シチリアの旅の第3日目。曇り。時に小雨。
旅ごころ身に付く。
今日の日程はあわただしい。 世界遺産に認定された古代の遺跡群・アグリジェントはシチリア観光のハイライトの一つ。
それからバスで1時間50分のビアッツァアルメリーナへ。ここも人気抜群で、古代ローマ時代の有力者(副帝)の邸宅跡を見学する。
それからまた、バスで45分走って、バスに乗っている間に1700年ばかり歴史を前進させて、世界遺産のバロックの町カルタジローネを見学する。
最後にもう一頑張りして、バスで1時間半のラグーサという、やはりバロックの世界遺産の町まで行って、宿泊する。
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アグリジェントは、セリヌンテから海岸沿いに走って100キロ強。パレルモから直行するなら、内陸部を縦断する列車の便もバスの便もあって約2時間。
南海岸の中心をなす町で、県庁所在地。と言っても、旧市街と新市街を合わせても人口はわずか5万人の町である。
昨日のセリヌンテよりもっと大規模な古代ギリシャの神殿群の跡があり、世界遺産にも認定されているから、シチリア旅行のハイライトの一つである。その分、観光客は多く、牧歌的とは言えない。
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旧市街は、丘の上に広がっていた。
古代、やはりこの丘もアクロポリスの丘であった。丘の最も高い所、今はキリスト教の大聖堂が建つが、かつてそこには最高神ゼウスに捧げられた神殿が海を見下ろしていたという。
旧市街の下に広がる広大な地域が「神殿の谷」と呼ばれる考古学地区で、その遺跡はアーモンドが栽培される緑の農園と共存している。
( 旧市街のある丘とアーモンドの谷 )
広大な範囲に広がる遺跡群のほんのサワリを、多くの観光客にまじって見学した。
「神殿の谷」と呼ばれているが、実際は「谷」とは言いがたく、一帯は丘の中腹にあたり、そこから地中海を一望することができる。
NHK・BSプレミアムに「世界で一番美しいとき」という番組がある。その第1回目の放送は、アーモンド栽培に携わるシチリアの農家の一家を取材したものだった。アーモンドは春、桜に似たピンクの花を咲かせ、あたり一面が満開になると、匂うように美しい。
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アグリジェントは、昨日見学したセリヌンテに少し遅れて、ギリシャ人によって建設された。最盛期のBC5世紀には、丘の上のアクロポリス (今の旧市街) から神殿の谷 (アーモンドの広がる中腹一帯) を含めて、ぐるっと城壁で囲まれ、その人口は20万人に達したと言う。シチリア島の南海岸を制する、堂々たる一大勢力であった。
(「神殿の谷」から地中海を望む )
その後の運命は、セリヌンテに似ている。
というよりも、地中海の雄・カルタゴが主敵としたのは都市国家アグリジェントで、セリヌンテを巻き込んだかたちで、カルタゴによって滅ぼされたのである。
それでも、アグリジェントの町そのものは、かろうじて生き残っていたのだが、ポエニ戦争で再び壊滅する。ただ、セリヌンテのように、人っ子一人もいないという完全な廃墟になってしまうことはなく、キリスト教が入って来て、中世には大聖堂も建てられ、現在に至った。
南海岸を代表する町であり、県庁所在地であるが、人口は5万人に過ぎない。紀元前5世紀の人口の4分の1である。
ユーラシア大陸の東の果てから、さらに海を隔てた島国に棲むわれわれ日本人は、歴史はいろいろあっても発展するものと思っているところがある。だが、地中海の歴史は、「衰亡」或いは「滅亡」ということがあることを教えてくれる。それは、単に驕れる平家一族の命運のことではない。 共同体全体、民族、国家そのものの衰亡、消滅ということである。
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ヘラ神殿はBC470年ごろに建設された。カルタゴ軍に破壊された後、ローマ時代に元の石材を積み直して再建されたが、後に大地震で倒壊してしまったとか…。
( ヘラ神殿 )
( コンコルディア神殿 )
コンコルディア神殿はほぼ当時の姿を留め、これだけ完全に原形を留めているギリシャ神殿は、地中海世界でも珍しいそうだ。
カルタゴ軍によってアグリジェントが滅ぼされたとき、この神殿だけは、なぜか破壊されずに残った。
時は移りAD6世紀。世はキリスト教の世界で、コンコルディア神殿は聖ペテロ・パウロ教会として衣替えした。その際、柱と柱の間に切り石を積み上げて石壁にしたから、その後の大地震にも持ちこたえ、倒壊しなかったと言う。
1784年、後世の付加部分が取り除かれ、再び古代の姿を記念する遺跡に戻された。
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しかし、コンコルディア神殿を含めこの遺跡群について、別の説もあることを紅山雪夫さんは紹介している。(参照『シチリア・南イタリアとマルタ』)
ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマは、征く先々で異教の神々とその文化を尊重し、パクスロマーナを築いた人々である。
ましてや、自分たちと同じ神々を祀るギリシャ人の神殿を壊すようなことはなく、むしろ傷んでいた神殿については大規模な修復工事もした。
ローマの著名な文筆家キケロは、ローマがこの地にやって来たとき、アグリジェントの神殿群は健在だった、と書き残しているそうだ。これを信じれば、カルタゴ軍がアグリジェントの神殿群を破壊したにせよ、それはごく一部で、大部分はローマに引き継がれていたことになる。
では、その後、だれが破壊したのか?それは、2段階に分けられる。
「激変が起こったのは、4世紀末 (注:393年) にキリスト教がローマ帝国の国教とされ、異教が禁止されてからだ。帝国の官憲のあと押しを得て、キリスト教の司教が信者たちを引き連れて、『ご当地一番の神殿』に押しかけ、これ見よがしにぶち壊して、その跡地にキリスト教の司教座聖堂すなわち大聖堂を建てたのである。アグリジェントでゼウス神殿が壊されて、跡地に大聖堂ができたのはその一例だ」。
ローマ帝国の晩期、帝国内のあちこちで、アクロポリスの丘の神殿が、キリスト教徒によって破壊されていった。アグリジェントでも同様であったことは、丘の上の変貌が物語っている。
この時代のキリスト教によるギリシャ、ローマ文化の破壊については、辻邦生の名作『背教者ユリアヌス』に生き生きと描かれている。古代が見直されるのは、ルネッサンスを待たねばならない。
では、アグリジェントの、アクロポリスの丘の下、「神殿の谷」の神殿群を破壊したのは、だれか?
それは 「6世紀、ビザンチン時代。憎むべき異教の神殿だというわけで、狂信的なキリスト教徒が壊してしまったのだ。その時点ですでにキリスト教の教会に転用されていたコンコルディア神殿を除いて」。
この説明で、カルタゴ軍が、多くの神殿のなか、コンコルディア神殿だけを破壊せず残したという、割り切れない謎も解ける。カルタゴ軍は、基本的に神殿の破壊をしていなかったのだ。
ただし、「いずれにせよ6世紀から9世紀までのあいだに大地震が起こって、破壊に追い打ちがかかったことは確か」だそうだ。やはり自然の猛威はすごい。
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西欧諸国からの観光客にまじって、あわただしく見学を終え、小雨の降るなか、バスに乗って、次の見学地・ピアッツァアルメリーナへ向かった。
考古学的には立派な遺跡群で、だから世界文化遺産にも認定されたのであろうが、昨日のセリヌンテの、海と、青空と、雲と、訪ねる人も少ない丘の野っ原の野の花と牧歌的な遺跡群が、なつかしく思われた。 ( 続く )