(車窓から…雨のロマンチック街道)
<アウグスブルグへ>
午後、アウグスブルグを目指した。
朝から曇り空だったが、ついに雨模様の天気になった。バスの窓も雨に濡れる。
「もうすぐドナウ川を越えます」という案内があった。
一瞬で通り過ぎた。この辺りはまだ大河というには遠く、「ドナウ川」の風格はない。
それでも、ドナウの水運で開けたドナウヴェルトという中世の町が近くにあるはずだ。
※ この2年後、「ドナウ川の旅」に出かけた。ツアーではなく個人旅行だったからいっそう心に残った。その旅のことはまだブログに書いていない。このブログを始めたのは、もう少し後の2012年である。ただ、その旅を記念して、私のブログのタイトルは「ドナウ川の白い雲」とした。
ネルトリンゲンから約70キロ。バスは小雨降るアウグスブルグの町に入った。
田舎の風景が一変し、瀟洒なトラムが走っている。木組みの家はなく、石造りの大きな建物が並ぶ。
久しぶりに都会にやって来たという感じだ。路面が雨に濡れている。
★
<皇帝マクシミリアン1世のこと>
(雨のマクシミリアン大通り)
マクシミリアン大通りの名は、ハプスブルグ家の皇帝・マクシミリアン1世(在位1493~1519)に由来する。
若き日のマクシミリアンは「最後の騎士」と称えられる凛々しい青年だったらしい。
父も長く皇帝位にあったが、実態は尾花打ち枯らした小領主だった。当時、選帝侯たちは、力のない皇帝を好都合と考えていたのだ。
青年マクシミリアンは、ブルゴーニュ公国の美しい姫と見合いをし、結婚した。ブルゴーニュ公国は、ネーデルランドの商業都市も支配していた豊かな国で、見合いはしたが、両家のあまりの財力差に、一旦話は立ち消えになった。だが、跡継ぎは姫一人だったから、姫の父は、あの凛々しい若者を忘れられなかったのだ。
お似合いのカップルで、夫婦仲も良かった。二人の間にできた男女の子どもたちは、後にスペイン王家の男女の子どもたちと結婚し、孫はスペイン王としてはカルロス1世、神聖ローマ帝国皇帝としてはカールⅤ世 (在位1519年~1556年)となった。
皇帝マクシミリアン1世はアウグスブルグが好きで、しばしばこの地を訪れ、帝国議会も開催した。皇帝が来てくれれば町のPRにもなり、商売も繁盛するから、市民たちは大歓迎したのだろう。
★
<町の起源はローマに遡る>
ここまでの旅で立ち寄ったおとぎ話に出てくるような町は、いずれも民族大移動期の混乱が治まりつつあった10世紀頃を起源とする中世都市だった。
アウグスブルグも同じ時期に再スタートした町であるが、町のそもそもの起源はローマ時代に遡る。
紀元前1世紀のローマは、ユリウス・カエサルに率いられた軍団がライン川流域をほぼ制圧し、ローマの東の防衛線をライン川とした。しかし、北の防衛線とすべきドナウ川流域は未だ「蛮地」のままだった。
後を継いだ初代皇帝アウグストゥス(在位BC27~AD14) のBC15年頃、ローマ軍はドナウ川への前進基地として、この地に駐屯地を築いた。
その後、さらに前進したローマ軍は、AD10~30年頃、かつての駐屯地を後方支援の町として植民した(退役したローマ兵が土地の女性と結婚して住み着く)。町の名は、皇帝アウグストゥスの名に因んでアウグスタ・ウィンデリコルムと名付けられた。ドイツでは2番目に古い町だそうだ。
もちろん、アウグスタ・ウィンデリコルムは、アルプスを越え、首都ローマに通じるローマの街道網に組み込まれた。
ちなみに、ドイツの南西部の森に発したドナウ川は、東へと流れていき、レーゲンスブルグ、パッサウ、オーストリアに入ってリンツ、ウィーン、方向を南へ変えつつハンガリーのブタペスト、さらにブルガリアとルーマニアの国境を流れて、黒海に流れ込む。この間の各都市、レーゲンスブルグもウィーンもブタペストも、ローマ帝国の北辺を守るローマ軍団の駐屯地を起源とする。
★
<大聖堂(ドーム)に入る>
私たちがバスで走ってきた「ロマンチック街道」は、アウグスブルグの町の中に入ると、町の真ん中を、北から南へと貫く大路となる。その一部が「マクシミリアン大通り」である。
もともと、この道は、古代ローマの街道だった。中世から近世に到るアウグスブルグの繁栄は、このローマ時代の街道がもたらしたものである。
民族大移動の混乱期のあと、アウグスブルグが再び甦ろうとする8世紀には、いち早く司教座が置かれた。ヴュルツブルグと同様、アウグスブルグも司教都市として発展したのだ。
アウグスブルグの大聖堂(ドーム)は、町を南北に貫く大通りに沿って、町のやや北の位置に建っている。
(大聖堂)
ローマ時代のアウグスブルグはこのあたりが町の中心で、中央広場があったらしい。
10世紀にマジャール人の騎馬軍団が侵攻したとき、司教は神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世と共に町を防衛した。
大聖堂の前に像がある。真ん中の像は、馬に乗って指揮する司教である。
(馬上の司教)
この大聖堂は9~12世紀にかけて建造されたが、その当時のロマネスク様式の部分と、その後、14世紀に改築されたゴシック様式の部分が混じっているそうだ。
(身廊)
写真では狭く見えるが、堂内は堂々たる5廊式で、写真はその身廊部である。この両サイドに2列の列柱が並んで、それぞれに2側廊がある。
ステンドグラスは、ドイツでは最古のものらしい。
中世の大聖堂らしい趣があった。
(ステンドグラス)
★
<黄金のアウグスブルグとフッガー家>
ローテンブルグの項で、木村尚三郎先生の『西欧文明の原像』の一文を引用したが、アウグスブルグの中世も同様である。
司教の保護と支配を受けながら経済活動をはじめた商人・手工業者たちは、次第に力を持つようになり、司教の支配に抗するようになる。
そして、13世紀後半に、市民の自治が前進して、遠くの皇帝権力と結びつき、帝国自由都市となった。
アウグスブルグの全盛期は15~17世紀で、「黄金のアウグスブルグ」と謳われたそうだ。豪商フッガー家やウェルザー家などが登場し、その活動は全ヨーロッパから新大陸にまで及んだ。
フッガー家の全盛期は、コロンブスが「アメリカを発見」し(1492年)、バスコ・ダ・ガマがインド到達(1498年)した大航海時代と重なっている。
フッガー家はヴェネツィアとの交易で財を成したあと、その金を元手にローマ教皇庁に食い込んだ。教皇庁を中心に全ヨーロッパに広がる教会組織網は、キリスト教会から集まる献金、所領から集まる税金、免罪符の販売収入など、扱う金は膨大だ。金融業のフッガー家はその金を取り扱い、「フッガーの代理人が、免罪符を売る僧侶にくっついて歩いた」と言われる。
ハプスブルグ家の皇帝カール5世は、神聖ローマ皇帝の選挙をめぐってフランス王フランソワ1世と激しく競り合った。そのとき、カールは、フッガー家から莫大な金を借りて選帝侯たちを買収した。カール5世に宛てた手紙が残っているそうだ。「私がご用立てしなければ、陛下は皇帝にお成りになれなかったでしょう」。
一方で、フッガー家は、生活困窮者のための世界最初の住宅団地を造っている。16世紀に建てられたその住宅群は今も健在で、市当局の管理下にあり、家賃は当時のままの1ユーロだそうだ。
後に、スペイン王室が破産状態になったとき、フッガー家は巨額の貸し付け金が回収不能となって没落した。ただ、不動産が多く残り、家名を維持することはできたそうだ。(以上は、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』と、谷克二、武田和彦『ドイツ・バイエルン州』を参考にした)
★
<窓から天使が見下ろす市庁舎>
市庁舎は町の真ん中あたりに位置し、マクシミリアン大通りの通る一画に建っている。
17世紀の初めに、ルネッサンス様式で建てられた。
(市庁舎)
建物の最頂部には、帝国自由都市の象徴である双頭の鷲の紋章が見える。
手前の泉に立つ彫像は、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストスの像である。
この市庁舎のイベントが、NHK・BSの『世界で一番美しい瞬間(とき)』に取り上げられた。
市庁舎の下の広場は、12月に入ると、クリスマス市で賑わうのだが、クリスマスの夜、選ばれた町の幼い少女たち数人が、天使に扮して、市庁舎の高い窓に登場する。ファンタジックで、美しい行事である。
★
<その後のアウグスブルグ>
1806年、神聖ローマ帝国は解体し、アウグスブルグもバイエルン王国に編入された。
ただ、近世以降、アウグスブルグは、ローテンブルグやディンケルスビュールとは異なる歩みをたどる。
後者は、近世以降に発展が止まり、人口1~2万人のままで、中世風のメルヘンチックな姿を今に残している。
一方、アウグスブルグは発展を続け、産業革命を経て近代化・工業化が進んだが、そのため第二次世界大戦では、空襲と戦闘によって町の50%が破壊された。
「ロマンチック街道」と名付けられたヴュルツブルグからフュッセンまでの間で、唯一、旅人を半分ほど現実世界に呼び戻してくれるような町である。
★ ★ ★
<牧場の奇跡・ヴィース教会>
アウグスブルグから南へ80キロほど走った。「ロマンチック街道」もほぼ終わりである。
フュッセンに着く前、今日の最後の訪問地、世界遺産のヴィース教会に寄った。
バスは牧歌的な風景に入り、緑のやわらかい起伏が美しい。小雨に濡れた牧場には牛が放牧されている。ヴィースとは、牧草地という意味らしい。
(緑の起伏が美しい牧場)
緑の中に、白亜の小さな教会があった。
(ヴィース教会)
以下は、18世紀の奇跡の話である。
当地の農家の女性が、修道院で埃をかぶっていた「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受け、牧草地の中にあった小さな礼拝堂に安置した。
ところが、毎朝、木像の頬に水滴があふれ出ていた。鞭打たれたキリストが泣いていらっしゃる。「これは奇跡だ!! 」。噂が広まり、各地から人々が礼拝堂を訪れるようになった。
これを聞いた修道院長は自らの不明を恥じ、資金を集めて、野中の小さな礼拝堂の代わりに、立派な「巡礼教会」を建てた。
キリスト教世界では、農業改革で人々に少しゆとりができ始めた12世紀頃から、聖遺物のある教会や奇跡のあった地へ巡礼する人々が増えていった。それは一種の社会現象となり、該当する教会は巡礼者のために立派な聖堂を建て、また、巡礼者の落とす金でさらに立派な聖堂に成長していった。
★
牧場の中の小径をたどり、緑の中にたたずむ教会の中へ入った。入った途端、思わず小さな声が出た。「えーっ!! 何だ、これは!! 」。
(ヴィース教会の内部)
ニュールンベルグの「美しの泉」の金ぴかの塔も、ヴュルツブルグの司教が自分のために建てたレジデンツも、その装飾過多や豪華絢爛さに辟易となったが、この教会の内部空間は、まわりの牧歌的な風景に比して、あまりにも違和感がありすぎた。
美術史上では、後期バロックにロココ調が加味された様式ということらしい。
正面祭壇の下部に、「鞭打たれるキリスト」の木像が納められているようだが、よくは見えない。
木彫りのキリストは、名もない修道士が刻んだのだろうか??
田園にふさわしい素朴なキリストの木像が、「こんな贅を尽くした、けばけばしい祭壇に飾られるのはイヤだ」と、きっと泣いていらっしゃるに違いない、と思った。「ここは私の住まいではない!! あの小さな礼拝堂の素朴な祭壇へ戻してくれ」。
新約聖書の福音書に描かれたイエスは、そういう青年であると思う。ヨーロッパ人の感性が、時々わからなくなる。
その夜は、せせらぎの流れるフュッセンのホテルに泊まった。