( シャガールのステンドグラス )
( *は、今回訪問した大聖堂 )
<初期ゴシック大聖堂>
*1122年起工 サン・ドニ修道院
(歴代フランス王の墓所)
1150年 ノワヨン大聖堂
堂宇の高さ22m
1160年 ラン大聖堂
高さ24m
*1163年 パリ・ノートルダム大聖堂
高さ35m
*1176年 ストラスブール大聖
<盛期ゴシック大聖堂>
*1194年 シャルトル大聖堂
高さ36.6m
*1211年 ランス大聖堂
高さ38.0m
(歴代フランス王戴冠式式場)
*1220年 アミアン大聖堂
高さ42.3m
( 馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』による)
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< ゴシック建築の誕生 >
ゴシック様式は12世紀の前半、歴代フランス王の墓所でもあるサン・ドニ修道院の拡張・改築のときに始まった。当時のサン・ドニ修道院長・シュゼールのビジョンによる。この人は、今なら、美学と数学の天才であった。傑出した人物である。
シュゼールのビジョンは、光への願望、そして、高さへの志向である。
それは、まず、積み重ねた石の柱が天に向かって伸びていく空前絶後の空間であった。しかも、その高い天井を支える石壁を可能な限り取っ払って窓を開け、そこにステンドグラスを嵌め込んで光の殿堂にするというものである。限りなく高く、しかも、その高さを支える壁をくり抜いてできる限り窓にするという、相矛盾する要求を実現化した聖堂が、シュゼールのビジョンであった。
パリ近郊のサン・ドニにはこの旅の終わりのほうで行くが、それは見事に実現された。
フランス国王の墓所でもある修道院で始まったこの新様式は、国王の所領地に広がっていく。パリ、シャルトル、ランス、アミアンなど、初期,盛期のゴシック様式の傑作とされる大聖堂は、みな北フランスの国王領に集中していた。
やがて、それは国王領の境界を越え、フランス全土(諸侯領)、さらにドイツ、イギリス、フランドル、北イタリア、イベリア半島へと、全ヨーロッパを席巻していった。
ただ、ついにこの様式を受けつけなかった地域がある。イタリア中部以南である。
ゴシック様式がスタートして300年後の15世紀、イタリア中部の商業都市フィレンツェにおいて、中世を打ち破る文化運動の烽火が上がった。ルネッサンスの始まりである。建築で言えば、ブルネレスキの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)大聖堂」の大ドームの建設をその始まりとする。
イタリア・ルネッサンスの建築家たちは、古代ローマの建築技術を徹底的に研究し、ゴシックのもつ重々しく、幻想的で、装飾過多の建築思想を排して、ルネッサンスの精神である合理的、明快、簡素な建築美を造り出した。その美学はたちまちアルプスを越えて、全ヨーロッパに広まる。
ゴシックという名を付けたのは、ルネッサンスを起こしたイタリア人の一人、ヴァザーリという美術家だったらしい。
「あれは北方の野蛮人ゴード族の様式だ。いたずらにゴテゴテして醜悪極まりない。本当の建築美は、もっと明快で調和のとれた形の中にある」。
gothic = 「ゴード風の」。
ゴードは、西ゴード、東ゴード。ローマ帝国末期、イタリア半島になだれ込んで、破壊、略奪の限りを尽くしたゲルマンの一族だ。
しかし、語源がどうであれ、今では、「ゴシック様式」は、立派な美術史上の用語である。
( 以上、紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行』による )
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< ゲルマンの感性とラテンの感性 >
確かにゴシック大聖堂の中に入ると、高い樹木が鬱蒼と林立する北の森の中に入ったようで、ヨーロッパ北部のゲルマン的なものを感じさせる。
それにしても、「陰鬱で暗い森の民」と、「底抜けに明るい地中海の民」。ヨーロッパは決して一つではない。
ドイツ人ゲーテの青春文学「若きウェルテルの悩み」は、高校時代に愛読したが、今、考えてみれば、題そのものがすでに陰鬱である。ルターやカルヴィンは、いかにも真面目で厳格で、ストイックで、王侯を凌ぐ栄華に溺れているように見える教皇を批判し続けた。…… 神の救いは、教皇や教会の権威を必要とせず、ただ神の言葉である聖書の中にのみある。
一方、南の民は、人間は欠点だらけの弱い存在だから、やさしさと威厳に満ちた教皇様のお姿や、時には教皇様や司教様もバルコニーからご覧になる町を挙げての華やかなお祭りや、天にそびえる大聖堂や、聖書に登場する人物を生き生きと象った彫刻や絵画の数々、美しい宗教音楽など、「人間的な感覚」をとおして、はじめて神を感じるのであり、北方からの批判は息が詰まる、と毛嫌いした。
今も、イタリアやギリシャの人々は、東ドイツ出身のメルケル女史の、ダサい服装や、厳格極まりない超緊縮予算の押しつけに反発し、「カネは天下の回りもの。命短し、恋せよ乙女。皆で今日を楽しめば、ウイン、ウインの経済になる」と思っている。
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< 孤独な老人のごとし…サン・レミ・パジリカ >
ストラスブールからTGBに乗り、昼ごろにランスに着いた。
タクシーを頼むほどの距離ではないと思ってごろごろと石畳の道路をバッグを押して歩いたが、結構しんどい。年齢不相応。中途半端な所にホテルをとってしまった。観光する前に疲れて、どうする?
ランスの見どころは、大聖堂以外には、トー宮殿(司教の宮殿)、それに、サン・レミ・パジリカ聖堂。この3つが世界遺産として登録されている。
ホテルから大聖堂まで徒歩で15分。
大聖堂の前にある観光案内所の親切なマダムにタクシーを呼んでもらい、まずは町はずれのサン・レミ・パジリカへ行った。
( サン・レミ・パジリカ )
いかにも古い。建物の素材の石が古びて摩耗している。1007年に着工した。もともとロマネスク様式。その後、ゴシック様式も加えられた。旧市街から離れ、孤独な老人のように、もう千年もこの地に建ち続けている。
西ローマ帝国滅亡後の大混乱の中、5世紀末のガリア(現在のフランス)に、メロヴィング朝フランク王国が、クロヴィス(481~511)によって樹立された。フランスの初代国王である。
フランク族は、ライン川の北西部に住む小部族に過ぎなかったが、クロヴィスの時代に勢力を広げた。
その過程で、彼はキリスト教ニカイア派からアタナシウス派(カソリック)に改宗した。西ゴードもヴァンダル族もアリウス派であったから、ゲルマン諸王のなかで初めてのカソリックへの改宗であった。
アリウス派は、イエスを優れた預言者だったとする。
アタナシウス派は、イエスを神の子とする。三位一体、イエスは神。
当時、ガリア(フランス)の住民の多くはカソリックであったから、クロヴィスの改宗はガリアのローマ系市民との絆を強めた。498年、クロヴィスはフランク王国国王として、ランスにおいて戴冠式を行った。
その後、ブルグンド王国、西ゴード王国を破り、首都をパリに定め、フランスの基礎をつくった。死後は、サン・ドニ聖堂に埋葬された。
以後、たとえ王朝は代わろうとも、フランス王たる者、国民とともにカソリックを信奉し、ランスにおいて戴冠式を挙げ、死後はサン・ドニに葬られなければならない。
イギリスとの百年戦争のさなか、窮地に陥ったフランス国王を救い出し、ランスに連れていき、ランス大聖堂で戴冠式を挙げさせたのは、あのジャンヌ・ダルクであった。
さて、このクロヴィスにカソリックの洗礼を施したのが、レミという神職である。フランスにとっても、その後のカソリックの発展にとっても、これは大変なお手柄というものだ。レミは教皇によって聖人に列せられた。聖(サン)・レミである。
サン・レミ・パジリカは、サン・レミの遺体を安置する教会である。
西正面の門は閉じられており、左袖廊の門が開いていた。そこから勝手に入る。
入った瞬間、道路や、行き交う車や、住宅街などの世界から、全く別の異様な空間に身を置く。
暗い。人の気配も全くない。暗闇に静かな音楽が流れ、高い所にステンドグラスが輝き、遺体を置く聖なる空間があった。
広い堂内を歩くが、暗くて足元もおぼつかない。世界遺産にもかかわらず、旧市街から離れているせいか、訪問者は一人もない。自分以外に存在するのは、伝説のような昔の一遺体のみである。最初の感動から、徐々に不気味さが心を占め、気持が落ち着かなかった。あわてて外へ出た。
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< 微笑みの天使とシャガール >
ランスはシャンパーニュ地方の県都。あのシャンペンの本場だ。
第一次世界大戦で町の8割が破壊されたという。
大聖堂も、天井が落ち、ステンドグラスのほとんどが崩れ落ちた。わずかに残ったのは、西正面(ファーサード)の盛期ゴシック彫刻群のみ。
その、当時のままの西正面は、今、網で覆われ、修復中だった。
( ランス大聖堂 )
( 微笑みの天使像 )
だが、「微笑みの天使」はばっちり見えた。なぜ笑っているのだろう? しかし、キリスト教の天使のイメージを破って、明るく、たくましい。頼りになるおばちゃんの笑顔。右腕の形もカッコよく、元気が出てくる像である。こういう彫像を見ていると、中世が暗黒の時代だったとは、到底思えない。
こういった中世の彫刻と、例えばルネッサンスのミケランジェロだとか、近代になってロダンだとか……、どちらが優れているかではなく、どちらに心ひかれるかと問われれば、美術史家は怒るかもしれないが、「はい。中世です」と答えたくなる。
堂内はもちろん、第一次世界大戦から久しいわけで修復されている。だが、かつての盛期ゴシックのステンドグラスはなく、代わりに模様のない半透明の白いガラスが嵌められている。ただ、正面の内陣中央部の祭室に青いステンドグラスが見えた。
画家のシャガールが寄進したものである。 中世の腕利きの職人たちとは一味違って、深い青を基調にし、赤、緑、白の色合いが美しく、静謐である。
愛の画家と言われるシャガールは、ユダヤ人だが、キリスト教に改宗した。
( シャガールのステンドグラス )
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< ヨーロッパにおいて第二次世界大戦とは?? >
ヨーロッパで「大戦」と言えば、「第一次世界大戦」のことである。
総力戦が戦われ、ある会戦での1日の戦いで死傷者が1万人、その翌日は1万5千人……、 司令官たちは、惜しげもなく人命を消耗させた。大戦後、五体健全な若者はいなかったと言われるほどだったらしい。その前の大きな戦争、日露戦争の203高地における日本軍の戦いを、各国の参謀士官として観戦していた世代が司令官になっていた。
日本は、第一次世界大戦をほとんど戦っていないから、そこから学ばず、第二次世界大戦において、ヨーロッパが第一次世界大戦でやったと同じような、惜しげもない人命の消耗戦・総力戦をやった。
あんな戦争を二度と繰り返してはいけない。ヨーロッパでは、ヒトラーの電撃的な侵攻に対して、降伏するのも早かった。ヨーロッパの第二次世界大戦における死傷者数は、第一次世界大戦の1割に過ぎない。
では、ヨーロッパにおける第二次世界大戦とは、何か?
「アウシュビッツ」である。1民族を、この世から文字どおり抹消するために、近代的な大量殺人工場を造って、ヨーロッパ中からユダヤ人を狩り集めて、システィマチックに彼らを殺し続けたという事実が、あろうことか、このヨーロッパにおいて、起こった。
戦争そのものなら、ドイツがもう一度戦争せざるを得ないようなところに追い込んだ責任は、連合国側にもある。第一次世界大戦の後の戦勝国がドイツに課した賠償金の額はあまりに過酷で、立場が逆なら、フランスもまた、同じようにリターンマッチをしたかもしれない。
戦争については、それぞれに言い分はある。ドイツ国民にも言い分はあった。
しかし、ユダヤ民族抹殺は、戦争とは何の関係もない。
当時、日本はドイツと結んでいたが、ユダヤ人にビザを発給して助けた日本人外交官の話は有名である。
しかし、そればかりではない。日本の関東軍は、遥々とシベリアを通って逃げてきた多くのユダヤ人を助け、日本を経由して、希望するアメリカに亡命させている。