(写真は、内容と関係ありません)
小野田寛郎さんが亡くなった。91歳。
偉人でも、英雄でもない。が、偉い人であったと思う。
一人の、凛とした日本人であった。 今や、老人の中にも、このような人は滅多にいない。
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30年をジャングルに過ごし、平和を謳歌し、高度経済成長に浮かれる日本に帰ってきた。
一部政治勢力やマスコミの中には、眉をひそめたり、時代錯誤と憐れんだりする人もいた。「軍国主義(者)」というレッテル貼りが好きな勢力である。
「私は 『軍国主義の権化』 か、『軍国主義の亡霊』 かのどちらかに色分けされていた。 私はそのどちらでもないと思っていた。 私は平凡で、小さな男である。 命じられるまま戦って、死に残った一人の敗軍の兵である。 私はただ、少し遅れて帰ってきただけの男である」。
背筋を伸ばし、相手に対してはいつも正対して、謙虚に、しかし、しっかりと応答する人であった。
(佐原・舟めぐり)
(川べりに飾られた雛人形)
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自分の生涯と生き方を語っても、明快であった。
「 後ろを振り向いても仕方ないんですね。 ルバング島はルバング島でそれで終わり。 苦しかろうと何だろうと、その分いろいろな教訓を得ました。 今度は、それを上手く利用していく。あのときはどうしたのこうしたのと、後ろは絶対に振り向かない。 牧場をつくるときは必死で牧場をつくる。 牧場が何とかここまでできたから、次は日本の子供たちのために何か役立ちたいと思って、そのことを懸命にやる 」。
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ブラジルで牧場経営をやっているころの小野田さんを取材した番組があった。
牧場には水が必要であるが、小野田さんは水源を見つける名人である。 特別な勉強をしたわけではない。 しっかり地形を読めばわかる、と言う。
周りの人がその地形の読み方を聞くが、わからない。
30年間もジャングルで生き延びた力は、現代に生きる誰でもが持っている力ではない、と思った。
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小野田さんが最も好んだ言葉は、「不撓不屈」。
今どきの日本人には、重たすぎる言葉である。
だが、精神力だけではなかろう。 水源の話からもわかるように、注意深い観察力、そして、的確な判断力や、創意工夫する力、それらを束ねているのが、不撓不屈の心だ。
「 地図ばかり見ていると、迷い子になってしまう 」。
「 コンパスは方向を教えてくれる。でも、川や谷の越え方は教えてくれない」。
「今日は食べられなくても、明日も食べられなくても、明後日には何とかなる。 死にはしない」。
「戦いは相手次第。 生き方は自分次第」。
やはり、すごい人だ。
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不撓不屈は、立派なのだ。
映画『ラストサムライ』で、騎馬の侍たちは大砲の待ち構える政府軍に向かって疾走し、全滅した。 全滅するとわかっていながらの、はかなくも美しい自殺行為である。 「これぞ、サムライの美学」と言いたかったのであろうが、すぐに玉砕し、自決したがる 「サムライ」 像は、平和ボケした江戸時代につくられた「美学」である。
「サムライ」 は武人、戦う人であって、殿様ではない。 炎の中に消えた「信長様」とは、立場が違う。 大阪夏の陣で、八千人を率いた一軍の長・真田幸村は、最期まで、力尽きるまで戦い抜いたと言われる。
クリント・イーストウッド監督の 『硫黄島からの手紙』 には、赴任した栗林中将と参謀たちとの対立が描かれている。
参謀たちは、これまでの日本軍の戦い方どおりに、玉砕を前提とした水際上陸阻止作戦を主張し、司令官に反抗した。 これを行えば、3日で玉砕する。
合理主義者の栗林中将は、岩山の洞窟に籠っての徹底抗戦を命じる。
硫黄島は圧倒的な米軍の前に立ちふさがる、国と国民を守る最後の砦である。 彼我の力関係は如何ともしがたく、わが軍は全滅するだろうが、一日長く持たせれば、祖国を一日、長く守ることができる。 うまくいけば、多分、どこかで探られている和平交渉が、多少とも日本に有利な形で成るかもしれない。 「東京」に時間を与えるためにも、一日でも長く戦い続ける。 玉砕はしない、自決は許さない。
栗林中将が子供宛に色鉛筆で絵を描いた、心優しい手紙が残っている。
小説 『永遠のゼロ』 の主人公も同じ。 身を焦がす日々の中でも、生き抜き、戦い抜こうとした。 妻子のために。
妻子のためにも、国民のためにも、結局は同じである。
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小野田さんには硫黄島のように、自決を迫る上官はいなかった。
しかし、30年である。 心折れること、絶望すること、自棄になり、死んでしまおうと思うこともあるであろう。
だが、小野田さんは、注意深い観察力と、的確な判断力と、創意工夫の力を発揮し続け、不撓不屈に生き抜いた。
帰国しても、立派に牧場をつくり、晩年は日本の子供たちのために尽力した。
英雄でも、偉人でもなく、平凡な人かもしれない。 だが、凛として生きた、偉い人である。
(御嶽山遠望)