( セリヌンテの古代遺跡 )
朝、シチリア島の北海岸に位置する州都パレルモを出発し、パレルモ郊外のモンレアーレの大聖堂を見学したあと、バスは内陸部に入った。
シチリア島を縦断し、南海岸のセリヌンテ遺跡を目指す。
南海岸と言っても、セリヌンテはシチリア島の西端に近く、ローカルなシチリア島の中でも最もローカルな所である。
( シチリア島の内陸部の車窓風景 )
個人旅行で訪れるとなると、パレルモからセリヌンテ遺跡の近くの町まで長距離バスが行っているが、そこからまた田舎の路線バスに乗り継いで、遺跡に向かうことになる。しかも、宿泊施設もないから、個人旅行で訪れるのはなかなか面倒だ。
セリヌンテの遺跡は、青い海原を見下ろす丘の茫々とした野っ原にあった。
野っ原に、倒れた巨大な円柱がごろごろと横たわり、白、黄、赤の野の花が咲いている。それが、セリヌンテだった。
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(以下、紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』を参考に記述した。)
セリヌンテにギリシャ人がやって来て植民市を築いたのは、遠い遠い昔、BC651年であった。
南側が地中海に面した丘で、丘の両側にも海が入り江となって入り込んでいて (今はすっかり土で埋まって陸続きのようになっているが)、防御のためにも、交易の港としても、絶好の地であった。
海に面した丘の高台には、海から見上げることができるように、ギリシャの神々に捧げられた5つの神殿があり、「アクロポリスの丘」となっている。居住地区は、神殿の丘の北側に広がっていたらしい。
さらに、「アクロポリスの丘」の東側の高台にも、入り江を隔てて、3つの神殿群が建てられていた。
港を出入りする古代の船は、両岸の丘に高くそびえる神殿群を見上げながら入港することになる。それは、セリヌンテの市民にとっては誇り、他国から交易に訪れた船乗りや商人たちには、セリヌンテの威容と繁栄を教えるものであった。
だが、この地は、彼らギリシャ人と敵対するフェニキア人の、地中海最強の都市国家・カルタゴ が、アフリカ側とはいえ、海を隔てて目と鼻の先にあり、頼りとするシチリア最大の都市国家シラクサはずっと遠かった。
だから、長年に渡ってセリヌンテは、カルタゴと友好関係を保つよう懸命の努力をしてきたのである。
しかし、セリヌンテが発展するにつれて関係は悪化していき、ついにBC409年、カルタゴの10万の大軍に攻撃された。この戦いで、1万5千人の市民が殺されて、セリヌンテは滅亡してしまった。
それでもセリヌンテは、カルタゴ領の小さな町となって細々と生きてきたのだ。
だが、BC250年、カルタゴが新興国ローマと激突したポエニ戦争のとき、足手まといになると全住民が移転させられ、セリヌンテは廃墟の町になってしまった。
廃墟の町になっても、巨大な神殿や人々が暮らした居住区の建物は残っていたらしい。だが、それも、大地震で倒壊してしまって、歳月は流れ、また流れ、いつしか人々はここに町があったことさえ忘れてしまった。
さて、時は一挙にAD15、6世紀に跳び、ヨーロッパはルネッサンスを迎える。つまり、キリスト教の神がこの地上の人々を支配した中世という時代の前、古代ギリシャ、ローマの時代を見直す運動が起こったのだ。その運動の中で、1人の人文学者が、奇妙な巨岩が積み重なっている所があるという農民の話を聞き、そこが古代史に登場するセリヌンテだと推測した。彼は、その場所と農民の話を記録に書き留めた。
さらに300年も後の1822年になって、ルネッサンスの人文学者の記録が手がかりとなり、この地の発掘調査が始まったのである。
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日本の神社がそれぞれに祭神をもつように、ギリシャ、ローマの神殿も祭神をもつ。
東側の3つの神殿群の祭神は判明しており、一つは知の神・アテナを祭ったアテナ神殿、最も巨大な神殿の遺跡が神の中の王ゼウスの神殿、そして、1957~8年に元の石材を積み重ねて、唯一、再建されたのが、ゼウスの妻ヘラに捧げられたヘラ神殿である。
野っ原のなかの遺跡だけを見ているときはそうは思わないが、遺跡の付近に人がいると、石の柱や石の建造物の圧倒的な巨大さを実感する。
( 再建されたヘラ神殿 )
( 神殿の陰で憩う親子づれ )
電気カートに乗って、1キロ先のアクロポリスの丘に向かった。
こちらは、海の眺めが良い。だが、ヘラ神殿のように、再建されたものはない。
( アクロポリスの丘の廃墟 )
( 遠くに望むヘラ神殿 )
( アクロポリスから地中海を望む )
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( 傍らのポピーのような赤い花 )
お天気も良く、地中海からそよそよと風が吹き、のどかだった。
「さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(クサムラ)となる。『国破れて、山河あり、城春にして草青みたり』……。
夏草や / 兵 (ツワモノ) どもが / 夢のあと」
は、芭蕉が平泉を訪ねたときの感慨であるが、2500年も前の古代ギリシャ時代の話なのだから、「国破れて、山河あり」というほど、悲壮な感慨がわくわけではではない。
何か、もっと今の心に合う歌があったと、さきほどから一生懸命に思い出そうとする、その歌が、ひょいと浮かんできた。確か小諸の懐古園に石碑があったはずだ。
かたはらに / 秋草の花 / 語るらく /
滅びしものは / なつかしきかな
(若山牧水)
遥かに遠い昔、10万の軍勢に対する凄絶な戦いがあったという歴史も、海と空と草花がすっぽりと包み込んで、何でもないよ、と言ってくれているような、とても安らかな気分にしてくれる、そういう場所であった。
遥かな歴史もあり、牧歌的で、いつまでもいたくなるような、この全行程の中でも最も忘れられないシチリアの景色であった。
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その夜は、シチリアを代表する古代遺跡のある町、アグリジェントに宿泊した。