(王宮の丘のライトアップ)
(つづき)
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<ナイトクルーズ、そしてホテルからの眺望>
エルジェーベト橋の袂の「竹林」で寿司とワインの夕食をとったあと、ドナウ川の岸辺を夜風に吹かれながらくさり橋の方へと歩いて行った。
(くさり橋とマーチャース教会の塔)
「ドナウ川ナイトクルーズ」の乗り場は、くさり橋の袂に見つけた。出発の21時には少し早かったが、船に乗り込む。
クルーズ船のテラス席に腰掛けると、王宮の丘は息をのむほどに荘厳だった。
(王 宮)
日は地平に沈んで、空は限りなく澄んだ濃い青。残光が空の低いあたりを赤く染めている。
漆黒の空になる前、ヨーロッパの空の青は美しい。このひと時の空を見るだけでも、遥々とヨーロッパまで来たかいがあると思えるほどだ。(写真では、その色がうまく出ないが)。
夢中になって、写真を撮り続けた。
21時。遊覧船が出航した。ドナウ川のくさり橋の上流と下流を巡るだけだが、船が水流を切って進み、川の流れの意外な力強さや波の音を真近に感じた。
空は漆黒の闇となり、主役たちがライトアップされて映える。
(くさり橋とマーチャース教会)
(くさり橋と王宮)
これまでヨーロッパのいろんな都市の夜景を見てきた。旅行社のツアーは郊外のホテルに泊まり、夜は出歩かない。だが、ヨーロッパの都市の美しさを味わおうと思えば、ライトアップされた街並みや歴史的建造物を見逃すことはできない。
もちろん、それはディズニーランドの世界とは違う。
パリの、シャンゼリゼのイルミネーションと瀟洒なショーウインドーの輝き。さらにエッフェル塔のライトアップも、人々の心をワクワクと浮き立たせる。パリは歩く人がみな楽しく幸せそうに見える。
フィレンツェのミケランジェロ広場の高台から、アルノ川の向こうにライトアップされたドゥオーモを眺めたとき、ルネッサンスの時代に引き込まれるような気がした。
ウィーンのリング周辺の華やかなライトアップ。
チェコのプラハを流れるヴルタヴァ川は深い闇の底を流れ、川に架かる壮麗なカレル橋の袂から対岸のプラハ城を眺めたとき、まるで中世の夢の中にいる人のような気分になった。
だが、それらに勝るとも劣らず、くさり橋や王宮やマーチャース教会のライトアップは感動的だった。
(川岸の国会議事堂)
十二分に満足して、船を降りた。
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船着き場からインターコンチネンタルホテルはすぐ。
船上から見た景色と、ホテルの5階の高さから眺める景色は、角度が少し違う。
王宮も、マーチャース教会とくさり橋も見飽きることがなく、永遠の時が流れているようだった。
(ホテルから)
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5月30日 今日も快晴
今日はこの旅の最終日。明朝は帰国の飛行機に乗る。
<再び王宮の丘へ>
朝、ホテルを出て、もう一度王宮の丘へ。王宮の丘から、ドナウ川の眺めをもう一度目に焼き付けたかった。
それに、オーソドックスなコースで上がっておきたかった。
(くさり橋)
昨日は地下鉄と城バスでかなり大回りして行ったが、今朝はホテルからくさり橋を歩いて渡り、その先から出ているはずのケーブルカーに乗る。
何しろ昨日は着いたばかりの知らない町。いきなり長い橋を渡ってケーブルカーの駅を見つけ、切符を買って乗るということに不安があった。
(くさり橋を渡る)
くさり橋は、真ん中が車道。両脇が歩行者や自転車用になっていた。
橋のゲートには大きなライオンの像。
ハンガリーは大国によって国の独立を侵害され続けた歴史をもつ。蒙古、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国、ドイツ、ソ連。
だか、もともと勇猛果敢な誇り高い民族。ライオン像に、「もう敵を侵入させない」という気概を感じた。
(くさり橋から国会議事堂を望む)
375mのくさり橋を渡ると、ケーブルカーの駅もすぐ見つかって、王宮の丘へ。意外に簡単で、時間もかからなかった。そういうものだ。しかし、ヨーロッパ旅行では、そういうものではなかったことも、しばしば経験した。
王宮の丘から、早朝のドナウ川とペスト地区の景観をしばらく堪能した。
(王宮の丘から国会議事堂を望む)
また、ケーブルカーで降り、くさり橋を渡って戻った。
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<初代国王イシュトヴァーンの大聖堂>
塩野七海『日本人へⅤ』から
「ゲーテが言ったように『肉体の眼よりも心の眼で見ること』である。それには、短時日の間に何もかも見ようとしないこと。見ながら歩くのではなく、考えながら歩くのだから、訪れた場所の数ならば少なくなることはやむをえない」。
昨日、トラムに乗ってドナウ川に沿って走り、トラムの中からペスト側を観光した。しかし、車窓から眺めるだけでは足りないものもある。
その一つが聖イシュトヴァーン大聖堂。ブダペスト第一の大聖堂だ。
くさり橋の袂から東へわずか数百mの所だから、ショッピング街をウインドショップしながら歩いて行く。
大聖堂前の広場は広々として、心落ち着く空間だった。
大聖堂はいかにも大きく堂々として、色合いも姿もいい。
(聖イシュトヴァーン大聖堂のファーサード)
この大聖堂は、1851年に着工し、1905年に完成した。ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(后妃はエリーザベト)の頃で、国会議事堂などと同じ時代の建造物だ。ブダペストはこの時期に、一気にハンガリー民族の都へと発展した。
(身 廊)
8500人を収容できるという
身廊の正面に、イエス・キリストの磔刑像でも聖母子像でもなく、聖イシュトヴァーンの像が祀られていて、キリスト教徒でなくても少しばかり違和感を覚えた。
イシュトヴァーン1世が自らカソリックの洗礼を受けたのは、マジャールの各部族がそれぞれの祖先神を崇めており、これを一つにまとめるにはキリスト教化しかないと考えたから。そして、AD1000年、7部族を統合してハンガリー王国を建国した。死後、ローマ教皇によって聖人に叙せられる。
初代の王が大聖堂の中心にあることに、ハンガリーの魂が感じられた。
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[ 閑話・脱線 ]
自分の祖先たちが歩んできた道を知り、未来の世代に行く末を託すという心は自然なものである。人も家族も民族も、それぞれの歴史と文化と言語をもつ。しかし、そういう個人や家族や民族の歴史に被害者意識の火を投げ入れると、それはたちまち紙のようにメラメラと燃え上がる。
「ポピュリズム時代のリーダーは、怒りと不安をあおりたてるのを特技にしている」(塩野七海『日本人へⅤ』)。
NATOの一員であるトルコや、NATOとEUの一員であるハンガリーが、プーチンや習近平に追随して、かつての帝国の最大版図と勢力圏を取り戻そうなどと考えないように願う。
EUではドイツが一人勝ちしないことも大切である。NATOやEUがあってこそのドイツである。
互いに手を差し伸べ、支え合わなければ、NATOもEUも加入した意味がない。ロシア圏から離脱しようとするウクライナを他山の石とすべきだ。
世界で、ロシア圏は縮小していっているが、中国圏は膨張し続けている。
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エレベータでドームの展望台に上がってみた。空は真っ青に晴れて、王宮の丘がよく見えた。マーチャース教会の塔も、堂々と聳えている。
(聖イシュトヴァーン大聖堂の展望台から)
大聖堂を出て、大聖堂を正面に見る街路のテラス席で軽い昼食をとった。
(カフェテラスが並ぶ)
現代的なショップやレストランのテラス席が並ぶ向こうに大聖堂があって、絵になる風景だ。
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<ハンガリー人の伝承を伝える騎馬像たち>
大聖堂の脇を立派なアンドラーシ通りが通る。英雄広場まで一直線に延びるこの街路は、パリのシャンゼリゼ通りに比せられる。
終点の英雄広場まで歩くのは遠いので、大路の下を走る地下鉄に乗った。
(英雄広場の記念碑)
英雄広場は市民公園の一角にある。
この記念碑は、聖イシュトヴァーン1世による建国から一千年を記念して建造された建国一千年記念碑。
中央に高さ36mの大円柱。天辺には大天使ガブリエルの像。
その下に、マジャールの祖先である7人の部族長が騎馬姿で建つ。中央には大首長アールバート。聖イシュトヴァーン1世の祖である。
いかにも強そうだ。
(7人の部族長たち)
日本では、この国の国名はハンガリー(Hungary)。この呼称は、遠い昔、ゲルマン人が彼らをトルコ系のオノグル族と混同して呼んだ呼称らしい。本当はオノグルではなく、マジャール人だった。正式の国名はマジャロルサーグだが、彼らの通称でマジャル(Magyar)。これも日本ではマジャールとなっている。
遠い昔、この地は、ローマの属州パンノニアだった。
ローマ帝国の国力が弱まった時、フン族が侵入・支配した。
8世紀にはゲルマンの一族のフランク族が立てたフランク王国の支配下に入った。
だが、フランク王国は分裂して後退し、9世紀にはウラル山脈の東南に起源をもつアジア系の騎馬遊牧民マジャール人がやってきた。彼らが今のオーストリア、南ドイツ、さらにイタリア北部にまで侵攻したことは、ウィーンの項で書いた。
7部族の中の1つがアールバード家で、そこから出たイシュトヴァーンが7部族を従えて、AD1000年に王国を打ち立てた。
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<国立オペラ座に寄る>
陽射しが斜光になった。建物の蔭が濃い。
歩き疲れ、のども渇き、オペラ座のそばのカフェテラスで一休みした。
(カフェテラス)
国立オペラ座の見学ツアーがあるようなので、入り口で申し込んで見学した。
(国立オペラ座)
ウィーンの国立オペラ座に負けてなるものかという気概が感じられる。
一旦、ホテルに戻って、休憩した。
夜はもう一度、王宮の丘に上り、王宮の丘の夜景を眺めて、この旅のフィナーレとする。
(つづく)