< 宗像大社・辺津宮の神宝館へ >
( 神宝館入り口 )
宗像大社の辺津宮への参拝をすませ、神宝館に入館する。
入場料500円で、国宝の数々を見ることができるのだから、申し訳ないくらいだ。もっとも、その考古学的価値がわかるわけではなく、ブタに真珠、猫に小判ではあるが ……。
1階フロアーには、狛犬や石像など、宗像大社に伝わる中世以後の美術工芸品が展示されている。
メインは2階フロアー。玄界灘の海上の島・沖ノ島で、古墳時代の4世紀後半から、平安時代の9、10世紀まで、実に500年間以上に渡って営まれた国家的な祭祀の、その折々に奉納された数々の宝物が、今は国宝に指定されてここに展示されている。
3階フロアーには、宗像大宮司家伝来の古文書、扁額などが展示されている。展示の中には、宗像大社の社務日誌もある。
開かれているページは、明治28年5月27日。そこには、玄界灘に浮かぶ沖ノ島で目にした「日本海海戦」の様子が書かれている。戦闘当事者以外で「日本海海戦」を目撃したのは、世界中で、このとき沖ノ島にいた彼ら2人だけであった。
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司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 の最後の巻 (第8巻) は、「敵艦見ゆ」以下、9章で成っている。その3つ目の章が、「沖ノ島」である。
「この海域に孤島がある。
『沖ノ島』
とよばれている。
歴史以前の古代、いまの韓国地域と日本地域を天鳥船 (アマノトリフネ) などというくり舟に乗って往来するひとびとには、このいわば絶海の孤島をよほど神秘的なものとして印象されたらしく、この島そのものを神であるとし、祭祀した。極東の沿岸で漁労をしている種族は、文字ができてからの名称では、安曇とか宗像とかいっていたらしい」。
「日露戦争当時、この沖ノ島の住人というのは、神職1人と少年1人で、要するに2人きりである。
2人とも神に仕えている。
神職は本土の宗像大社から派遣されている宗像繁丸という主典で、祭祀をやる。少年は雑役をする。宗像大社の職階でいえば『使夫』である。……」。
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社務日誌には、「間もなく敵の艦隊18隻、水雷艦、駆逐艦合わせて56隻、忽然として4海里の処に現る」に始まり、「其の凄絶、壮絶の感を極む」という戦いから、次第に日本軍が優勢になり、「5時ごろよりは、追撃となりて、本島を遠ざかるが故に、日没とともに見ることえざりし」と書かれている。
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< 宗像族のこと >
神宝館の展示の初めに、「胸肩一族の動向」と題する説明があった。
「宗像」は、「胸形」とも表記されたが、宗像の男たちは、みな、胸と肩に龍の彫り物をしていたと言われ、「胸肩」とも表記された。大社側は、一族について述べるときは、「胸肩」を使っているようだ。
「宗像本土の遺跡調査が進み、胸肩一族の動向が明らかになりつつある。
宗像地域の内陸にある生産遺跡からは、一族が外来の先進技術である須恵器や鉄の生産技術を早い時期から享受したことを示す資料が確認され、沖ノ島祭祀と類似する鉄鋌や須恵器も発見されている。
宗像市神湊(コウノミナト)から福津市宮司(ミヤジ)にかけての海岸線一帯には、胸肩一族の奥津城 (オクツキ。墳墓) とされる古墳群がある。副葬品はすばらしい内容で貴重な渡来品も含み、大和政権からの下賜とみられる優品もある。
高い航海術を持つ一族は大和政権が行う外交交渉や沖ノ島祭祀の際に助力し、政権との関係を強めて成長した。その関係が確固たることを物語るのが宮地嶽古墳で、天武天皇の第一皇子高市皇子の祖父『胸肩君徳善』の墓と考えられている」。
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7世紀のころ、宗像氏は娘を大海人皇子 (のちの天武天皇) の妃に出した。2人の間には、大海人皇子の最初の男子が生まれた。高市皇子という。
壬申の乱の折、高市皇子は近江京からいち早く兵を率いて脱出し、逃避行中の父・大海人皇子の下に駆け付けた。以後、19歳の高市皇子は、最前線の司令官として全軍を率い、大津京を陥落させている。
母が地方豪族の娘であったため、皇太子になることはなかったが、以後、天武天皇を助け、天皇が崩じて皇后の持統が即位した後も、太政大臣として女帝を支えた。
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< 今も継承される沖ノ島の信仰 >
沖ノ島は、九州本土から60キロの沖合にある、絶海の孤島である。
周囲4キロ。最高標高243m。「神宿る島」とされ、島全体がご神体で、一般人の立入を禁ずる。
神職が1人、10日ごとの交代で島に上陸し、祭祀を行っている。港があり、寝泊まりできる社務所もある。真水が湧き、今は太陽光発電装置や船舶無線も完備している。だが、真冬といえども、毎朝、早朝に海に入り、禊ぎをするところから神職の一日は始まる。
年に1回、5月27日に、応募で選ばれた200人に限って、海で禊をした上で2時間だけ上陸が許される。
ただし、女人禁制である。また、1木1草といえども島から持ち帰ることは許されない。
漁船などが遭難して緊急に上陸することは許されるが、その際も禊ぎをし、また、島で見聞きしたことは一切、話してはいけないことになっている。
この島の信仰は、このような厳しい禁忌とともに、今も生き続けている。
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< 沖ノ島が「海の正倉院」になったのは? >
第二次大戦後、宗像市出身の経済人・出光佐三 ( 百田尚樹『海賊と呼ばれた男』) らが中心となって、宗像大社復興期成会が発足し、1954年から1971年まで沖ノ島の発掘調査が行われた。その3次に渡る調査の結果、8万点の祭祀遺物と、2万点の縄文・弥生時代の遺物が出土した。
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早くも、縄文時代前期には、朝鮮半島、玄界灘、瀬戸内海で漁をする海人たちが、この玄界灘の絶海の孤島を漁業の基地にしていたらしい。
縄文時代、弥生時代を通じて、海人たちによる祭祀も行われてきたであろう。
しかし、やがて、この島で、それまでの海人たちによる祭祀や北九州の一豪族が行う祭祀とは根本的に異なる、特別の祭祀が行われるようになる。それは、ヤマト王権がかかわる国家的な祭祀であった。
始まりは、古墳時代の前期に当たる4世紀の後半ごろと推定されている。(その契機については、あとで述べる)。
その祭祀は形を少しずつ変えながらも500年以上続き、9、10世紀末ごろに終了した。
終了したのは、直接的には894年に遣唐使が廃止されたこと、間接的には、世の中から古神道の形が消え、神社神道が確立していったことが原因と考えられる。
祭祀が行われた場所は、沖ノ島のなかの黄金谷と呼ばれる奥行き100mの谷で、ここには12個の巨岩 (神の磐座) があり、また、無数の岩が散乱しているそうだ。
ここに奉納された品々 ─── 例えば、数多くの銅鏡、シルクロード経由でもたらされたササン朝ペルシャ伝来のカットグラス、金銅製龍頭、唐三彩など ─── から、ここで行われた祭祀は、宗像氏という一地方豪族による祭祀などではなく、国家的な祭祀であったと推定されるのである。
これらの祭祀遺物は、今、辺津宮の神宝館に収められ、誰でも見学することができる。
( 宗像大社のパンフレットから神宝館の宝物 )
神宝館の展示品の写真撮影は禁止されているので、いただいたパンフレットの写真を掲載した。
写真左下の銅鏡は三角縁神獣鏡。
写真左上は、金銅製の龍頭。右上の純金製指輪は5世紀の新羅製。その下に、奈良三彩の小壺。
写真右下の機織り機のミニチュアはたいへん精巧なもので、琴のミニチュアなどもあり、これらは伊勢神宮の神宝と共通するそうだ。
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< 沖ノ島の祭祀の背景にある東アジアの中の日本 >
以下の記述は、近つ飛鳥博物館の館長・白石太一郎氏の研究報告書「ヤマト王権と沖ノ島祭祀」(平成23年)、その他を参考にした。同報告書はインターネットで簡単に取り出すことができる。興味ある方はどうぞ。
さて、沖ノ島で500年以上に渡って営まれた祭祀は、4期に分類される。
第1期は、4世紀後半から6世紀にかけての「岩上祭祀」の時期。神の依代 (ヨリシロ) である巨岩の上で祭祀が行われた。
出土品は21面にものぼる銅鏡、玉、剣などであり、前期古墳の副葬品と似ている。ただ、九州の古墳から21面もの銅鏡が出土した例はなく、このこと一つを取り上げてみても、この祭祀が国家的なものであったことがうかがわれる。
なぜ、このような祭祀が行われるようになったのかということについて、白石太一郎氏はおおよそ次のように述べておられる。
弥生時代中期以降、日本で製鉄が行われるようになる6世紀まで、鉄資源は「朝鮮半島南部の弁辰、のちの伽耶からもたらされていたことは疑い得ない。従って、東アジア情勢の動静如何にかかわらず、倭国と弁辰・伽耶地方との交渉は絶えず続いていた」。
「4世紀の後半になって、高句麗の南下という東アジア情勢の大きな変化を契機に、百済との接触が始まり (伽耶の仲立ちにより、367年に国交開始)、好むと好まざるとにかかわらず、倭国もまた、東アジアの国際舞台に引き出されることになる (391年半島へ出兵。400年高句麗との戦いなど ) 」。
こうして、もと、玄界灘沿岸の一在地勢力であった宗像氏の航海の神が、4世紀後半、ヤマト王権も関与する国家的な祭祀の対象になっていったのである。
宗像三女神が、ヤマト王権の神・アマテラスの娘ということになったのが、いつ頃のことかは、わからない。ただ、祭祀をともに行えば、それは自ずからそうなっていったであろう。
ヤマト王権において宗像氏がその存在を認められるようになったことを示すように、この時期に初めて、宗像地域に61mの古墳が出現する。
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沖ノ島祭祀の第2期は、5、6世紀から7世紀にかけての「岩陰祭祀」の時期である。張り出した巨岩の庇の下で祭祀が行われるようになる。
この時期には、後期古墳の副葬品と同じような装身具や馬具が奉納された。新羅の都・慶州の王墓から出土したものと同じ装身具や、古代イランのカットグラスなどもある。
倭の五王の一人と想定され、「日本書紀」では勇猛果断な天皇として描かれている雄略天皇が、自ら兵を率いて半島に渡ろうとするのを、宗像の神がいさめたという話が載っている。このエピソードが事実かどうかは別にして、宗像の神が大王の意思決定にかかわった話であり、宗像の存在が大きくなったことを示すエピソードである。
宗像の海岸に沿って、大規模な前方後円墳が営まれたのも、この時期である。おそらく宗像氏が対朝鮮半島との交渉や交易で大きな役割を果たすようになっていたのであろう。
やがて、百済との交流が深まり、日本に飛鳥文化が花開く。
第3期は、7世紀後半から8世紀の 「半岩陰・半露店祭祀」 の時代である。神の磐座(イワクラ)であった巨岩から離れた場所で祭祀が行われるようになる。古墳が消滅する時期にも当たる。
この時期、日本は大化の改新を経て、白村江の大敗があったが、その後、唐と国交を回復する。
一方、宗像氏は、一族の娘を、時の天皇の実弟 (大海人皇子) に妃として入れている。
また、720年に完成した「日本書紀」に、アマテラスの子として、宗像三女神が記述された。
奉献品としては、金属製ミニチュアの祭器、中国東魏様式の金銅製龍頭、唐三彩の花瓶などがあり、国際色豊かである。
第4期は、8世紀から9、10世紀の、奈良時代から平安時代に当たり、「露天祭祀」の時期である。巨岩から離れた緩やかな傾斜地で祭祀が行われるようになり、古神道の姿から離れていく。
第4期の出土品としては、祭祀用の土器、奈良三彩の小壺、貨幣、滑石製の人形、馬形、舟形など国内生産品が主となる。
やがて、遣唐使が廃止されるとともに、国家的祭祀も終了していく。
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2010年には、中津宮がある大島の山上付近でも発掘調査が行われ、奈良三彩の小壺や、舟や馬をかたどった滑石製品など、沖ノ島の4期と共通する祭祀遺物数千点が発掘された。
その結果、辺津宮 (高宮祭場) から発見されていた遺物をも合わせて、もともと沖ノ島だけで行われていた祭祀が、この時期に大島の山上でも行われるようになり、やがて麓に社殿を営み、神社神道として三女神を祀るようになった、と推定される。
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< 世界遺産へ向けて >
2015年9月2日付け讀賣新聞朝刊から
「『宗像・沖ノ島と関連遺産群』は、三宮と大島の沖津宮遥拝所、古代祭祀を担った宗像氏の墳墓とされる新原・奴山古墳群の5遺産。…… 推薦書案作成に携わった西谷正・九州大名誉教授 (東アジア考古学) は、『古代の祭祀遺跡がほぼ手つかずで残されてきただけでなく、その信仰の伝統が1500年以上も継承されている点で、世界的にも例がない遺跡だ』とその価値を強調する」。
「この伝統には、『女人禁制』、『上陸前の禊ぎ』といった禁忌も含まれる。登録に向けた最大の課題は、法的な保全管理よりも今後高まる公開や観光圧力への対処かもしれない」。
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全てを公開すべきであるという主張とか、女人禁制に対するジェンダーの立場からの抗議もあるらしい。
歴史ある神社なら、たいていどこの神社でも、一般には公開しない、氏子にも見せない、神職のみによる神事が行われている。
春日大社に、深夜、神をお迎えし、歓待し、お送りする神事がある。荘重に、また、雅やかに、神をもてなしているのは数十人の神職たち。深夜の杜の中である。一般人は誰もいない。が、松明の明かりの届かない木陰の暗闇に、目が2つ、4つ、6つ。鹿たちが不思議そうな顔をして、じっと神事を見つめている、── 公開されていないが、NHKの映像で記録され、その映像が放映され、私はNHKアーカイブで見た。その雅さ、美しさに、心から感動し、改めて日本の文化に誇りをもった。
国の内外から観光客が押し寄せ、マスコミが殺到するようになったら、お終いである。見たければ、NHKのアーカイブでどうぞ。
神社ならどこでも、国籍・民族、主義・信条、性別などを問わず、全ての人を受け入れる。
神社は神々のおわすところ。手水舎で身を浄め、小鳥の声や風の音を感じながら、拝殿から参拝したらよいのである。
沖ノ島は、島全体が神域であり、聖なる空間である。それを公開にせよ、というのは、「社殿の中」まで見せろ、神職以外の者にも、社殿の中に自由に入らせよ、と言っているのと同じであり、人の心の中を公開せよ、と言っているのに等しい。
富士山のような美しい自然も、沖ノ島のような日本民族の文化的遺産も、一度失ってしまったら、取り返しはつかないのである。
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ジェンダーの主張はわかるが、それを唯一絶対の価値として、何にでも押し通してはいけない。
原始女性は太陽であった。それは縄文時代の土偶の女性のフィギアーを見ても明らかである。それらの像は妊婦である。女性は産む性であり、それは万物の豊穣をも意味していた。
海人(アマ) の女は海女(アマ)である。彼女たちも海に潜って、魚や貝類や海藻を採った。
だが、沖ノ島は玄界灘の荒海の彼方にある。一度、荒天になれば、海人も死ぬ。どれくらいの男たちが、この海で死に、帰って来なかったろう。(「玄界灘の旅(10)」に紹介した「万葉集」3869の歌の詞書を参照。3869番前後の歌はすべて、恋人、夫が帰らない歌である)。
産む性に死んでもらっては困る。ゆえに、女性が沖ノ島へ行くことを禁じ、禁忌とした。
そもそもがそういうことで、「女人禁制」にした古人の思いは、縄文人が女性のフィギアーをつくった気持ちと同じである。そう居丈高になることはあるまい。
女性もロケットに乗って宇宙に行く時代に、ロケットをつくる技術者が、今度こそ必ず成功しますようにと、神社に参拝し祈願する。成功したら、改めて、成功の喜びを報告するために神社に行く。そういうものなのである。