上の写真は、ディンケルスビュールの城壁の外。ヴェルニッツ川の分流を自然の堀としている。メルヘンチックな景色だった。
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10月10日。2泊したローテンブルグを、朝、出発した。
今日は、ロマンチック街道を南へ。畑や、牧場や、森や、村の風景の中を、終点のフュッセンまで走る。
(バスの車窓から)
フュッセンに行く途中、午前中に、ディンケルスビュールとネルドリンゲンに立ち寄った。珠玉のような中世の小さな町だ。
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<交通の要衝の「市」が発展したディンケルスビュール>
以前、高校時代の友人から、ロマンチック街道を旅行したときの話を聞き、写真を見せてもらった。仕事の関係で知り合ったドイツ人が自家用車で案内してくれたそうだ。
話を聞きながら、そういう旅をしてみたいものだとあこがれた。のどかなロマンチック街道ならレンタカーを自分で運転できるのでは、という誘惑にかられた。しかし、その頃のドイツ車にはナビがなく、そもそもドイツ語のロードマップを見ながら運転するのは大変だ。もちろん、左ハンドルの右側通行。
もう少し若ければ …。
友人曰く、「ローテンブルグは比較的大きな町で、観光客が多く、華やか。それにひきかえ、ディンケルスビュールは小さな町で、公共の交通機関がないから観光客も少なく、何と言ってもローテンブルグ以上に中世の姿が残っていて、私は好きだ」。
私の今回の旅はツアーだから、ディンケルスビュールも、ネルトリンゲンも、過ごす時間は1時間足らずだ。それでも、ローテンブルグに立ち寄った後、アウトバーンをフュッセンまでぶっ飛ばすツアーと比べたら、随分マシなのである。
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ディンケルスビュールの城壁の外のパーキングでバスを降り、ローテンブルグ門から城壁の中へ入っていった。
(ローテンブルグ門)
城門の壁に紋章がある。こういう紋章のデザインにも、中世ヨーロッパを感じる。
上の写真の紋章の右側は帝国自由都市を示す双頭の鷲。左は市の紋章で、この地方の豊かな穀物の実りを表す3本の小麦の絵柄だ。鷲と比べると、いかにも素朴な紋章である。
(左右が市の紋章)
紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、町の周囲を城壁で囲むディンケルスビュールには、東西南北に4つの塔門がある。
今入ってきた北のローテンブルグ門は、ローテンブルグへ通じる門だ。その街道をさらに北へ北へとどんどん進めば、バルト海に達する。
反対側のネルトリンゲン門を出れば、このあと訪れるネルトリンゲン、その先にアウグスブルグがある。さらに進めば、オーストリアのインスブルックを経て、ブレンナー峠でアルプス越えし、イタリアに入る。「全ての道はローマに通じる」。古代ローマ時代からの街道だ。
西の門を西へ進めば水運の盛んなライン川に到り、東の門を出て東に進めば、チェコのプラハを経て、ポーランドのクラクフに到るという。
ディンケルスビュールはこういう交通の要衝に位置し、10世紀頃に市場町として町が形成されていったらしい。
13世紀に第一次城壁が築かれ、14世紀に町の規模が大きくなって、現在の城壁に囲まれた町になった。
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(ドイッチェス・ハウス)
写真はディンケルスビュールの中心部で、左から2軒目の赤い花を飾る家は「ドイッチェス・ハウス(ドイツ館)」と呼ばれる。
15世紀に建てられたドイツでも指折りの豪華な木組みの家。もとは豪商の館だったが、今はホテル・レストランとして使われている。
紅山雪夫さんは、「建物は国宝級なのに、料理の値段はごく普通なのがうれしい」と書いている。
ドイツの木組みの家と日本の木造家屋との根本的な違いは、日本の家屋が柱と梁によって支えられているのに対し、ドイツの家屋は壁で支えられている点だ。だから、日本家屋は各階を貫く柱が通っているが、ドイツの木組みの家は上へ上へと箱を積み重ねた構造らしい。地震が少ないドイツでは、積み重ねるだけで大丈夫なのだそうだ。良く見ると、1階の柱と2階の柱はつながっていない。
通りを挟んで、ドイッチェス・ハウスの前には聖ゲオルグ教会がある。
各自、自由に、中世にタイムスプリットしたような街の中を歩いて、再びバスに戻った。
30年戦争でも、第二次世界大戦でも被害を受けなかった町は、アウトバーンからも鉄道からも外れて、今は静かに眠っているようだ。
軒を連ねる店にも、客は少なかった。そういう1軒のショーウィンドウで、青銅製の読書する小さな少女像を見つけて、衝動買いした。帰国後、妹にプレゼントしたが、気に入っているようだ。
(城門の橋を渡る)
門を出て、堀に架かる橋を渡り、パーキングの方へ行くと、冒頭の写真のような景色がある。
友人も同じような写真を撮っていた。川(堀)と、木々と、城壁と、赤い屋根の塔 … この雰囲気がこの町を印象づけている。
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<隕石の衝突でできた盆地の中の町・ネルトリンゲン>
ネルトリンゲンはディンケルスビュールから近い。30キロほど南へ走った位置にある。
1500万年も前の話だが、巨大な隕石が激突して、直径25キロのくぼ地をつくった。そのくぼ地は今はリース盆地と呼ばれるが、隕石によってできた痕がこれほどはっきりしている地形は世界でも珍しいそうだ。
リース盆地は豊かな緑に覆われ、ネルトリンゲンの町はその中にある。
紀元1~2世紀、ローマ帝国は、アルプスの麓の森に発して南から北へ流れるライン川を東の防衛線とし、東から西へ流れるドナウ川を北の防衛線とした。
だが、両河の上流部の深い森は、ゲルマン民族の得意とするゲリラ戦に向いている。
そこで、ライン川とドナウ川とを斜めに結ぶ長い城壁を築いた。リーメスと呼ばれる。
リーメスには要所に監視所や砦を築いた。その後方に縦横に道路を巡らせ、監視バックアップ用の軍の分屯所を置いた。さらにその後方には、幾つもの分屯所を援護する軍団基地を築いた。ローマの生命線は、軍団が迅速に移動できる道路網だった。
ネルトリンゲンの町は、そういうローマ軍の分屯所が起源ではないかと考えられている。ローマ兵が1個中隊もいれば、彼らは規則どおりに周囲を堀と防壁で囲む。そこから道路は四方に通じているから、商人たちがやって来て町になる。
しかし、3世紀の半ばにはゲルマン系のアレマン族に侵入され、ローマ軍は後方のドナウ川まで押し戻されていたらしい。
バスを降り、ネギ坊主型の屋根のついた塔門をくぐって、町に入った。
(町のメイン通りに通じる門)
西ローマ帝国が崩壊し、既にフランク王国の時代になった10世紀頃から、ネルトリンゲンはディンケルスビュール同様、街道上の市場町として再び頭角を現してきたらしい。
13世紀に帝国自由都市となり、その頃には、第1次城壁が築かれた。
町は拡張して、14世紀には全長3キロの壁で囲まれた現在の町になる。
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マルクト広場があり、市庁舎があり、聖ゲオルク教会が建つ。教会にはダニエルの塔と呼ばれる高さ90mの塔がある。
短い自由見学時間は、この塔に上ると決めていた。
入場料を払って、塔の中に入り、350段の階段を上がった。
螺旋階段ではなく、直線的に上がって20段ぐらいで折り返すしっかりした石の階段だったから、汗をかいたが安心して上れた。
螺旋階段は、ステップの中心側の幅が狭くなって怖い。上りの人と下りの人がすれ違わねばならないような場合は、高度恐怖症気味の私は知らず知らずに緊張する。すると、翌日は筋肉痛になる。過去にフィレンツェのドゥオーモの塔で経験して以来、そういう階段は上がらないことにしている。
塔上には夜警の小さな部屋があり、部屋を出ると展望が広がって、そよ風が吹いていた。
(ネルトリンゲンの家並み)
赤い家並のはずれの位置に、さっきくぐった城門の塔が聳えている。その先には、ローカルな鉄道が通っているのが見える。この町には、本数は少ないが、列車がやってくるのだ。
(リース盆地)
家並みのはずれの赤い線は、城壁の屋根だ。城壁の向こうにも少し家並みがあり、その向こうは緑のリース盆地である。
真下を見ると、小さな町の小さな広場で市が開かれている。
(小さな町の市民の市)
塔上には、今でも毎晩、夜警が階段を上がってきて、勤務する。
谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』(旅名人ブックス)によると、夜警は夜の10時から12時まで30分ごとに、下方の家並みに向かって、「ゾー・ゲゼル・ゾー」と叫ぶそうだ。
だが、中世の方言らしく、もう誰にも意味が分からない。たぶん、「火の用心」という意味だろうという。
この町に1泊して、塔から降ってくるその声を聞いてみたいものだ。