばれているのです。
その証拠に、日本の自殺者の年齢割合は圧倒的に65歳以上の高齢者が上位になっています。
個人的に、この作品を観て感じることは、
「公務員を全員障害者にすれば良い、ハンディキャップのある人にやってもらえば良い」
と思います。公務員は競争の無い仕事ですから、健常者が行う必要がないのです。
健常者はもっと競争すればよい、競争して高めあえば良いと感じるのです。
話は飛躍しましたが、このような、社会的弱者への差別の作品を観るたびに、人類は何も進歩していない、愛を知らない為、利己的になり、退化していると強く感じるのです。
現代社会では、お金や権力のために働く人ばかりで、愛のために働く人がいないからこのような社会構造から抜け出せていないのでしょう。
『RAPT有料記事291(2018年7月7日)神様の世界では誰が最も愛するかという競争をするから、競争が激しくなればなるほど平和が作り出される。https://rapt-neo.com/?p=48144』
そして、愛の溢れる世界になって欲しいという気持ちで一杯になります。
改めて、この作品から「障害は社会が産み出しているのだな」と感じられます。
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