「信仰」って何だろう…
「信仰を持つこと」は悪い事ではない。
しかし、「私は信仰を持っている」と断言する人は、自分が信仰しているものが絶対的に正しいものだと信じて疑わないところがあるように思う。
私の親は特に何かを信仰していたわけではなく、本家ではなかったので仏壇もありません。
でも父親はご先祖さまに対しての思いは強く、お墓参りは欠かしませんでした。
母は辛い時期、さまざまな信仰の場に行きましたが、結局自分の納得できる信仰に出合えず、自分自身で辛さを乗り越えようとしていました。
さて、義実家(特に姑さん)は「信仰を持っている」ことをとても誇りに思っています。
私は結婚してから本格的に義実家の信仰に付き合うことになるのですが、私は10年経っても義実家の信仰は受け入れられないところがあります。
信仰の対象と義実家の間にはAさんという人がいて、姑さんは何でもAさんに相談し、その通りに行動することが救われることと思っているようです。
Aさんは観音様の生まれ変わりだとか、すごいお力があると言っていて、そういう力を頂きたい一心に見えるのです。
確かに、人の力ではどうにもならないこと、不思議なことがあります。
そういう力に頂くために信仰をしているような気がしてなりません。
その力を頂くためにはAさんの理不尽な行動にも我慢し、Aさんの導きに従わなけばならないと思っています。
姑さんは小さい頃からこのように誰かの導きに従って生きてきたようです。
自分で物事を深く考えないうちに、Aさんに意見を求め、そのまま実行してしまうことが多々あります。
それによって義姉さんとトラブルになり絶縁状態…
可愛い孫にも会えなくなっているにもかかわらず、義姉さんの頑固さを責め、自分がしたことを反省する様子はあまりない
姑さんは義姉さんの為に良かれと思っているのですが、それが実は義姉さんを傷つけていることに気付いていない。
これまで何度も引用してきた『「良かれと思って」の罪深さ』
本人がそのことに気付かないといけないのだけど…
姑さんは信仰によって自分で深く物事を考えることができなくなってしまったのだ。
相手のことを思っての言動であっても、結構自分中心の考え方である。
自分の発言が他人を傷つけるかもしれないこともあまり考えていない。
『「良かれと思って」の罪深さ』は、考えること・想像力の欠如で、それを本人は気づいていないことによる。
私も姑さんの言動に悩んだり、傷ついたりしましたが、悪気はないし、望んでもどうにもならないことだと割り切れるようになりました。
信仰ってなんだろう…
私は姑さんの信仰の仕方は何だか間違っているような気がする
でも本人が素晴らしいものと疑わず信じているので、何を言っても聞き入れはしない。
信仰とは神仏の力を頂くためのものではなく、どんな状況でもそれを受け入れ生きていく勇気を頂くものではないだろうか…
「信仰を持つこと」は悪い事ではない。
しかし、「私は信仰を持っている」と断言する人は、自分が信仰しているものが絶対的に正しいものだと信じて疑わないところがあるように思う。
私の親は特に何かを信仰していたわけではなく、本家ではなかったので仏壇もありません。
でも父親はご先祖さまに対しての思いは強く、お墓参りは欠かしませんでした。
母は辛い時期、さまざまな信仰の場に行きましたが、結局自分の納得できる信仰に出合えず、自分自身で辛さを乗り越えようとしていました。
さて、義実家(特に姑さん)は「信仰を持っている」ことをとても誇りに思っています。
私は結婚してから本格的に義実家の信仰に付き合うことになるのですが、私は10年経っても義実家の信仰は受け入れられないところがあります。
信仰の対象と義実家の間にはAさんという人がいて、姑さんは何でもAさんに相談し、その通りに行動することが救われることと思っているようです。
Aさんは観音様の生まれ変わりだとか、すごいお力があると言っていて、そういう力を頂きたい一心に見えるのです。
確かに、人の力ではどうにもならないこと、不思議なことがあります。
そういう力に頂くために信仰をしているような気がしてなりません。
その力を頂くためにはAさんの理不尽な行動にも我慢し、Aさんの導きに従わなけばならないと思っています。
姑さんは小さい頃からこのように誰かの導きに従って生きてきたようです。
自分で物事を深く考えないうちに、Aさんに意見を求め、そのまま実行してしまうことが多々あります。
それによって義姉さんとトラブルになり絶縁状態…
可愛い孫にも会えなくなっているにもかかわらず、義姉さんの頑固さを責め、自分がしたことを反省する様子はあまりない
姑さんは義姉さんの為に良かれと思っているのですが、それが実は義姉さんを傷つけていることに気付いていない。
これまで何度も引用してきた『「良かれと思って」の罪深さ』
本人がそのことに気付かないといけないのだけど…
姑さんは信仰によって自分で深く物事を考えることができなくなってしまったのだ。
相手のことを思っての言動であっても、結構自分中心の考え方である。
自分の発言が他人を傷つけるかもしれないこともあまり考えていない。
『「良かれと思って」の罪深さ』は、考えること・想像力の欠如で、それを本人は気づいていないことによる。
私も姑さんの言動に悩んだり、傷ついたりしましたが、悪気はないし、望んでもどうにもならないことだと割り切れるようになりました。
信仰ってなんだろう…
私は姑さんの信仰の仕方は何だか間違っているような気がする
でも本人が素晴らしいものと疑わず信じているので、何を言っても聞き入れはしない。
信仰とは神仏の力を頂くためのものではなく、どんな状況でもそれを受け入れ生きていく勇気を頂くものではないだろうか…