(王宮の丘からドナウ川の上流を望む)
<国境を越えてブダペストへ>
5月29日 快晴
ホテルで朝食の後、U3でウィーン西駅へ。ウィーンの市内交通も少し乗りこなせるようになったが、今日はブダペストへ向かう。
西欧の国から中欧へ。ベルリンの壁の崩壊までは社会主義の国だった。
少しばかりの国の自立と自由を求めて、ハンガリー人が立ち上がった。だが、たちまちソ連の戦車が侵攻して、蹂躙した。
「ハンガリー事件」のことは、遠い少年の日の記憶としてかすかに残っている。まだテレビはなかったから、ニュース映画で見たのだろうか。遠い国の出来事だったが、ソ連の冷酷さと、従属国の痛ましさが、遥かな記憶の底にある。
本題を離れるが、1968年のチェコのプラハでも、2022年のウクライナでも、歴史は繰り返された。自分の勢力圏の国だと思うから、政治的に介入し、言論も弾圧し、戦車で蹂躙する。挙句、マンションでも病院でも、平然とミサイルを撃ち込む。日本はこの種の大国の勢力圏に入ってはいけない。そのためには日米同盟を堅持すべきだ。
ウィーン西駅の人混みの中で、わが列車は何番ホームから出発するのだろうと頭上の電光掲示板を見上げていたら、「EN467便は50分の遅れ」のサインが目に入った。
まただ 今回の旅で3度目の列車の遅れ!!
しかし、少しも動じない。急ぐ旅ではないのだから。ブダペストでも、ドナウ川を眺めることができたらブダペストへ行った目的は達成である。あとどこかを見学できたら、それは全て満点に加点されていく。減点方式の旅はしない。
人生は旅。旅心定まる。
駅構内のカフェで時間をつぶした。
やって来た列車に大きなキャリーバックを持って乗り込む。この列車の始発駅はどこだったのだろう?? 遠くから夜行列車として走ってきた気配が残っていた。車両の片側が窓のある狭い通路で、もう一方の側にコンパートメントの扉が並んでいる。自分の座席番号の書いてあるドアを開けると、6人掛けの部屋だった。ヨーロッパを舞台にした映画を見るような感じ。
アラブ系の若い男女と同室だった。先客に対し挨拶して入った。
列車がハンガリーの国境を越える頃、車掌が検察に回ってきた。日本でパソコンから打ち出した印刷物(乗車チケット)を見せて、OK。
同室のアラブ系の若者には、パスポートの提示が求められた。入念にパスポートが調べられ、何か会話のやりとりがあった。
車掌の態度は爽やかで丁寧だったが、車掌が部屋を出て行った後、若い男の様子がおかしくなった。ふさぎ、ふてくされ、一人で歌を口ずさんだりした。明るく優しい感じの若い女性が寄り添って慰めた。事情は私たちにはわからない。
国境を越えると、車窓の森や畑とともに流れていく農家や小屋のたたずまいが貧しくなった。オーストリアのパッチワークのような牧歌的な美しい風景とはほど遠かった。
3時間と少し。お昼過ぎにブダペスト東駅に着く。
駅のホームの両替所で1万円札をフォリントに両替した。ハンガリーは2004年にEUに加盟したが、通貨はフォリントのままだ。たいていの支払いはVISAカードでできるが、早速、タクシー代には現金が必要。
駅構内の人混みの中をキャリーバッグを引いて歩くときも、タクシーに乗ってからも、緊張した。事前にネットで調べたとき、ブダペスト空港で機内預かりから出てきたスーツケースがこじ開けられていたとか、タクシーも大回りしたり、ぽったくりの請求をされたとか書いてあった。
だが、滞在中、そのようなことはなかった。何回かタクシーに乗ったが、そういうことは1度もなかった。ショッピング街を歩いているときも、地下鉄やトラムの中でも、スリなどのアブナイ雰囲気を感じたことはなかった。アブナイ気配ならローマやパリの方がある。特にローマ。ローマ市民のことではない。ローマはあまりにも開放され、人が自由に入り過ぎている。
ドナウ川の河畔に建つ「インターコンチネンタル・ホテル」に2泊する。私のヨーロッパ旅行では使わない系列のホテルだが、今回の旅のテーマはドナウ川。そして、ネットでいろいろ調べ、調べつくして、このホテルの5階の部屋からの眺めが最高であることを知った。もっと高級なホテルも、もっと安いホテルもあるが、このホテルのドナウ川の眺望は他に代えがたいと思った。
ホテルのフロントにキャリーバッグを預けて、早速、未知の町へ見学に出た。
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<王宮の丘をめざしてバスを間違える>
この旅の目的はドナウ川。よって、今日の午後の予定は、まずブダ地区の王宮の丘へ登り、ドナウ川を眺望する。そして夜は、「ドナウ川ナイトクルージング」。
Budapest。ハンガリー語の発音を片仮名で表すと、「ブダピュスト」だそうだ。
もとは3つの町だった。オーブダとブダとペスト。
北方(ドナウ川上流)にはオーブダという町。旧ブダの意で、歴史は古い。ドナウ川の右岸(西側)にあり、古代ローマの軍団基地や属州パンノニアの州都アクィンクムの遺跡が発掘されている。しかし、今回の旅は考古学的興味による旅ではないから、行かない。
その南(下流)の右岸がブダ。丘陵地帯になっていて、閑静な住宅地とか。その端がドナウ川に臨み、中世以来、ハンガリー王国の王宮があった。ブダペストを観光する人々が必ず訪ねる場所。私にとってはドナウ川を眺望できる丘だ。
ブダの対岸のドナウ左岸は、平坦な土地が広がるペストの町。かつてはドナウ川をはさんで王宮と向かい合った半径300mぐらいの半円が城壁と堀で囲まれ、商人や職人の町だった。今は市域は大きく広がり、国会議事堂、官庁、ブダペストを代表する大聖堂、企業のオフィス、そして、ハンガリー第一の華やかなショッピング街だ。
ホテルはペスト地区のドナウ川の河畔に建っている。くさり橋がすぐそばにあり、対岸は王宮の丘だ。
(ペスト側から眺望する王宮)
ホテルからくさり橋とは反対方向へ少し歩けばデアーク広場。地下に降りて切符売り場で市内交通の24時間券を買い、王宮の丘を目指した。
地下鉄はドナウ川の川底深くをくぐり、3駅目のモスクワ広場駅に到着。そこから「城バス」に乗り、一気に急坂を上がれば王宮の丘の予定だった。
だが、バスはどんどんどんどん坂道を登って、高台の住宅地へ向かう。これは間違えたな??
あわてていると、前の座席に座っていたおばさんが声をかけてくれた。「引き返して。城バスは16番だよ」と教えてくれる。
いざとなれば何とか意思疎通できるものだ。
ハンガリー語はヨーロッパ系の言葉と全く体系が異なるらしい。見た目にはわからないが、ハンガリー人(マジャール人)の祖先を訪ねれば、我々と同じアジア人なのだ。
見知らぬバス停で降り、反対行きのバスを忍耐強く待って、モスクワ広場へ引き返した。今度は16番の「城バス」に乗る。1時間近くもロスをしてしまったが、これもまた旅。でも、疲れる。
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<ハンガリーの苦難と不屈の歴史>
東へ東へと流れたドナウ川は、ハンガリーに入って、エステルゴムという丘の町の辺りから大曲りし、南流するようになる。
ドナウ川を見下ろすこのエステルゴムの丘が、ハンガリーの建国の地だった。
マジャール7部族のリーダー、アールバート家のイシュトヴァーン1世は、カソリックの洗礼を受け、AD1000年に初代国王(在位1000年~1038年)となった。王宮はエステルゴムに置き、ハンガリー・カソリックの総本山となる大聖堂も建てた。
11世紀後半から12世紀にかけて、ハンガリー王国は全盛期を迎える。東西南北に大きく領土を広げ、産業も盛んになり、都市の建設も進んだ。
13世紀、モンゴルの襲来があった。時の王ベーラ4世(在位1235~1270)は大敗を喫してアドリア海に逃れ、国土は焦土と化した。モンゴル軍の通過したあとは、略奪と殺戮で人口が半減したという。モンゴル軍が去った後、ベーラ4世は再度のモンゴル軍の襲来に備え、王宮を下流のブダの丘に移した。そして、モンゴル軍の襲撃に何とか耐えられたのが石造りの町と知り、ブダペストにその礎を築いた。
15世紀、マーチャーシュ1世(在位1458~1490年)はイタリアなどから文人、建築家を招いてハンガリー・ルネッサンスを花開かせた。王宮の丘も美しく装われた。
だが、その後、ハンガリーは、南から膨張してきたオスマン帝国を迎え撃たなければならなくなり、数度の大きな戦いを経て、1526年に若きラヨシュ2世が戦死した。1541年にはブダも陥落し、オスマン軍に制圧されてしまう。
ハンガリーは、ブダペストを含む3分の2の領土がオスマン帝国領となり、北西部の3分の1だけがハンガリー領として残った。ただし、王家は断絶したから、戦死したラヨシュ2世の妹の夫、ハプスブルグ家(オーストリア)のフェルディナントが王位を継いだ。以後、ハプスブルグ家が王位を継承していく。
1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗し、ハプスブルグ帝国が一気に攻勢に出た。ハンガリーは全土がハプスブルグ領となる。
その後、ハプスブルグの支配に抗するハンガリー人の運動は何度も起き、1867年にやっとハンガリーの自治が認められた。ただし、ハプスブルグ家が両国の君主として君臨するオーストリア=ハンガリー帝国いう形となった。
第一次世界大戦でハプスブルグ帝国は崩壊し、1918年にハンガリーは独立する。そのあと、ナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、ブダペストの町はまたもや破壊された。
戦後はドイツを破って侵攻してきたソ連の支配を受けた。
ハンガリーが真に独立できたのは、ベルリンの壁崩壊の年の1989年である。ベルリンの壁の崩壊は、それに先んじて、ハンガリーがハンガリーの壁を壊したのをきっかけにしている。東ベルリン市民は、ハンガリーを通って、西ベルリンへ殺到したのだ。
1999年にNATOに加盟。2004年にEUに加盟した。
ただし、2010年に首相に再登板したオルバーンは親ロシア路線に転換し、ロシアのウクライナ侵攻にもNATOとは一線を画している。
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<王宮の丘からの眺望 … ドナウ川、国会議事堂、くさり橋>
王宮の丘からのドナウ川の眺望は最高だった。
上流の方角がよく見えた。
ズームレンズを望遠にして、上流のオーブダ方向を写してみた。
(上流のオーブダ方向)
緑のこんもりした島がマルギット島。その手前の橋はマルギット橋。マルギット島の先にはオーブダ島。これらの島の左手(右岸)にローマの遺跡がある。
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空の青を映した美しき青きドナウ。その対岸(ペスト側)に国会議事堂。美しい。
王宮の丘から眺める景観の主役は国会議事堂だ。幾本ものゴシックの尖塔と、その中央に華のような大ドーム。
(ペスト側の国会議事堂)
だが、このような建造物はヨーロッパで珍しいわけではない。
主役はやはりドナウの流れ。ドナウ川があってこその建物である。
1884年に着工し1904年に完成した。ハプスブルグとの二重君主制とはいえ、ハンガリーが自治権を取り戻した時代である。ハンガリー国民の心意気が感じられる。
ここには、初代国王イシュトヴァーン1世が戴冠した王冠が、ガラスケースに納められて展示されているそうだ。ハプスブルグ家の王たちも、このイシュトヴァーンの王冠を戴冠して初めて王と認められた。(それにしても、国王は勇敢でなければならないだろうが、戦死してはいけないとつくづく思う。後継ぎもなしには。蒙古に大敗して逃れたベーラ4世のように生き延びることが国民のためだったかも知れない)。
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眼下には、ブダと、ペストとを結ぶ、「くさり橋」。ブダペストの美しい景観はこの橋とともにある。
(眼下のくさり橋)
美しいブダペストを「ドナウの真珠」と形容するのは、ネックレスのようなこの橋のイメージによるのではなかろうかと、この夜のナイトクルーズで思った。
橋の長さは375m。高さ48mの2基の塔に支えられている。
1839年から10年の歳月をかけて架けられた。国会議事堂の建造と同じ時代である。今は上流にも下流にも何本もの橋があるが、「くさり橋」が架かるまでドナウ川を渡るには渡し船しかなかったそうだ。この橋によってブダとペストがつながれ、大きな新しい共同体が生まれた。
橋の向こうに聖イシュトヴァーン大聖堂のドームが見える。王宮、くさり橋、大聖堂が一直線に並んでいるのだ。
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<王宮の丘を巡る … 王宮、マーチャース教会、漁師の砦>
王宮の建物は、丘の南半分を占めている。
ブダに初めて王宮(城塞)が築かれたのは、モンゴル軍の再度の襲来に備えたベーラ4世(在位1235~70)のとき。
その後、何度も破壊と建設が繰り返された。
現在の王宮の姿が出来上がるのは、国会議事堂やくさり橋などと同じ19世紀末から20世紀初頭。その後、ハプスブルグ家も滅び、ハンガリーは共和制国家となった。
ナチスドイツに付いた第二次世界大戦のときにまた大破され、その後大修復。今は国立美術館、歴史博物館、現代美術館、非公開の図書館などとして使われている。
この旅では、内部の見学はしない。
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13世紀、ベーラ4世がブダの丘に首都を移したとき、王宮の北側に「聖母マリア教会」を建てた。
教会は14世紀にゴチック様式で建て直され、15世紀にはハンガリーにルネッサンスを導入したマーチャース1世(1458~90)によって大きな塔が増築された。
この塔はドナウ川からよく見え、王宮の丘のシンボルになっている。その景観は、この夜のナイトクルージングで体験した。今は、「マーチャース教会」と呼ばれている。
大屋根の瓦模様が面白い。
(マーチャーシュ教会)
内部に入って、見学した。祭壇もステンドグラスも美しかった。
(マーチャース教会の祭壇)
(マーチャース教会のステンドグラス)
オスマン帝国の時代にはモスクにされたという。
ハプスブルグの時代、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ皇帝と后妃エリーザベトがここで戴冠式を挙げた。ハンガリー国民はハプスブルグの王には複雑な思いをもったが、美しいエリーザベトは人気があった。エリーザベトもブダペストが好きで、よく訪問したそうだ。
くさり橋のすぐ下流の橋は清楚な白い橋で、「エルジェーベト橋」と名付けられている。
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マーチャース教会の隣には、「漁夫の砦」がある。
砦といっても、王宮などと同時代に造られた見晴らし台だ。その昔、敵襲があり市民がブダの丘に立てこもった時、城壁のこのあたりの防備をドナウ川の漁師組合が受け持ったらしい。それで「漁師の砦」と名付けられたとか。
数個の塔とそれらをつなぐ回廊で構成され、絶好のビューポイントだ。
(漁夫の砦)
(漁夫の砦からの眺望)
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<トラムに乗ってドナウ川沿いを観光>
城バスに乗り、バスを乗り継いで、くさり橋の上流のマルギット島に架かるマルギット橋まで行ってみた。
マルギット橋からは、2番のトラムに乗って、国会議事堂、くさり橋、エルジェーベト橋、自由橋、ベドフィ橋の先まで行き、今度は逆向きのトラムに乗って、エルジェーベト橋まで引き返した。トラムに乗ってドナウ川沿いを車窓観光をしたことになる。
エルジェーベト橋の袂にある「竹林」という和食レストランへ。
ドナウ川に臨むテラス席で、ゆっくり晩飯を食べた。寿司に白ワインがよく合って、とても美味であった。
ゆっくり時を過ごし、そのあと、「ドナウ川ナイトクルーズ」へと向かった。
(つづく)