ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ジェロニモス修道院とベレンの塔 … ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅 5

2016年12月11日 | 西欧旅行……ポルトガル紀行

      ( コメルシオ広場の「勝利のアーチ」  )

 リスボン中心街のホテルからテージョ川の方へ下っていくと、「勝利のアーチ」と石造りの建造物に囲まれた美しい広場がある。

 コメルシオ広場という。

 広場の端まで行くと、テージョ川の水がひたひたと石畳を浸している。

 ここは、大航海時代の頃からリスボンを代表する埠頭で、東方貿易によってもたらされたばく大な富の数々が陸揚げされた所だ。

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< 銘菓・パステル・デ・ナタ >

 その広場からテージョ川沿いに、市電に乗ってゴトゴト走ると、河口近くの、もう一つの埠頭に出る。大西洋を目前にしたこの埠頭のあたりはベレン地区と名づけられている。

 今回は市電ではなく、現地ツアーの車でやって来た。

 世界からやってきた観光客がいっぱいで遊園地のような界隈だが、その中に3つの行列ができている。

 そのうちの1つはジェロニモス修道院の入場券を買うための行列、もう1つは「ベレンの塔」を見学するために並んだ行列である。いずれも世界遺産。ジェロニモス修道院は、(旅行前のネット調べによる情報だが)、チケットを買うのに時間がかかるらしい。チケットを買ったあと、入場するのにも少し並ぶ。

 そして、3つ目の行列は、カフェ「パスティス・デ・ベレン」で名菓を食べようという行列である。

 ポルトガルにはパステル・デ・ナタという卵菓子がある。なかでも、カフェ「パスティス・デ・ベレン」は、この菓子の生みの親であるジェロニモス修道院の修道士たちが作っていたパステル・デ・ナタの製法を直接に伝授された店である。もちろん、門外不出。それで、リスボンにやってきた世界各国からの観光客たちは、行列に並んでジェロニモス修道院を見学し、見学が終わると、老いも若きも、男も女も、「パスティス・デ・ベレン」で卵菓子を食べるために、また行列をつくるのである。

 

 (カフェ前の大行列とパステル・デ・ナタ)

 もちろん、私、個人で観光していたら、1個の卵菓子のために、この大行列に並ぼうとは決して思わなかったろう。 

 だが、このツアーの行程には、カフェ「パスティス・デ・ベレン」も含まれていて、ドライバー兼ガイドのMさんは、我々を連れ、大行列をしり目にスイッと店の中に入り、テーブル席に案内してくれたのである

 食べてみると、ヨーロッパでは珍しく甘すぎない、ソフトな味の、小さな卵菓子だった。上品で、悪くはないが、もともと家庭で作っていた菓子だから、素朴な味というか、行列して味わうほどの …… しかしまあ、ブランド化とは、こういうことだろう。日本も、大量生産は中国にまかせて、ブランド化で生きていくしかない時代に入っている。

 以前、音楽の都・ウィーンの、オペラ座のそばの、昔、エリーザベト王妃も通ったという貴族趣味のカフェに一人で入り (気持ちの問題だが、入るのにかなり敷居は高かった)、ドレッシーな装いの、体重80キロはありそうなマダムたちのグループの横に遠慮がちに座り、銘菓とされるケーキを食べたことがある。

 決して安物の味ではないが、マダムたちの体型に似て、1個が大きすぎる。それに何よりも、甘すぎた。とにかくヨーロッパは、ケーキでも、朝、出勤の途中、おじさんたちが朝食代わりに寄って食べるバールの菓子パンでも、甘すぎる。

 若き日の体型を保ち続けたエリーザベト王妃を、我が家のご近所のケーキ屋さんに連れて行って、「これが日本で進化させた西洋のケーキですよ」と言って食べさせたら、間違いなく感激しただろう。そうしたら、ご近所のケーキ屋さんも、伝説のブランド店になる。

 パスタとアイスクリームはイタリア、パンはフランス、だが、ケーキは今や日本だ。

※ 私はお酒が好きで、「ケーキ通」ではない。

 「アイスクリームがイタリア」というのは「ローマの休日」以来のことで、あの映画を契機に、イタリアを訪れる世界の観光客が、ローマの街角でアイスクリームを食べるようになった。美味しさとは、舌だけのことではない。人々を幸せな気持ちにさせる何かが必要なのである。

 つまり、ブランド化には、大なり小なり ── ジェロニモス修道院の秘伝だとか、エリーザベト王妃がお忍びで通っただとか、「ローマの休日」のヘップバーンとアイスクリームの名場面とかという ── 伝説・物語が必要なのだと思う。

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< 壮麗なジェロニモス修道院 >

 ジェロニモス修道院は、壮麗な建物である。

  

   ( 壮麗なジェロニモス修道院)

 エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を称え、東方へ向けて出帆する船の航海の安全を祈願する大聖堂として、1502年に着工。1世紀以上の年月をかけて完成した。その費用は、1498年、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマが持ちかえった富によってまかなわれたという。大航海時代を切り開くことによって、貧しいポルトガル王国は、豊かになったのである。

 司馬遼太郎は、『街道をゆく 南蛮の道2』に、このように書いている。

 「私どもは、テージョ川の河畔に沿って、6キロ、リスボン市街から離れた。

 河口のあたりに、大理石の巨大な建造物がある。ジェロニモス修道院である。

 大航海時代の極東における記念建造物が大坂城であるとすると、その雄大な史的潮流の源であるこのリスボンにおいては、ジェロニモス修道院が代表すべきかもしれない」。

 大航海時代を象徴するものとして、その潮流の源にジェロニモス修道院があり、その潮流の東の果ての結実が大阪湾に臨む大坂城であるという。なるほど 我々は、ともすれば、秀吉だとか、淀君だとか、家康だとか、或いは豊臣と徳川の争いの舞台だとかいう、日本史の枠組の中でしか大坂城をとらえないが、そもそも大坂城は、大航海時代という世界史的背景があって築かれた建造物だったのである。

 その大坂城を陥落させたのも、家康が英国から借りた巨大な大砲の威力であった。歴史は、真田幸村の個人的な知略を超えたところで展開する。だからこそ、幸村も、美しい

 にもかかわらず、徳川政権はその後250年もの間、世界史の片隅に引きこもった。(事の良し悪しを言っているのではない。それはそれで良かったのかもしれない ) 。それでも、この国には、長崎というわずかに開いた戸から、オランダ語を通じて、西洋事情を学び続けた人々がいた。そして、アヘン戦争によって大国・中国が敗れたことを知ったとき、いち早く反応した。

 その結果、例えば、「世界の海援隊をやりたい」という坂本龍馬も登場することになる。高知の桂浜に立つ坂本龍馬像は、サグレス岬で海に向かって立つエンリケ航海王子の十何代目かの子孫のように、似ている。何よりも、海を見る目が似ている。

 ジェロニモス修道院の前には、切符を買うために、世界から訪れた観光客の長蛇の列がつくられていた。だが、我々は、ドライバー兼ガイドのM氏の案内で、並ぶことなく入場した。少々気が咎めたが、現地ツアーに入ったのは、このためでもある。 

  

  (ジェロニモス修道院の中庭と回廊)

 西欧の修道院はどこでも、中庭と回廊があって、静かな空間をつくり出している。修道士たちは、毎日、作業を終わると中庭の泉で手足を洗い、また、決められた時間に回廊で読書をし、祈り、瞑想する。

 ジェロニモス修道院の中庭は1辺が55m。そこを回廊がめぐっている。回廊に入る日差しは柔らかく、微妙な陰影が人の心を瞑想的にさせる。

 

    (回廊の彫刻)

    (回廊を歩く)

 当時の多くの聖堂がそうであるように、この修道院も聖母に捧げられた。ある時期からカソリックは、キリスト教信仰というよりも、マリア信仰のようである。

 「建物はふんだんに装飾されている」。

 「 "聖母" をかざる彫刻群のなかで、海にちなんだモティーフのものが多い。建物が聖母の肉体であるとすれば、それらの装飾は、聖母に対し、かたときもここから出帆して行った船たちの安全をわすれてくださるなと願うためのものであることがわかる」。

 「このことが思いすごしでない証拠に、なかに入ると、挟廊(アーケード)や回廊の壁に、船具や珊瑚が彫られ、海藻まで彫られている。カトリック文化の強烈な具象性がここにもうかがえるし、同時に、建物そのものが潮風を匂い立てているようでもある」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 

  ( 修道士たちの食堂 )

 修道院は、たくさんの修道士たちが、日々、祈りと労働に励んだ「生活の場」であるから、さまざまな生活空間がある。その中でも最も大切なのは、ミサを行う教会である。修道院が教会ではない。修道院の中に教会がある。教会は、キリストの身体そのものである。

 ジェロニモス修道院の教会は、サンタ・マリア教会という。

 中に入ると、フランスやドイツのゴシック様式の大聖堂と同じように、柱が天に向かってそびえている。

 ただ、フランスやドイツの大聖堂は、北方の森の民であるゲルマン的な空間であるが、この教会においては、高い柱はヤシの木を模しているという。そして、柱や壁には、ここもまた海や舟をモチーフにした数多くの模様が刻まれている。

 教会の中には、ヴァスコ・ダ・ガマの棺があった。

  (サンタ・マリア教会)

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 ゆっくり見学して、雲一つない外界に出た。

  「ジェロニモス修道院の前は広場になっていて、…… そのむこうが、広大な河口であり、ゆたかに水が流れている。インドをめざすヴァスコ・ダ・ガマが、エンリケ航海王子の死後、1497年7月9日、河口のこの地点から4隻の船隊をひきいて出て行った」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 その場所に、帆船を模した巨大な「発見のモニュメント」が建っている。

 1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた。エレベータで高さ50mまで上がることができるそうだが、今は修復中で、全体に覆いがかぶせられている。

 その前の広場には、大理石のモザイクで世界地図が描かれ、世界各地の「発見」の年号が刻まれている。日本は1541年とある。 

 

 (「発見のモニュメント」の下の世界地図)

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< の立ち姿のような「ベレンの塔」 >

 「さらに河口ちかくまでゆくと、水中の岩礁に美しい大理石の塔が立っている。塔というより小城郭といったほうが正しい。『ベレンの塔』とよばれ、16世紀のものである」。(『 南蛮の道Ⅱ』から)。

 もとはテージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として造られたが、後には税関や灯台としても使われた、と『地球の歩き方』にある。

 ここも長蛇の列があったが、チケットを買うためというより、内部が狭く、混雑して事故が起きるのをおそれて、入場者数を制限しているらしい。我々のツアーは残念ながら「ベレンの塔」の入場観光はない。しかし、ジェロニモス修道院をゆっくり見ることができたから、良しとする。

 

   ( 公女のような「ベレンの塔」 )

 司馬遼太郎は、「眺めていると、テージョ川に佇みつくす公女のようにも見えてくる」と述べているが、白い大理石の建物が、空と海の青に映えて、まことに瀟洒であった。

 命がけの長い航海を終えて無事母港に帰ってきた船乗りたちが、最初に目にするのが、この塔であった。 

 

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