ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

イスラム時代の古都の風情を残すコルドバ … 陽春のスペイン紀行 4

2013年06月16日 | 西欧旅行…陽春のスペイン紀行

       ( 小雨に煙るモンテフリオの村 )

 果てしなく広がる起伏は、全てオリーブ畑。丘も谷もオリーブの木がうめつくす。

 こんな乾いた、石ころだらけの台地には、オリーブしか育たないのだろう。 

 そう思いながら車窓の風景を眺めていると、突然、三角錐の丘が現れ、そのてっぺんには城砦がでんと建っていた。そして、てっぺんの城塞を目指すかのように、白い家の群れがぎっしりと斜面にへばりついている。

 その光景に目を奪われている間に、車は、また、オリーブの林のなかへ入って行った ……。      

饗庭孝男 『 ヨーロッパの四季Ⅱ 』 (東京書籍)から

  「太陽が台地を焼きつけるときの異常なまでの熱さと、台地を去ったときの極端なまでの寒さ …」

  「内陸部の多くが高原で、しかも岩地であれば、この地はつねに何かに渇いている …」。

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< グラナダからコルドバへ >

 5月17日。曇天。小雨が降る。

 ホテルのテレビで天気予報を見ると、イベリア半島だけでなく、ヨーロッパ大陸全体に重い雨雲が垂れ下がっている。

 乾燥したスペインでこういう天気は珍しいのであろうが、その分、涼しい。

 予約していた観光タクシーが、アルハンブラのそばのホテルまで迎えに来て、コルドバへ向かう。運転手は、30台後半だろうか、人柄の良さそうな人で、安心する。

   列車で行くところをタクシーにしたのは、紅山雪夫 『魅惑のスペイン』 に、グラナダからコルドバの間の国道432号線はローマ時代からの旧街道で、いかにもアンダルシアらしい景観に恵まれている、と書いてあったから。

 それに、何よりも、タクシー代が安い。飲みすぎて終電車に乗れず、タクシーで家まで帰ったと思えばいい。

        ★

< モンテフリオの村に寄る >

 グラナダを出発して1時間。モンテフリオという村で、1時間の自由見学タイム。ガイドブックには出ていない、名もない村だ。

 頂上に建つのは城砦ではなく教会だが、今は閉じられているらしい。とりあえず丘の上へと、集落の中の道を歩いて行く。

 村の道は、まるで世界から取り残されたような静けさだった。こんな素朴な村の中を、外国人がもの珍しげに歩いてよいのだろうかとためらわれた。

   だが、たまたま道を尋ねた老人は、「どうだ、良い村だろう」「 頂上の教会は‥‥」 と、スペイン語で説明を始める。もしスペイン語を解するような顔をすれば、滔々とうんちくを傾けられたことだろう。

 「 … 何でも聞いてくれ」。人が良く、親切で、話し好きなのだ。何より、自分の村を愛している。

   頂上の石の教会の扉には鎖が掛けられていた。

 頂上近くの家々は洞窟で、門扉と家の前の部分が、洞窟から張り出している。

         ( 洞窟の家の玄関 )

   頂上からの展望は、見渡す限りのオリーブ畑で、野を越え山を越えて続いていた。

   

   (頂上付近からの遠望)

 麓まで降りてくると、現在も使われている村の教会があった。要塞のような教会だ。

 その下あたり、カフェや商店もわずかにあって、この村の一番の「繁華街」なのかもしれない。

       ( 教会と村 )

 再び車に乗る。グアダルキビル川が流れるイスラム時代の都コルドバが近づくと、オリーブ畑の起伏が消え、土地は肥沃になり、一面の小麦畑となった。緑の中に、小麦の黄色が広がって、パステル画のようなやわらかい色調が美しかった。

        ★

古都コルドバの歴史

 コルドバは、紀元前の時代からローマが発展させた都市であり、ローマ帝国の州都であった。

 西ローマ帝国が崩壊すると、イベリア半島にはゲルマンの一族である西ゴード族が侵出し、王朝を建てた。首都は、イベリア半島中央部のトレド。

 711年、イスラム教徒たちが、ジブラルタル海峡を渡ってやって来て、西ゴード王国を倒し、後ウマイヤ朝を建てた。彼らもコルドバを都とし、この王朝の下、コルドバは空前の繁栄を謳歌する。最盛期には、人口も現在の3倍、100万人を超えたと言われる。

 町には、40万冊を蔵する王立図書館があり、学校 (大学) もあった。古代ギリシャ・ローマ文明を受け継ぎ、学問の最先端を行くこの都市に、西欧キリスト教世界からも留学生たちがやってきた。そのような都市コルドバの、今に残る繁栄の象徴が、壮大なモスクの建物である。「メスキータ」と呼ばれる。

 もっとも、後ウマイヤ朝を人口構成でみれば、アフリカからの到来者は1割程度に過ぎない。多くのキリスト教徒たちは安全を保証され、優れたイスラム文明に同化されつつも、キリスト教信仰を維持し続けた。ユダヤ教徒たちも同様である。

 1031年、内紛によって後ウマイヤ朝は崩壊し、イスラム世界は多数の地方勢力の分立となった。

 このころから、宗教的急進主義が起こり、キリスト教やユダヤ教に対し不寛容になていく。

 そうした宗教的「純化」の徹底に反比例するかのように、軍事的力量は低下していった。1236年、南下してきたキリスト教勢力のレコンキスタによって、コルドバは再占領される。

 キリスト教徒による支配になると、コルドバの壮大なモスク・メスキータは改修され、モスクの建物の内部に、キリスト教教会が造られた。

 ローマ時代 → 西ゴード王朝の時代 → イスラム時代 → レコンキスタ後のキリスト教時代と、幾層にも重なる歴史をもつ都市が、コルドバである。 

樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』( 岩波新書)から。

 「 西暦800年ころの世界地図をみわたしてみよう。おそらく世界最大をきそう都市が4つある。中国は唐の長安、ビザンチン帝国のコンスタンティノープル、イスラーム帝国アッバース朝のバクダード。そして、おなじイスラーム世界の西方を扼するコルドバ。

 そのひとつであるコルドバ。イベリア半島の南部、アンダルシアのグアダルキビル川の河畔にある 」。

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< グアダルキビル川とローマ橋 > 

   タクシーは、グアダルキビル川の対岸にあるホテルに到着した。

 小雨が降り、グアダルキビル川の中州は緑に潤っていた。その向こうに、旧市街とメスキータの威容を望む。

 

   ( グアダルキビル川とメスキータ )

 グアダルキビル川は、スペイン南西部のアンダルシア州を流れる大河。「大きな川」を意味する。

 スペインには、タホ川、ドゥエロ川など、イベリア半島の中部を横断して流れる大河があるが、いずれも河口はポルトガル領となり (リスボン、ポルト)、大西洋に出るのはグアダルキビル川しかない。

 すでにローマ時代に、商業用船舶や軍船がコルドバまで遡り、コルドバは州都となった。

 イスラム時代にも、コルドバは、都として栄えた。

 コルドバよりも下流に位置するセビーリャは、今も大型船舶の航行が可能である。イスラム時代に、コルドバを凌いでアンダルシア第一の港湾商業都市に発展をした。大航海時代には海洋交易を独占して、スペイン帝国の経済を支えた。

 グアダルキビル川に架かる最古の橋が「ローマ橋」である。

 「( 紀元前のアウグストゥス帝の時代に )、グアダルキビル川に石製の橋が渡された。この橋は、その後いくども補修が施されながら、今も同じ場所で、川面に陰を落としている 」。 (樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』)

 

   ( グアダルキビル川とローマ橋 )

   この橋が眺めてきた2千年の興亡を思いつつ、旧市街へ入った。

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< メスキータ (コルドバの大モスク) >

 「メスキータ」は普通名詞でモスクのこと。ただし、固有名詞として使われる場合は、コルドバのモスクを指す。メッカのモスクに次ぐ大きさらしい。ただし、「メスキータ」は、キリスト教徒がこの町を奪回した後の呼称である。

 「免罪の門」を入ると、中庭がある。中庭には水盤があり、イスラム教徒はこの水で身を清めて、シュロの門から礼拝堂へ入った。今は、中庭にオレンジの木が植えられ、水盤は装飾的な泉になってしまった。

 ミナレットと呼ばれる塔が建つ。イスラム時代には、お祈りの時間を告げる塔だったが、今は上部がキリスト教式に改造され、鐘楼となっている。

         ( 中庭と塔 )

 西ゴード時代、この場所にはキリスト教会があった。

 コルドバを占領したモーロ人は、最初、キリスト教徒と話し合い、半分だけモスクとして使った。初期のイスラム教徒は、キリスト教徒にも敬意をもち、教会を力づくで接収するようなことはしなかった。

 その後、コルドバの発展とともに手狭になり、残りの半分も買収した。

 それでもどんどん手狭になり、200年の間に3回も大拡張して、結局、2万5千人を収容できる大モスクになったという。

   礼拝堂の中に入ると、偶像や絵画はなく、850本の石柱の森は、しんと静まっていた。

     (メスキータの礼拝堂内部)

 1234年にコルドバが再征服された後、メスキータはキリスト教会として使われるようになり、中庭も、塔も、礼拝堂の中も、徐々に姿を変えていった。

 本来、モスクの内部は中庭との間を隔てる壁がなく、ミナレット (塔) のある中庭に向かって明るく開かれて、晴朗である。それが今は、四方を壁に囲まれた薄暗いキリスト教会の空間になっている。

 16世紀になって、一人の司教が、この石柱群を取り払って、メスキータの中に聖堂を建てるという企画を、カルロスⅠ世に提案した。この案に対しては、キリスト教徒のコルドバ市民も、キリスト教の聖職者たちさえも、この美しい建物をこわしてはいけないと猛反対した。だが、現地を見たことがないカルロスⅠ世は、これに許可を与えてしまった。

 それでも、工事に当たった建築主任は、メスキータの価値を十分に理解し、被害を最小限にとどめるよう設計した。そのお陰で、石柱は156本しか取り払われず、850本が残された。

 とにかく、この巨大なモスクの中央近くには、全く違う建築原理で建てられたキリスト教の礼拝堂が存在する。のちに、コルドバを訪れたカルロスⅠ世は、メスキータに入って、初めて後悔したという。私のカメラも、そこは避ける。

  

    ( 黄金のミフラーブ )  

   ミフラーブは、モスクの壁に埋め込まれた施設で、メッカの方角を示す。信者はミフラーブのある方向に向かって並び、祈りを捧げる。

   簡素な礼拝堂の中で、ミフラーブとその上のアーチだけは、豪華だった。

       ★

< アルカサル (城砦) >

 アルカサル (イスラム時代の城砦) は、メスキータの西側にある。

 現存するのはレコンキスタ後に造りかえられた13世紀末のもので、15世紀にはグラナダ攻略の拠点になった。

 グラナダ陥落直後、コロンブスはこの城でカトリック両王に謁見して、資金援助を仰いだそうだ。 

     ( アルカサル )

 イスラム勢力を追い払い、大改修しても、モーロ文化の影響は濃く、庭園もモーロ風で美しい。

   

    ( モーロ風の庭園 )    

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< ユダヤ人街の「花の小道」 >

 メスキータの北側は、昔、ユダヤ人居住地だった。今はその名を残すのみ。

 入り組んだ狭い道に白壁の家々。窓辺には鉢植えの花。アンダルシアらしい風景だ。

 そういう通りの一つに、「花の小道」がある。 路地を入って行くと、行き止まりであることがわかり、振り返ると、鉢植えの花の間からメスキータの塔が見える。路地、花、メスキータ。それで、今ではすっかり観光スポットになってしまった。日本出発の団体ツアーも、ぞろぞろと入り込んでくる。

  

   ( 「花の小道」 )

 コルドバの名物料理にラボ・デ・トロ (牛テールの煮込み) がある。わざわざ「テール」などを食べなくても、と思う。

  「エル・カバーリョ・ロホ」というレストランの名店があって、玄関がなかなかオシャレ。お腹もすいていたし、つい入ってしまった。ここもテールが売り。

  「テールを少々。お腹は空いていないから、少しでいい」。

 繁盛して、たいへん忙しそうだったが、誠実なウェイターは、ちゃんとテール料理を半分にして出してくれた。

 恐る恐る食べてみたら、意外にも、美味しかった。もう少し食べたかった。

        ★

< ビアナ公爵邸のパティオ >

  小雨の中、ユダヤ人街を抜けて、ビアナ邸を目指した。この辺りまで来ると、観光客も減り、瀟洒な家々が並んで、コルドバが古都であることを実感する。 

 ビアナ邸は、14世紀の公爵邸。12もの、それぞれ趣の異なるパティオ (中庭) が造られていて、堪能した。気品があった。

 

              ( パティオの一つ )

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 1日の見学を終え、歩き疲れてホテルに向かう途中、ローマ橋の向こうに虹が架かった。明日はお天気かな?

 雨 上がり / はつかに虹の / ローマ橋

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 その夜、ホテルの窓から、グアダルキビル川の向こうに、ライトアップされたメスキータが見えた。 (続く)

 

 

 

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