( 小雨に煙るモンテフリオの村 )
果てしなく広がる起伏は、全てオリーブ畑。丘も谷もオリーブの木がうめつくす。
こんな乾いた、石ころだらけの台地には、オリーブしか育たないのだろう。
そう思いながら車窓の風景を眺めていると、突然、三角錐の丘が現れ、そのてっぺんには城砦がでんと建っていた。そして、てっぺんの城塞を目指すかのように、白い家の群れがぎっしりと斜面にへばりついている。
その光景に目を奪われている間に、車は、また、オリーブの林のなかへ入って行った ……。
饗庭孝男 『 ヨーロッパの四季Ⅱ 』 (東京書籍)から
「太陽が台地を焼きつけるときの異常なまでの熱さと、台地を去ったときの極端なまでの寒さ …」
「内陸部の多くが高原で、しかも岩地であれば、この地はつねに何かに渇いている …」。
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< グラナダからコルドバへ >
5月17日。曇天。小雨が降る。
ホテルのテレビで天気予報を見ると、イベリア半島だけでなく、ヨーロッパ大陸全体に重い雨雲が垂れ下がっている。
乾燥したスペインでこういう天気は珍しいのであろうが、その分、涼しい。
予約していた観光タクシーが、アルハンブラのそばのホテルまで迎えに来て、コルドバへ向かう。運転手は、30台後半だろうか、人柄の良さそうな人で、安心する。
列車で行くところをタクシーにしたのは、紅山雪夫 『魅惑のスペイン』 に、グラナダからコルドバの間の国道432号線はローマ時代からの旧街道で、いかにもアンダルシアらしい景観に恵まれている、と書いてあったから。
それに、何よりも、タクシー代が安い。飲みすぎて終電車に乗れず、タクシーで家まで帰ったと思えばいい。
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< モンテフリオの村に寄る >
グラナダを出発して1時間。モンテフリオという村で、1時間の自由見学タイム。ガイドブックには出ていない、名もない村だ。
頂上に建つのは城砦ではなく教会だが、今は閉じられているらしい。とりあえず丘の上へと、集落の中の道を歩いて行く。
村の道は、まるで世界から取り残されたような静けさだった。こんな素朴な村の中を、外国人がもの珍しげに歩いてよいのだろうかとためらわれた。
だが、たまたま道を尋ねた老人は、「どうだ、良い村だろう」「 頂上の教会は‥‥」 と、スペイン語で説明を始める。もしスペイン語を解するような顔をすれば、滔々とうんちくを傾けられたことだろう。
「 … 何でも聞いてくれ」。人が良く、親切で、話し好きなのだ。何より、自分の村を愛している。
頂上の石の教会の扉には鎖が掛けられていた。
頂上近くの家々は洞窟で、門扉と家の前の部分が、洞窟から張り出している。
( 洞窟の家の玄関 )
頂上からの展望は、見渡す限りのオリーブ畑で、野を越え山を越えて続いていた。
(頂上付近からの遠望)
麓まで降りてくると、現在も使われている村の教会があった。要塞のような教会だ。
その下あたり、カフェや商店もわずかにあって、この村の一番の「繁華街」なのかもしれない。
( 教会と村 )
再び車に乗る。グアダルキビル川が流れるイスラム時代の都コルドバが近づくと、オリーブ畑の起伏が消え、土地は肥沃になり、一面の小麦畑となった。緑の中に、小麦の黄色が広がって、パステル画のようなやわらかい色調が美しかった。
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< 古都コルドバの歴史 >
コルドバは、紀元前の時代からローマが発展させた都市であり、ローマ帝国の州都であった。
西ローマ帝国が崩壊すると、イベリア半島にはゲルマンの一族である西ゴード族が侵出し、王朝を建てた。首都は、イベリア半島中央部のトレド。
711年、イスラム教徒たちが、ジブラルタル海峡を渡ってやって来て、西ゴード王国を倒し、後ウマイヤ朝を建てた。彼らもコルドバを都とし、この王朝の下、コルドバは空前の繁栄を謳歌する。最盛期には、人口も現在の3倍、100万人を超えたと言われる。
町には、40万冊を蔵する王立図書館があり、学校 (大学) もあった。古代ギリシャ・ローマ文明を受け継ぎ、学問の最先端を行くこの都市に、西欧キリスト教世界からも留学生たちがやってきた。そのような都市コルドバの、今に残る繁栄の象徴が、壮大なモスクの建物である。「メスキータ」と呼ばれる。
もっとも、後ウマイヤ朝を人口構成でみれば、アフリカからの到来者は1割程度に過ぎない。多くのキリスト教徒たちは安全を保証され、優れたイスラム文明に同化されつつも、キリスト教信仰を維持し続けた。ユダヤ教徒たちも同様である。
1031年、内紛によって後ウマイヤ朝は崩壊し、イスラム世界は多数の地方勢力の分立となった。
このころから、宗教的急進主義が起こり、キリスト教やユダヤ教に対し不寛容になていく。
そうした宗教的「純化」の徹底に反比例するかのように、軍事的力量は低下していった。1236年、南下してきたキリスト教勢力のレコンキスタによって、コルドバは再占領される。
キリスト教徒による支配になると、コルドバの壮大なモスク・メスキータは改修され、モスクの建物の内部に、キリスト教教会が造られた。
ローマ時代 → 西ゴード王朝の時代 → イスラム時代 → レコンキスタ後のキリスト教時代と、幾層にも重なる歴史をもつ都市が、コルドバである。
樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』( 岩波新書)から。
「 西暦800年ころの世界地図をみわたしてみよう。おそらく世界最大をきそう都市が4つある。中国は唐の長安、ビザンチン帝国のコンスタンティノープル、イスラーム帝国アッバース朝のバクダード。そして、おなじイスラーム世界の西方を扼するコルドバ。
そのひとつであるコルドバ。イベリア半島の南部、アンダルシアのグアダルキビル川の河畔にある 」。
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< グアダルキビル川とローマ橋 >
タクシーは、グアダルキビル川の対岸にあるホテルに到着した。
小雨が降り、グアダルキビル川の中州は緑に潤っていた。その向こうに、旧市街とメスキータの威容を望む。
( グアダルキビル川とメスキータ )
グアダルキビル川は、スペイン南西部のアンダルシア州を流れる大河。「大きな川」を意味する。
スペインには、タホ川、ドゥエロ川など、イベリア半島の中部を横断して流れる大河があるが、いずれも河口はポルトガル領となり (リスボン、ポルト)、大西洋に出るのはグアダルキビル川しかない。
すでにローマ時代に、商業用船舶や軍船がコルドバまで遡り、コルドバは州都となった。
イスラム時代にも、コルドバは、都として栄えた。
コルドバよりも下流に位置するセビーリャは、今も大型船舶の航行が可能である。イスラム時代に、コルドバを凌いでアンダルシア第一の港湾商業都市に発展をした。大航海時代には海洋交易を独占して、スペイン帝国の経済を支えた。
グアダルキビル川に架かる最古の橋が「ローマ橋」である。
「( 紀元前のアウグストゥス帝の時代に )、グアダルキビル川に石製の橋が渡された。この橋は、その後いくども補修が施されながら、今も同じ場所で、川面に陰を落としている 」。 (樺山紘一 『 地中海 ── 人と町の肖像 』)
( グアダルキビル川とローマ橋 )
この橋が眺めてきた2千年の興亡を思いつつ、旧市街へ入った。
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< メスキータ (コルドバの大モスク) >
「メスキータ」は普通名詞でモスクのこと。ただし、固有名詞として使われる場合は、コルドバのモスクを指す。メッカのモスクに次ぐ大きさらしい。ただし、「メスキータ」は、キリスト教徒がこの町を奪回した後の呼称である。
「免罪の門」を入ると、中庭がある。中庭には水盤があり、イスラム教徒はこの水で身を清めて、シュロの門から礼拝堂へ入った。今は、中庭にオレンジの木が植えられ、水盤は装飾的な泉になってしまった。
ミナレットと呼ばれる塔が建つ。イスラム時代には、お祈りの時間を告げる塔だったが、今は上部がキリスト教式に改造され、鐘楼となっている。
( 中庭と塔 )
西ゴード時代、この場所にはキリスト教会があった。
コルドバを占領したモーロ人は、最初、キリスト教徒と話し合い、半分だけモスクとして使った。初期のイスラム教徒は、キリスト教徒にも敬意をもち、教会を力づくで接収するようなことはしなかった。
その後、コルドバの発展とともに手狭になり、残りの半分も買収した。
それでもどんどん手狭になり、200年の間に3回も大拡張して、結局、2万5千人を収容できる大モスクになったという。
礼拝堂の中に入ると、偶像や絵画はなく、850本の石柱の森は、しんと静まっていた。
(メスキータの礼拝堂内部)
1234年にコルドバが再征服された後、メスキータはキリスト教会として使われるようになり、中庭も、塔も、礼拝堂の中も、徐々に姿を変えていった。
本来、モスクの内部は中庭との間を隔てる壁がなく、ミナレット (塔) のある中庭に向かって明るく開かれて、晴朗である。それが今は、四方を壁に囲まれた薄暗いキリスト教会の空間になっている。
16世紀になって、一人の司教が、この石柱群を取り払って、メスキータの中に聖堂を建てるという企画を、カルロスⅠ世に提案した。この案に対しては、キリスト教徒のコルドバ市民も、キリスト教の聖職者たちさえも、この美しい建物をこわしてはいけないと猛反対した。だが、現地を見たことがないカルロスⅠ世は、これに許可を与えてしまった。
それでも、工事に当たった建築主任は、メスキータの価値を十分に理解し、被害を最小限にとどめるよう設計した。そのお陰で、石柱は156本しか取り払われず、850本が残された。
とにかく、この巨大なモスクの中央近くには、全く違う建築原理で建てられたキリスト教の礼拝堂が存在する。のちに、コルドバを訪れたカルロスⅠ世は、メスキータに入って、初めて後悔したという。私のカメラも、そこは避ける。
( 黄金のミフラーブ )
ミフラーブは、モスクの壁に埋め込まれた施設で、メッカの方角を示す。信者はミフラーブのある方向に向かって並び、祈りを捧げる。
簡素な礼拝堂の中で、ミフラーブとその上のアーチだけは、豪華だった。
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< アルカサル (城砦) >
アルカサル (イスラム時代の城砦) は、メスキータの西側にある。
現存するのはレコンキスタ後に造りかえられた13世紀末のもので、15世紀にはグラナダ攻略の拠点になった。
グラナダ陥落直後、コロンブスはこの城でカトリック両王に謁見して、資金援助を仰いだそうだ。
( アルカサル )
イスラム勢力を追い払い、大改修しても、モーロ文化の影響は濃く、庭園もモーロ風で美しい。
( モーロ風の庭園 )
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< ユダヤ人街の「花の小道」 >
メスキータの北側は、昔、ユダヤ人居住地だった。今はその名を残すのみ。
入り組んだ狭い道に白壁の家々。窓辺には鉢植えの花。アンダルシアらしい風景だ。
そういう通りの一つに、「花の小道」がある。 路地を入って行くと、行き止まりであることがわかり、振り返ると、鉢植えの花の間からメスキータの塔が見える。路地、花、メスキータ。それで、今ではすっかり観光スポットになってしまった。日本出発の団体ツアーも、ぞろぞろと入り込んでくる。
( 「花の小道」 )
コルドバの名物料理にラボ・デ・トロ (牛テールの煮込み) がある。わざわざ「テール」などを食べなくても、と思う。
「エル・カバーリョ・ロホ」というレストランの名店があって、玄関がなかなかオシャレ。お腹もすいていたし、つい入ってしまった。ここもテールが売り。
「テールを少々。お腹は空いていないから、少しでいい」。
繁盛して、たいへん忙しそうだったが、誠実なウェイターは、ちゃんとテール料理を半分にして出してくれた。
恐る恐る食べてみたら、意外にも、美味しかった。もう少し食べたかった。
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< ビアナ公爵邸のパティオ >
小雨の中、ユダヤ人街を抜けて、ビアナ邸を目指した。この辺りまで来ると、観光客も減り、瀟洒な家々が並んで、コルドバが古都であることを実感する。
ビアナ邸は、14世紀の公爵邸。12もの、それぞれ趣の異なるパティオ (中庭) が造られていて、堪能した。気品があった。
( パティオの一つ )
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1日の見学を終え、歩き疲れてホテルに向かう途中、ローマ橋の向こうに虹が架かった。明日はお天気かな?
雨 上がり / はつかに虹の / ローマ橋
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その夜、ホテルの窓から、グアダルキビル川の向こうに、ライトアップされたメスキータが見えた。 (続く)