ドナウ川の白い雲

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いよいよ宗像大社へ、辺津宮に参拝する …… 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(11)

2016年07月21日 | 国内旅行…玄界灘の旅

   ( 宗像大社のパンフレットから )

 翌朝、志賀島から「海の中道」を戻り、北上して、宗像大社に向かった。いよいよこの旅の目的地である。

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< 宗像三女神を祀る海の三宮 >

 宗像大社は、九州本土側の辺津宮 (ヘツグウ) 、その沖合11キロの海上に浮かぶ大島の中津宮、そこからさらに49キロの絶海の孤島・沖ノ島の沖津宮に、それぞれ宗像三女神を祀る。

 全国に6000余あると言われる宗像三女神を祀る神社の総本社。世界遺産の厳島神社もその一つである。

 辺津宮の先にある神湊 (コウノミナト) から大島までは、日に7便の船が出る。

 沖ノ島には定期便はない。まさに絶海の孤島である。

 地図上で、辺津宮、中津宮、沖津宮を結ぶと、その延長線は対馬の北東岸をかすめ、朝鮮半島の釜山に達する。

 もっとも、古代に釜山はない。新羅に編入されるまで、半島南部には伽耶 (任那) があり、そのなかに、現在の釜山近く、金海というクニがあった。

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< 宗像三女神へのアマテラスの神勅 >

  記紀によると、宗像三女神は、アマテラスとスサノオの誓約 (ウケイ) のときに生まれたとされる。「古事記」ではスサノオの子とされるが、「日本書紀」ではアマテラスの子になっている。美しい三女神が、当時、乱暴極まりない男であったスサノオの子というのは、どうもおちつかない。ここはやはり、アマテラスの娘ということに。

 その「日本書紀」には、「 一書に曰く 」 という形で、アマテラスが生まれ出た三女神に対して神勅を与えた、ということが書かれている。

 神勅の内容は、そなたたちは北九州から朝鮮半島への海路 (「海の北の道中 (ミチノナカ) 」) に鎮座して、航路の安全を守り、そのことによって皇孫をお助けし、皇孫からの尊崇を受なさい (「天孫を助け、天孫に祭られよ」) 、というものであった。

 宗像大社の辺津宮の拝殿の正面にも、中津宮の拝殿の正面にも、この日本書紀の一文、「奉助天孫而 / 為天孫所祭」が掲げられている。いわば、会社の社訓、学校の校訓のようなものであろう。

    ( 辺津宮の正面に掲げられた額 )

 歴史書である「日本書紀」が完成したのは西暦720年。そのころ、宗像三女神は、北九州と朝鮮半島を行き来する船の航路安全の神であり、そのことによって朝廷から多大の崇敬を受けていたのである。

 しかし、宗像大社の歴史はさらに350年は遡る。

 沖ノ島で見つかった祭祀の折の奉納品の数々から、この島で、少なくとも4世紀には、特別の祭祀が執り行われており、9世紀の遣唐使廃止までそれは続けられていた、ということがわかっている。

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辺津宮に参拝する  >

 車を置いて、鳥居をくぐれば、神域である。  

      

           ( 辺津宮の鳥居 )

 池があり、石橋を渡ると、手水舎があった。

 神門があり、本殿となる。

     ( 神 門 )

 拝殿も本殿も、16世紀に建てられ、年月を経ている。玄界灘の海人族の神社は素朴で力強く、太宰府天満宮のような都雅の趣はない。

   ( 拝殿・本殿 )

 拝殿の向かって左手の小道を奥へ進むと、神宝館がある。数多い神社仏閣の神宝館のなかでも、この鉄筋コンクリート3階建ての神宝館は特別である。何しろ8万点の国宝が収納されている。だが、そこは後回しにして、右手の小道を奥へと進む。

 杜を隔てて、本殿のうしろに当たる位置に、第二宮と第三宮がある。それぞれ沖津宮と中津宮の分霊を祀り、辺津宮に参拝すれば、合わせて他の二宮にもお参りできるようになっている。 

 こぶし大の石が敷きつめられた白木づくりの簡素なたたずまいは、どこかで見たような風だと思ったら、掲示があり、ここの社殿は、伊勢神宮の式年遷宮のとき、神宮の別宮 (瀧原宮) を移築したものだと書いてあった。

   ( 第二宮と第三宮 )

   ( 第三宮 )

 ( 伊勢神宮の瀧原宮 )

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< 日本人の信仰の原初的な姿をとどめる高宮祭場 >

 さらに奥へ奥へと入って行くと、高宮祭場に至る。

 50メートルプールほどの広さの空間に、わずかに石の段と、自然木の神籬 (ヒモロギ) があるのみ。垣の外に、神を祭るための簡素な小屋が立つ。

   「神籬」とは、上古、神祭りのときに、清浄の地を選んで周囲に常盤木を植えて神坐としたもの。後世には、代わりに榊を立てた。

 こここそ、遥か昔、宗像の神が降臨された、聖なる場である。

 宗像三宮のうち、沖ノ島と並んで最も神聖な場所とされている。日本人の信仰の原初的な姿が、ここにある。 

   ( 高宮祭場 )

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司馬遼太郎『この国のかたち 5 』から。

 「神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

   「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

谷川健一『日本の神々』 から

 「『万葉集』 には神社をモリと訓ませている例がいくつかあるが、そこは鳥居も拝殿も本殿もなく、神の目印となる特定の木さえあればモリと呼んでよかった」。

 「沖縄のウタキは神の依代 (ヨリシロ ) と見られるクバやアザカなどの樹木に囲まれた空き地に、聖域を示す小石が並べてある程度にすぎない。そのウタキも …… さらに古くはモリという言葉を使用したと推定される」。

 「『日本書紀』には、崇神天皇の6年に、大和の笠縫邑 (カサヌイムラ) に天照大神を祀ったが、そのときヒモロギ (神籬) を立てたとある。笠縫邑は檜原神社の境内と考えられている。檜原神社には拝殿も本殿もなく、三輪山が御神体となっている」。

 「ヤシロは祭りのとき仮小屋をたてるための土地のことであるが、それがいつしか神社をあらわす語となった」。

  「神社にたいして宮という言葉もある。ミヤはもともと神祭りをする庭を言った。必ずしも建物を必要としないのがミヤであった。『日本書紀』には、敏達天皇14年8月の条に「王 (キミ) の庭 (ミヤ) 」という語が出てくる。沖縄では、現在も庭をミャーと呼んでいる」。

 「記紀の神々には前史があり、神々の物語の背景には別の物語があったことを否定することはできない。それは日本列島に住み着いた人々が、気の遠くなるような長い時間をかけて、民族の意識の双葉の頃から作り上げた神々の前史であり、物語である。弥生時代の初めから『古事記』や『日本書紀』が編纂された8世紀初頭までは1200年以上の時間を費やしている。それは記紀の時代から20世紀末までの長さに優に匹敵する」。

 

 

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