(白鬚神社の鳥居)
<はじめに>
2010年の旅「早春のイタリア紀行」を連載中ですが、少し脱線して、2020年の旅のことを、忘れないうちに書いておきたいと思います。このブログを続けて読んでいただいている方々には、誠に勝手で申し訳ありません。
この秋、「琵琶湖周遊の旅」に出かけました。
車の旅です。
コロナ下ではありましたが、渺渺たる琵琶湖の広がりを思えば …… 観光客の人ごみさえうまく避ければ、コロナ・ウイルスはいないでしょう。
少し心配したのは宿です。それで、旅行社の企画するツアーやグループ・団体客が泊まらないような、部屋数が10部屋もない、だが、評判の良い、小さな日本風旅館をネットで時間をかけて探しました。コロナ下の今、どこも部屋数の半分しか客を入れませんし、ましてウイーク・デイですから大丈夫でしょう。実際、宿泊した3軒ともわずか2組の客でした。コロナで廃業してほしくない良心的な宿に少しでもエールをおくれたらという、そういう思いも抱いての旅でした。
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<近江の国と琵琶湖>
近江を愛した作家・文学者は多い。白洲正子も、司馬遼太郎も、近江紀行を書いている。もっと昔に遡れば松尾芭蕉。
司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩』から。
「芭蕉には、近江でつくった句が多い。そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑』にある一句である。
行く春を近江の人とおしみける」
「行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩(タイトウ)たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈(ヤマナミ)はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情とがあう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝って人に化(ナ)ったようでさえある。この句を味わうには『近江』を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである」。
春の近江の印象を一言で言い表せば、やはり「駘蕩」という語が的確なのでしょう。
それにしても、近江の人の気風を「春の気が凝って人に化(ナ)ったよう」ととらえる司馬遼太郎の表現力に敬服です。
ただし、わが旅は秋、10月。秋の琵琶湖もなかなかのものでした。
次に、近江の地理と歴史をひょいっと一筆でとらえた白洲正子の文章(『近江山河抄』)。
「近江は約6分の1が湖水で占められ、古くは『淡海(アワウミ)の国』といった。遠江の浜名湖を『遠つ淡海』と呼んだのに対して、都に近い琵琶湖は『近つ淡海』といい、近江の字を当てたのは、元明天皇の頃と聞く」。
元明天皇(女帝)は在位707年~715年。藤原に宮があった時代で、和同開珎が世に出た時の帝である。
それにしても、印象として、近江の国は琵琶湖が3分の1以上も占めているような気がしていたが、地面が6分の5もあったのだ!!
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<「琵琶湖周遊の旅」のこと>
さて、私の旅。車で高速道路を走り、長浜で一般道に入って、長浜港へ。
琵琶湖汽船の乗り場で、竹生島行き12時50分発の往復チケットを買う。帰りは竹生島港発14時40分。
長浜と竹生島の往復ではなく、竹生島からさらに対岸の今津に渡る便もある。そうしたいところだが、車を置いて行くわけにはいかない。
出航時間まで間があった。
付近にレストランはない。船乗り場でコンビニの場所を教えてもらい、昼食のおにぎりを買いに行く。歩くには少々遠かった。聞いた相手が元気そうな若い女性だったから致し方ない。
湖水を見ながらおにぎりを食べた。
向かいの突堤には魚釣りを楽しむ人たちがいた。
(長浜港の突堤)
長年、大阪で働き、奈良に住んだから、琵琶湖周辺にも何度か来た。
最初は東京の学生だった頃。クラスの仲間と2週間かけて飛鳥、奈良、京都を回り、そのとき比叡山延暦寺にも足を延ばした。
大阪に職を得て、友に誘われ山登りを始めた。湖西線に乗り、さらに路線バスに乗って、寒々とした山の麓の登山口から比良山を見上げたとき、比良は上から迫ってくるように急峻で、なるほどこれは里山ではない。登山者の山だと思った。谷筋の樹間を登って行くと、途中から雪の山道となり、尾根が近づくにつれ積雪は深くなった。ボタン雪ではない。しんと静まり返った山の中、登山靴で粉雪を踏みしめるぎゅっぎゅっという音だけが聞こえ、冬山の世界に魅了された。雪庇にズボッと足を踏み込み、バランスをくずすこともあった。
中年になり、車で尾上温泉あたりまで遠出して、湖上に遊ぶ野鳥や夕焼けの竹生島を撮影した。長浜の街に立ち寄って街を少し散策したのもこの頃である。高度経済成長の時代、観光地と言えば演歌が流れ、安っぽい食べ物屋や土産物店が並ぶ時代だったが、この街は歴史と文化を大切にしたオシャレな街づくりに取り組んでいるという印象をもった。
しかしこの年齢まで、琵琶湖周辺に宿をとって、琵琶湖の風景や歴史の跡を味わう旅をしたことはない。
竹生島に上陸したことも、国宝の彦根城の天守に昇ったこともない。「さざなみの志賀の都ぞいざさらば」と歌われる天智天皇の大津の宮跡も知らない。
ということで、今回は途中3泊して、琵琶湖を周遊することにした。
ただし、ゆっくり家を出発して、最終日は早く帰宅する。宿の朝は遅く出て、次の宿には早く入る。車の運転はスピードを押さえ、奈良県民として、滋賀県警に点数を稼がせないよう、のんびりと走る。
計画を立てながら、これはムリだなと思った。多分、カットする所が多く、もう一度出かけることになるだろう。特に2日目は、北岸から西岸を回り、石山まで。走行距離も長く、見学したい所は多く、カット、カットで車を走らせることになるだろう。しかし、近いのだから、また出かければいい。旅はゆっくりだ。
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<船上から見る伊吹山>
(竹生島行き)
船が出航してまもなく、長浜の街の向こうに大きな山容が見えた。あれは伊吹山だ。
ホテルだろうか、湖畔の鉄筋コンクリートの建物が景観を壊している。琵琶湖の広がりの向こうに伊吹山、というせっかくの景観だが、遠景で写すしかない。ズームアップすれば、主役はホテルになる。
(伊吹山)
伊吹山について、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』の中でこのように書いている。
「 … 岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るだびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。
南近江の象徴的な神聖山が三上(ミカミ)山であり、湖西の名山が比良であるとすれば、伊吹は北近江のひとびとの心を何千年も鎮めつづけてきた象徴といっていい」。
だがこれは、長浜付近からの眺めではない。
私も学生時代、東京・大阪間の帰省の行き帰り、いつも東海道線の車窓から伊吹山を見て、「でかい」と感じた。
そのあたりのことは、深田久弥の『日本百名山』に書かれている。
「東海道全線中これほど山の近くを走る所はなく、その中で私のいつもみとれるのは伊吹山の姿であった。それはボリュームのある山容で、すぐ目の前に大きくそびえている」。
「米原から北陸線に入って長浜のあたりでは、もっと余裕をもってこの山を仰ぐことが出来る。のどかな近江野を通るごとに、藤村の詩『晩春の別離』の一節が私の口に浮かんでくる。
『懐(オモ)へば琵琶の湖の/岸の光にまようとき/東伊吹の山高く/西には比叡比良の峰』」。
引用されている若き日の島崎藤村の詩はまだ幼く、ご当地ソングのようであるのが微笑ましい。
深田久弥は続けて、伊吹山にスキー場ができ、さらに山麓にセメント工場が建ったことを、「山の美観を傷つける、甚だ眼障りな物」と批判。
だが、人の少ない春の季節にこの山を登って頂上に立つと、近江の野、鈴鹿、比良の山々、さらに遠く雪の白山までの眺望があり、「うららかな静かな山頂で過ごした1時間は、まさにこの世の極楽であった」と書いている。
このセメント工場については、司馬遼太郎も、先の伊吹山の叙述のあと、怒りをもろに表出している。
それはともかく、白洲正子は『近江山河抄』の中で、「近江風土記逸文」の話を紹介する。
「伊吹山の神の名を、霜速比古(ヒコ)という。その娘の須佐志比女(ヒメ)と、姪の浅井比女が、ある時背くらべをした。ところが浅井岳は一夜のうちに大きくなったので、怒った夷服(イブキ)岳は、刀を抜いて浅井岳の頭を切り、湖中に落とした。その頭はやがて島となり、竹生島と呼ばれるようになったという」。
伊吹山はなかなか激しい。あのヤマトタケルも、この山の神と戦おうとして山中で氷雨に遭い、疲労困憊する。ふるさとの大和を目指して、杖を突き、足を引きづるようにして歩くが、鈴鹿の麓あたりまで来て息絶える。そして、一羽の白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。
伊吹山の標高は1377m。浅井岳は現代の地図にはなく、金糞岳のことらしい。伊吹山の北西にあり、標高1317m。県下で2番目に高い山。竹生島を乗せると、伊吹山より少し高くなる。
「伊吹山と竹生島が、東西に相対し、そのまん中を姉川が悠々と流れて行く様は、古代の神話を絵にしたような景色である」。
白洲正子の近江紀行は、寺や神社を行脚し、古代を思い、遠い日本人の文化や心に思いを馳せる旅である。描かれる近江の景観も美しい。
『近江山河抄』が出版されたのは昭和49年(1974年)である。
それに対して、司馬遼太郎の『街道をゆく 近江散歩、奈良散歩』が刊行されたのは10年後の昭和59年(1984年)。ちょうど日本の高度経済成長が沸点に達してバブル期に入った頃である。
この頃の日本は、土地が高騰し、地上げ屋が徘徊し、山が壊され、神社やお寺の鎮守の杜まで買い荒らされて、鉄筋コンクリートの建物が建てられた。
国民的作家は、この紀行の中で、近江の駘蕩とした風土や浅井長政、石田三成、徳川家康、井伊直政ら戦国武将の気質や生き方を生き生きと語る。だが、時に、近江の自然がこわされ、汚されているのを目にして、怒りを表出せずにはいられないでいる。
司馬遼太郎より若い世代ではあるが、高度経済成長からバブルの時代を私も生きた。だから、思いを同じくする。あの時代、日本人はみなぎらぎらと脂ぎって、厚顔無恥になっていた。
日本が貧しい国にはなってほしくない。だが、再びあのような品のない国にも戻ってほしくない。山々や、谷々や、森や、田畑や、海、そしてそこに育まれてきた人々の文化を、どう守り、いっそう美しく豊かにしていくか。それが第一命題である。
司馬さんは、この紀行から十年ほどたった1996年に逝く。日本の未来を心配しながら。
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船室は「密」というほどではないが、老若男女の観光客でそれなりに座席はうまっていた。
40分ぐらいなら、船上の甲板の上で、湖水を囲む近江の景色を見ていた方が楽しい。風も爽やかだった。
20分もたった頃、船員が上がって来て、波が大きくなり、飛沫が甲板まで飛んできて濡れるから、船室に降りた方がいいと言った。
高をくくっていたら、良いお天気なのに、本当に時化のように大波がきて、船が上下に大きく揺れ、大量の飛沫が飛んできて、あわてて船室へ降りた。
しばらくして、波もおちつき、もう一度甲板に上がると、竹生島が近づいていた。
(竹生島)