( 志賀海神社 )
< ロマンの彼方の海人族 >
そもそも海人族が、よくわからない。
「モノ」を発掘して研究する考古学的手法で、その実態に迫ることは難しいだろう。
「古文献」といっても、海人族の実態に迫るような、信頼性のある記述は少ない。
ゆえに、研究者の研究も、茫々としていていて、はっきりしない。
我々素人には、そういうところが面白いのかもしれないのだが ……。
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紀元前を遥かに遡れば、海人たちは、黒潮にのって、江南地方から、山東半島、遼東半島、朝鮮半島の西岸や南岸、沖縄、九州から、瀬戸内海にかけて、自在に移動し、魚をとって暮らしていた。彼らは魚とりの名人であり、主に潜水漁法によった。
彼らは「農」に生きる民ではない。だが、モミと、稲作技法と、そのための道具をもつ人々を、北九州の北岸に運ぶ水先案内人の役割を果たしたのは、彼らかもしれない。彼らがいなければ、水稲耕作をするために日本海の波頭を越えようなどと、思うはずがない。
一衣帯水、彼らに国境はない。
やがて、東アジアの各地に古代的な国がつくられていくと、海人たちは次第に社会の片隅の存在になっていった。
だが、少なくとも、ここ、古代日本において、彼らは堂々とした氏族を形成していった。半島や大陸の国々と違って、「倭」は地続きの国ではないから、航海民の技術がなければ、進んだ海外の文物を手に入れることができなかったのである。当然、彼らが祀る海の神々も尊崇された。
奴国が漢に使者を送って、金印をもらうことができたのも、玄界灘をわが海とする安曇氏らの活躍が背景にあっただろう。
弥生時代も後半に入ると、鉄の時代になっていく。朝鮮半島から鉄素材を運ぶために、海人たちの航海術は必要欠くべからざるものであった。この時代、鉄は、豪族たちの権力の源である。
卑弥呼は半島の楽浪郡経由で、大国・魏に使者を送り、また、魏の使者を迎えた。
西川寿勝、田中晋作共著『倭王の軍隊』によると、古墳時代、大和や河内に都を置いた大王には、直属する海人たちがいた。淡路島の野島の海人たちである。彼らは大王の命で、各地の豪族たちに古墳づくりの資材を運んだ。各地の王と大王を結ぶルートの一翼を、彼らが担った。
海人たちは、一旦、事が起これば、好むと好まざるとにかかわらず、戦闘員になった。
朝鮮半島南端部の倭人の援助に行ったときも、4世紀末に倭国が高句麗と戦ったときも、7世紀に大王軍が日本海側から蝦夷を征討したときも、そして、あの白村江の戦いにおいても、海人たちは軍団の一翼を担った。『倭王の軍隊』(同上)は、彼らを「海兵隊」の側面をもつ集団だったとする。
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だが、彼らの系譜となると、深い霧の中に入ったようで、わからない。
博多湾から玄界灘に出る出入り口に位置する志賀島を本拠とした阿曇氏と、博多湾の中にあって住吉の神を祀る海人たちとは、どういう関係だったのか??
同じ玄界灘を本拠とする宗像氏は、阿曇氏とどういう関係にあったのか??
丹後の大豪族・海部氏や尾張の尾張氏も海人系と言われる。彼らは玄界灘周辺の海人たちと、どういう系譜で結ばれていたのか?? それとも、全く別の一族なのか??
ほとんど五里霧中である。
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< 海人族たちが祀った神々の系譜 >
「古事記」や「日本書紀」は、阿曇氏が祀った神々(祭神)について、次のように書いている。…… もちろん、「神代」の話である。
イザナミのいる黄泉の国から帰ってきたイザナギは、汚れを清めるため禊 (ミソギ) をし、その禊の過程で多くの神々を生む。
そのなかで、海の底に沈んですすぎをしたときに成れる神が、底津綿津見神 ( ソコツ ワタツミノ カミ ) と底筒之男命 ( ソコ ツツノヲノ ミコト )。
潮の中にもぐってすすぎをしたときに成れる神が、中津綿津見神 (ナカツ ワタツミノ カミ) と中筒之男命 (ナカ ツツノヲノ ミコト)。
潮の上に浮いてすすいだときに成れる神が、上津綿津見神 ( ウワツ ワタツミノ カミ ) と上筒之男命 ( ウワ ツツノヲノ ミコト) であり、
この三柱の「綿津見神」は、阿曇連らが祖神として祀る神で、「底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神」は、住江 (= 住吉) の三座の大神である、と説明されている。
綿津見神は博多湾が玄界灘に臨む島・志賀島に祀られ、住吉の三神は、那珂川が博多湾へ出る出口に祀られた。
このような記述から考えると、「綿津見神」と「住吉の三神」とは、いわば兄弟であり、とすれば、阿曇氏の一族の中に、北九州の「住吉」の神を祀る人々が、いわば分家のような存在で、いたのかもしれない。
( ちなみに、この直後に、イザナギの禊で最後に生まれた神が、アマテラス、ツキヨミ、スサノオであった )。
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一方、宗像氏が祀る神は、同じ「神代」の話でも、一世代あとの話で、アマテラスとスサノオが誓約 (ウケヒ) をしたときに、スサノオの太刀から、スサノオの子として、宗像三女神が生まれたとされる。
田心姫 (タゴリヒメ) は宗像の奥津宮 (沖ノ島) に、湍津姫 (タギツヒメ) は宗像の中津宮 (大島) に、市杵島姫 (イチキシマヒメ) は宗像の辺津宮 (ヘツノミヤ) に祀られた。
こういう記述からすれば、宗像氏は、阿曇氏に遅れて頭角を現した海人の一族だったのかもしれない。
宗像氏の本拠である宗像大社は、阿曇氏の本拠である志賀島から直線距離にして30キロの北東に位置し、その向こうは響灘である。
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時代は下って、奈良時代、聖武天皇のころの話であるが、「万葉集」の巻16に、宗像族の男と、阿曇族の男の、海の男同士の交流をしのばせる詞書がある。3869番の歌の詞書である。
筑前の国、宗像郡の民・宗像部の津麻呂 (ツマロ) という男が、滓屋 (カスヤ) 郡志賀村の白水郎 (アマ、海人と同じ) の荒雄 (アラオ、「ますらお」と同義 ) のもとにやってきて、「私の願いを聞いてくれないか」と言う。志賀島のますらおは答える。「私たちは、郡を異にするけれども、長年、同じ船に乗って生死を共にした仲である。あなたに対する私の気持ちは、兄弟よりも篤い。あなたが死ぬときには従って死んでもよいと思っている。どうしてあなたの頼みを断ろうか」。
頼みというのは、太宰府から、対馬の防人たちへ兵糧を輸送するよう命じられた。だが、自分は老いて、対馬までは行けない。代わって行ってくれないだろうか、という頼みであった。男気のある志賀島の「ますらお」は引き受けて船出するが、航海の途中、天候が急変して、遭難死するのである。
万葉集に載った歌は、遭難死したますらおの妻の歌である。遥かに沖へ舟を出し、海に潜ってあなたを探しても、海底の中でもあなたに逢うことができない、と嘆く歌である。海人は、女も潜水が巧みだったのだろう。
歌の内容はともかく、志賀島の海の男と、宗像の海の男が、時に兄弟よりも強い関係に結ばれていたことがわかる。
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同じく海人族と言われる海部氏や尾張氏 (津守氏は尾張氏から出た氏族と言われる) の祖神は、天孫降臨したニニギと同世代で、人間界に近い。
祀る神々の系譜が異なるだけでなく、阿曇族、住吉族、宗像族が玄界灘に本拠を置いたのに対して、海部氏や尾張氏は、大和の要衝の地である丹波地方や尾張地方を抑える豪族である。
北九州とは別の勢力、或いは、出雲系の勢力かもしれない。「国譲り」をした出雲系豪族の実力者たちである。
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< 海人族の長であった阿曇氏 >
さて、阿曇氏であるが、「日本書紀」の巻10「応神天皇」中に、次のようなくだりがある。
各地の海人たちがそれぞれに勝手なことを言って、大王の命に従わなかった。そこで、大王は阿曇連が祖、大浜の宿祢を遣わして、これを平らげた。これより以後、阿曇連を海人の「宰 (ミコトモチ) 」とした。
このような記述からも、阿曇氏が、各地に蟠踞する海人たちを統率する有力氏族であったことがうかがわれる。「連」の姓を与えられていたことも、海人族の中での彼らの力を示していると言えよう。
阿曇氏が本拠地としたのは、博多湾を囲うように、玄界灘に東から突き出した砂洲、今は「海の中道」と呼ばれる8キロの長い砂洲の先端にある、陸続きの島・志賀島 (シカノシマ) である。
祀る神は、前述の如く、綿津見三神。
ちなみに、「魏志倭人伝」に記されている魏から邪馬台国への経路は、朝鮮半島の楽浪郡、狗耶韓国を経て、対馬国、一支国(壱岐)、そして北九州玄界灘沿岸の国々になるが、その対馬、壱岐にも 「和多都美神社」 があり、阿曇氏の勢力圏であったことをうかがわせる。
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彼らは、海人の長として、大和の大王の下で活躍したが、それは同時に、藤原氏を中心とした律令体制下に組み入れられ、またある時には、中央の政変のなかに巻き込まれて、次第に没落していくという過程でもあった。
宗像大社や難波の住吉大社が、大陸・半島への航海の安全を祈願をする神々として、その後も、朝廷から重んじられ、「大社」として尊崇を受けたのに対して、阿曇氏と、綿津見三神を祀る志賀海神社の存在感は、次第に希薄になっていく。
何がきっかけだったのかはわからないが、彼らは、玄界灘の志賀島に、綿津見三神を祀る総本社を残して、いつのころからか、全国各地に移住していった。その結果として、アズミの名は、全国各地の地名として残ることになる。
例えば、渥美半島、伊豆の熱海、内陸部の川を遡って信州の安曇野、穂高岳山頂の穂高神社の祭神は綿津見三神である。滋賀県の滋賀も、志賀島の志賀ではないかという説もある。
そこが海人らしい、と、言えば言える。彼らこそ、海人であった。
彼らの没落のきっかけはよくわからないが、白村江の敗戦と大将軍・阿曇連比羅夫の戦死は大きかったと思われる。
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< 志賀海神社に参拝する >
博多湾を玄界灘の荒波から守って天然の良港にしているのは、博多湾を東側から包み込むように、玄界灘の中へ突き出した「海の中道」と呼ばれる8キロの砂洲である。
言葉どおり海の中にできた天然の「道」で、狭いところでは幅は500mしかない。満潮時には一部が海水で区切られることもあるという。
そこに造られた近代的な道路を快調に走り、橋を渡ると、志賀島である。東西2キロ、南北3.5キロ、島を1周して9.5キロ。玄界灘への出入り口に当たる。
漢が奴国王に与えた金印がこの島から出土したということは、阿曇氏が、奴国の経済と文化を支えていたということを示しているのかもしれない。
島全体が、阿曇氏が祀る志賀海神社の神域。神の島である。
全国の「綿津見神社」の総本山。
鳥居の前に広場があり、玄界灘が広がる。
今は、のどかな光景だが、鎌倉時代、元寇のときには、ここは戦場となった。
( 一の鳥居の前から玄界灘を望む )
広場の後ろは、鬱蒼とした山である。その鬱蒼とした南国的な樹林の一角に、素朴な二の鳥居が立ち、「志賀海神社」とある。
海を背に、石を積んだ階段が、上へ上へと、樹林の中を延びる。
( 二の鳥居 )
やがて、白木の楼門が迎えてくれる。
( 楼 門 )
拝殿、神殿も、素朴なたたずまいが、好ましい。
拝殿で参拝していたとき、突然、正装した宮司さんが現れて、驚いた。阿曇氏の末裔であろうか。
( 拝 殿 )
境内の一角に遥拝所があり、海に臨む。そこには亀石が祀られている。
伝説では、神功皇后出征のとき、安曇氏の祖・安曇磯良 (イソラ) が皇后の前に亀に乗って現れ、船の舵取りをしたという。年を経て、その亀は石となった。
宮司さんは、ここでも、遥拝された。
( 亀石のある遥拝所 )
そして、舞台を去るごとく、楼門から退場された。
山の中の、人けのない、素朴ではあるが、2千年の由緒をもつ神社の、幻のようなひとときであった。
( 夕方のお祀りを終え、楼門から去る宮司 )
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その夜は、志賀島の先端部にある国民休暇村のホテルに泊まった。
窓を開けると、潮の音が鳴りとどろいだ。
大きな近代的なホテルで、私立の女子中学校の、何かのクラブ合宿かと思われる女子生徒たちが宿泊していた。上級生の統率の下、みんなニコニコ、礼儀正しく、感じが良かった。