(ペグニッツ川に架かるムゼウム橋から)
今回のブログのニュールンベルグに関す記述は、谷克二、武田和秀著『ドイツ・バイエルン州 ─ 中世に開花した南ドイツの都市物語 ─ 』(旅名人ブックス)の中の「ニュールンベルグ」の章が大変詳しく、参考にさせていただきました。お礼を申し上げます。
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<町の起こり>
この日(2009、10、9)はローテンブルグに滞在して、バスでニュールンベルグとヴュルツブルグを観光した。
ニュールンベルグの今の人口は50万人強。南ドイツ(バイエルン州)ではミュンヘンに次ぐ第2の都市である。
南ドイツを東西に走る「古城街道」の東の起点で、さらに東へ、国境を越えて街道を進めば、チェコの首都プラハに到る。
地理的には、東方貿易によって栄えた海洋都市国家ヴェネツィアと西欧とを結ぶ交易路に位置していた。神聖ローマ帝国の皇帝たちが300回もこの町にやって来たのも、東方貿易による富が運ばれてきていたからだ。
1050年ごろ、現在の町の北の丘に、通商路を守るため小さな城と望楼が築かれた。
城ができると安全が担保される。商工業者が次々とやって来て住み着き、城の丘から南の方向へ扇状に町は広がっていった。
そして、1180年、ローテンブルグと同様に、赤ひげ皇帝・フリードリヒ1世が城塞を拡張・完成させた。
神聖ローマ帝国の皇帝は、(自領を持つ有力領主であったが)、首都を置かなかった。臣下や従者を引き連れて帝国内を移動し、行く先々で議会を開いたり、争いの裁定をしたりしながら、この世俗世界を治めたのである。子分を引き連れ、肩で風切って町を歩く親分に似ていなくもない。
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<ペグニッツ川を経て中央広場へ>
北から南へと発展したニュールンベルグの町の真ん中を、東から西へペグニッツ川が流れている。
我々はバスを降りて、町の南の大きな城門をくぐり、北へ向かってぶらぶらと歩いて行った。
町は全長約5キロに渡る、高くて頑丈な城壁で囲まれ、いくつかの城門が聳えている。
冒頭の写真は、町の中央部を流れるペグニッツ川に架かる橋からの光景である。写真スポットで、誰でも絵葉書のような写真が撮れるのだそうだ。
橋を渡ると、中央広場=ハウプト・マルクトに出る。
中近世には、この広場で、エジプトや中東、シルクロード、インド、遠くは中国からヴェネツィアを経て運ばれてきた商品が、高価な値段で取引された。
今は、市民のための食料市場である。
下の写真の左端に見えている大きな建物は、皇帝カール4世が建てた聖母教会だ。
(中央広場=ハウプト・マルクト)
広場のテントの下には、みずみずしい野菜や果物や花が並んで、色鮮やかだ。
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<仕掛け時計とカール4世のこと>
広場の一角にある聖母教会のファーサードには仕掛け時計があり、定時になると皇帝カール4世の人形が7人の選帝侯とともに現れる。
(聖母教会の仕掛け時計)
この年の1月に、冬のプラハに行った。街路の隅には雪の塊が残っていて、覚悟していたとおり寒かったが、「百塔のプラハ」と言われるにふさわしい中世的な美しい町だった。
カールは、チェコ語ではカレル。ボヘミア(現在のチェコ)の王家に生まれた。皇太子時代に聖ヴィート大聖堂を建てた。この大聖堂の壊れたステンドグラスの一画は、チェコの画家ミュシャ(1860~1939)による補修で、実に美しい。
カールはボヘミア王になると(在位1346~1378)、プラハ大学を創設した。アルプスより北、ライン川より東にできた最初の大学である。プラハの旧市街から王宮へ向かうとき、ヴルタヴァ川を渡る。そこに架けられた美しい橋は、この皇帝の名を冠して「カレル橋」と呼ばれる。
1355年に、神聖ローマ帝国の皇帝カール4世となった。戦いよりも文人皇帝の誉れが高い。今でもチェコでは国民から最も崇敬を受ける「偉人」である。
そのカール4世とニュールンベルグの関係は、今回、調べるまで知らなかった。
歴史上、カール4世と言えば、金印勅書を公布した皇帝である。
その場所が、ここ、ニュールンベルグだった。
勅書の趣旨は、以後、皇帝は世襲の7選帝侯の選挙によって選ばれるとしたことだ。さらに、選ばれた皇帝は、第1回の帝国議会をニュールンベルグで開催することとなっていた。ということで、歴代皇帝のこの町の訪問は、通算すると300回にも及ぶらしい。
この仕掛け時計のある聖母教会も、カール4世が建てさせた教会である。
そういうわけで、この町にとって、カール4世は非常に縁の深い皇帝なのだ。
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<美しの泉の金の塔>
広場には泉がある。
「美しの泉」と呼ばれ、八角形の水盤があり、高さ19mの金ぴかの塔が建っている。14世紀に造られた塔で、4段になり、40もの浮彫の像や文様で飾り立てられている。
(美しの泉の塔)
ニュールンベルグの富の象徴でもあるが、日本人の感覚ではいささか成金趣味と思える。秀吉も金の茶室を造らせたが、金の茶室は豪華であっても、もう少しシンプルでシックなものだったに違いない。
ただし、秀吉の茶の師匠の利休は、そういう秀吉の趣味をきらった。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけれ」や世阿弥の「秘すれば花」という美意識は、現代の日本人の感性の中に息づいている。
塔を囲う鉄格子に小さな金の輪がはめ込まれている。添乗員によると、その輪を3回回しながら願い事を唱えれば、願いが成就するという。なぜ輪がそこにあるのかというちょっとした悲恋物語も説明された。金の輪の前には欧米の観光客の列ができていて、そこに日本人の観光客も並ぶ。何百年も人々に触られた金の輪は、ピカピカに光っていた。
触って願いを唱えれば願いが成就するという類いの話は、ヨーロッパを観光していると、あちこちにある。一神教の世界も、相当に迷信好きなのだ。
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<強固な城壁を巡らせた町>
ニュールンベルグは皇帝たちが300回も訪れ、帝国議会も開かれた。皇帝が訪れたときの居城は、丘の上のカイザー・ブルグだ。
皇帝が不在のとき、城の管理は町に委ねられた。町が自由に使って良いとされたのだ。
丘を登り、城塞の門をくぐって城門の中に入り、城内の説明を受けたが、これというほどのものはなかった。城は洋の東西を問わず、あっけらかんとしている。
(城塞の門)
ただ、深さ60mという井戸はすごかつた。ガイドが水を落とすと、数秒もたってから音がする。敵に包囲されたとき、この井戸の水は、命の水だった。
城塞の丘からの眺望は良かった。
(城塞から)
もう一度、バスの駐車場へと町の西側を、南へ向かって散策しながら歩いた。
屋根の下に、箒(モップ??)にまたがって空を飛ぶ魔女がいた。面白い!!
(空を飛ぶ魔女)
出窓は富の象徴として、裕福な家で造られたそうだ。
(出窓は富の象徴)
外から見ると、出窓というより、飾り立てられたカプセルに見える。
だが、室内の出窓のあたりは、やわらかい日差しが差し込む心地よい空間で、主人が読書したり、瞑想したり、娘がまだ見ぬ貴公子を夢見たりしたのかも知れない。
市民たちの富は、町を囲う城壁にも注ぎ込まれた。税を納め、一旦急あれば、自ら町の防衛に当たるのが「市民」である。
領主(貴族)連合の7千の軍勢の攻撃を受けたことが2度もあるが、市民たちは撃退した。
17世紀の前半の、ドイツ全土を荒廃させた30年戦争のときも、ニュールンベルグは戦禍の外にあった。
富を惜しまず、頑丈な城壁を築いてきたお陰である。
しかし、19世紀初め、ナポレオン戦争の後、ローテンブルグ同様に、ニュールンベルグもバイエルン王国に併合され、都市国家の時代は終わった。
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<その後のニュールンベルグ … 廃墟の中から>
第二次世界大戦のとき、ニュールンベルグは連合軍の絨毯爆撃によって町の9割が破壊された。ナチス党がこの町で第1回党大会を開催したから、見せしめにされたのである。
「ニュールンベルグ裁判」も行われ、「東京裁判」へと続いた。
破壊されたのはニュールンベルグだけではない。ドイツの多くの都市が、旧市街の6割とか、7割とかを破壊されている。ドイツを旅していると、行く先々でそういう話を聞く。
驚くのは、そういう廃墟の中から、市民たち(「おかみ」ではない)が、いち早く立ち上がり、街並みを復元させていったことだ。ニュールンベルグにおいても、周囲5キロの城壁の中は中世の街並みを取り戻した。
フランスは第二次大戦のとき、ドイツによって防衛線が粉砕されたあと、侵攻してきたドイツ軍にあっさり降伏した。その後、連合軍が上陸して、ドイツ軍との戦闘もあったが、幸いにもパリは燃えず、地方の都市も大規模な破壊には至らなかった。
※ ヨーロッパでは、第一次世界大戦(日本はほとんど参戦していない)における若者の戦死傷者のあまりの多さと悲惨さに深い反省があった。だから、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の戦死傷者は、第一次世界大戦の約10分の1である。フランスの早い降伏には、そういう事情もある。
一方、ドイツは最後まで降伏せず、首都ベルリンまで攻め込まれ、市街戦を演じ、最後はヒトラーの自殺で終焉を迎えた。その結果、各都市は壊滅し、「国家」そのものも崩壊して、国土の東半分をソ連、西半分を米、英、仏によって分割統治された。
国土が焦土と化したのは日本も同じである。
だが、ドイツでは、市民が、壊滅した市街 ── 15世紀、16世紀、17世紀の街並み ── を、記憶を呼び起こし、残された写真を見ながら、大聖堂などの歴史的文化財に至っては可能な限り焼け跡に残された元の石材を集め、時には古い時代の不透明なガラスまで製造して、忠実に、再現・再興したのである。こうして市民たちは、今見る伝統的な街並みを取り戻した。
それは、ドイツだけではない。ナチスドイツによって破壊されたポーランドの町においても同様だった。
スクラップ・アンド・ビルドで済ましてはいけないものもある。
市民たちは「自分の町」 … 言い換えれば、その歴史と文化を継承しようと力を合わせたのだ。そこが、すごい。
私がヨーロッパを旅する動機の一つである。
本来、根っこのない「個人」など存在しない。過去から伝えられたものがあり、未来への責務もある。
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かなり駆け足で、ニュールンベルグを見たあと、ヴュルツブルグへ向かった。