(「三谷旅館」に泊まりました)
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「波のまにまに漂えば/赤い泊火(トマリビ)懐かしみ/行方定めぬ波枕/今日は今津か長浜か
」
琵琶湖周遊の歌の一節だが、なんか演歌にもなりそう。
今夜は、その長浜に泊まる。
宿にチェックインした後、街の中を少し歩いてみた。今はコロナで閑散としているが、ヨーロッパの旧市街のように良い感じで、ぶらぶら歩いていて楽しい。
高度経済成長の時代、日本の中小都市はJRのどの町で降りても「銀座通り」と称する商店街があり、食堂、パチンコ店、飲み屋があって、その町らしい個性的な表情がなく、駅前の土産物屋の商品も商品名を替えただけで全国画一的だった。それも今はシャッター街だ。
長浜は、ステンドグラスづくりを体験できる黒壁ガラス館があり、黒壁スクエアがある。曳山子ども歌舞伎の博物館もある。思わず入りたくなるようなオシャレなカフェやレストラン、さらに和菓子屋、洋菓子屋、お餅屋、地酒屋、履物屋、着物屋、布工房、蜂蜜屋、古書店、紙屋、そして旅館など、バラエティに富んだ店が軒を連ね、小さな流れや橋も景観として取り込んで、伝統と気品を感じさせる。
全国から何万人もの人が集まる、曳山子ども歌舞伎や長浜盆梅展などのイベントもある。
こういう町づくりは、国の補助ばかり期待する町と違って、町衆とでもいうべき人々が皆で知恵と力を合わせて取り組んだ結果であろう。
遠い昔に遡れば、難攻不落の小谷城を落とした信長は、この戦いで功のあった羽柴秀吉に湖北12万石を与えた。
初めて大名となった秀吉は、山城の小谷城を捨てた。そして、北国街道と、湖上交易の要衝の地として、湖岸に長浜という新しい城下町をつくった。長浜は、秀吉の7年間で基礎がつくられた町である。
例えば街区は、戦国風の鍵型道ではなく、碁盤目状になっている。楽市楽座がしかれ、町衆の自治が重んじられ、進取の気風が培われた。秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤が岳の戦いには、長浜の若者たちが町を挙げて秀吉側に付いて戦った。
曳山祭りの山車は、町内ごとにあって豪華絢爛、その上で子ども歌舞伎が演じられる。この山車も、秀吉が男子誕生の折に「内祝い」として長浜に贈った砂金を元手として造られた。
(曳山子ども歌舞伎)
石田三成も大谷吉継も北近江の人である。関が原は、近江の将兵が西軍の中心として戦った戦いだった。
たが、徳川の時代になっても変わりはなかった。
司馬遼太郎は『街道をゆく24』の中で、
「三成の旧領を相続して佐和山城に入った(井伊)直政は、石田時代の法や慣習を尊重しただけでなく、戦国期に敗れて民間に落魄している佐々木氏(京極氏)や浅井氏の遺臣をよび、近江の国風について深く聴くところがあった。
さらに家臣団に対し、『関が原合戦に関することを語るな』と、命じた。語れば、三成の悪口になり、三成をひそかに慕っているかもしれない民間の感情を傷つけることにもなる。関が原合戦の西軍の中核部隊は近江衆であった」。
中世的権威というものは、全国の守護大名にしろ、京の貴族や京都・奈良の大寺にしろ、民にとっては遠い存在だった。彼らは民を上から目線でしか見なかった。民衆の暮らしを思う武家の頭領とか、施しをする大寺の僧侶というのは、現代の価値観で歴史を語る大河ドラマのフィクションに過ぎない。(奈良時代の行基も、鎌倉時代の親鸞も、正規の僧侶ではない)。
領国を真剣に「経営」するようになったのは、戦国大名が登場してからである。秀吉も、石田三成も、井伊直政も、家康も、隣国に打ち勝つ大名になるには、まずはわが領国を豊かにし、経済力を養わねばならないことを知っていた。だから、時に領民の目の位置に降りてきて、領民の思いを慮ることができる。そういう人間でなければ成功はおぼつかない。
「戦国時代」という言葉から、日本史を習う日本の生徒たちは、戦争ばかりの絶望的な時代と誤解するだろう。しかし、この時代は、日本の社会が中世的制約を壊し、大きく近世へ向かって前進した時代である。…… と、私は理解している。
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長浜の商店街には、いろんな案内があった。
(街角の「うだつ」の説明看板)
(うだつのある家)
美味しそうな鯖寿司を作っている店があって、明日の昼飯用に買った。日持ちするように包んでくれた。
翌日、琵琶湖の北岸で食べたが、久しぶりの絶品の鯖寿司だった。
泊まった宿は町屋風で、部屋は狭かったが、夕食の料理も美味しく、申し訳ないぐらい安かった。お蔭さまで節約してしまった。
(三谷旅館)
宿の主人のお子はもう成人だが、小学生の頃、曳山子ども歌舞伎で活躍した。役者には小学生の男子しかなれない。アルバムや新聞の切り抜きを見せていただいたが、山車はもとより豪華絢爛。衣装は親もちだと思うが、こちらも本格的。ビデオを見ると、演技も相当に本格的。立ち姿そのものが、腰が据わって様になっていた。
「明日はどちらの方へ?? 高月とか、木之本も良い所ですよ」。「確か十一面観音のお寺がありますね」「そうです。小説にも描かれています」「…… 井上靖でしたね。題は…??」。「『星と祭』」「あっ、そうでした」。
若い日に読んだことがある。琵琶湖でボートが転覆して遺体も上がらなかった女子大生の父親が、湖北の十一面観音を巡る話だった。
どうして琵琶湖でボートが転覆するのか、若い男女がなぜ岸まで泳ぎ着かなかったのか、読みながらそこが理解できなかったが、今日の竹生島行きの船の揺れは激しかった。まるで、時化の日の大海原の波だった。
「昔、日帰りでしたが、路線バスと徒歩で渡岸寺の十一面観音など2、3を拝観して回ったことがあります。でも、今回は車で琵琶湖を一周しようと思っています。明日は、北岸をぐるっと回り、琵琶湖の西側を南下して石山まで走りたいと思っています」。
旅から帰って、ネットを見ていたとき、長浜の有志たちが井上靖の『星と祭』の復刻をしたという記事を見つけ、なるほどと思った。あの宿のご主人も何がしかかかわっていたに違いないと思った。
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今年一年間、当ブログを読んでいただきありがとうございました。
諸事情に幻となる春の旅 (読売俳壇から)
本当に思いもしなかった大変な一年間でした。
しかも、いつまで続くかわかりません。
でも、笑顔で新しい年を迎えましょう。不安→怒り→攻撃ではなく、笑顔です。
来年もよろしくお願いします。