( 城門を出る )
騎士団長の居城を出て、昼食をどうしようかと思っていたら、レストランの呼込みのマダムに声をかけられた。
ついて行ったら、ご主人らしい人が待っていて、ソクラトゥス通りを見下ろす良い雰囲気の席に案内された。
白ワインでのどの渇きをいやし、オムレツを食べた。
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< 城壁の外、古戦場を巡る >
聖ヨハネ騎士団は、オスマン帝国との決戦に備えて、現在の旧市街の周囲を、内城壁 ─ 内堀 ─ 外城壁 ─ 外堀と、二重の城壁と堀で囲っていた。
堀は空堀だが、城壁は10mの厚さがあり、また、広い外堀の中には各国騎士団の砦もあって、敵の砲弾や地雷攻撃や総攻撃に耐えられるよう頑強に造られていた。
騎士団が予想したとおり、オスマン帝国軍は海側(軍港側)からの攻撃を避けた。よって、ロードス島攻防戦の主戦場となったのは、町の西側と南側の全面、南側から回った東側の一部、即ち陸側だった。
そのあたりを歩いてみよう。
騎士団長の居城の西、旧市街の北西の角から、2つの城門と堀に架かる2つの橋を渡って、旧市街の外周を巡る道路に出た。
10万の大軍でロードスの町を包囲したオスマン帝国軍は、1522年の8月1日に戦端を切った。
その日以後、連日、町の西と南の外堀の向こうから、外城壁に向けて、大砲と臼砲と地雷による物量にまかせた、すさまじい攻撃が繰り返された。
写真は、町の西側の外堀と外城壁の一部である。その向こうに騎士団長の居城がそびえている。
大砲は空堀のこちら側に並べられ、10mの幅のある外城壁を崩そうと、直径20~30センチの石の砲丸が撃ち込まれた。
さらに、空堀の下をくぐって坑道が掘られ、外城壁の下に地雷が仕掛けられた。坑道が掘られている地点がわかれば、計算して逆方向から坑道を掘り地雷を仕掛けて敵の坑道をつぶす。だが、人海戦術で掘る坑道の数が多くなると、その発見も対応も困難になった。
大砲と地雷攻撃の間隙を縫って、オスマンの軍勢が殺到し、城壁に取り付き、攀じ登ってきた。
そうした攻撃が毎日繰り返され、1か月半近くになった頃のことを、『ロードス島攻防記』は次のように描いている。
「9月も半ばとなると、トルコ軍の撃ってくる砲丸は日に100発を越え、臼砲は、1日平均12砲が、イタリア、プロヴァンス、イギリス、アラゴンの各城壁に落下する。防衛軍の死傷者の数も、トルコに比べれば少ないにしても、じわじわと数を増しつつあった。アラゴンとイギリス城壁前の外壁の破損はとくにひどく、もはやそこに守りの兵をおくことは不可能になっていた」。(同)
イタリア、プロヴァンスの守備位置は、商港 (コマーシャル・ハーバー)に続く町の東側から南側にかけてのあたり、イギリス、アラゴンの守備位置は、それに続く町の南側と西側の一帯だ。このあたりが一番の主戦場となった。
「それでも堀の中に張り出している砦は5つとも健在で、城壁にとりつこうとする敵兵を、騎士団独特の新兵器を駆使してそぎ落とす。新兵器とは、… 原始的な火炎放射器と言ってよいものだった。」。(同)
9月も下旬に差し掛かったころ、敵の攻撃は一挙に激しさを増した。
「あの夜から始まった3日間、ロードスの城壁は、これまでついぞ見なかったほどの、砲弾と地雷を浴びることになったのである」
「コス島とポドルㇺの基地を守っていた騎士たちも、船を駆って様子を見に来た。海上から眺めると、ロードスは、まるで海の上に突如あらわれた火山ででもあるかのように、煙と爆音でおおわれていた、と彼らは言った。この3日間を通して、1500発の弾丸が撃ち込まれ、12の地雷が爆発した。
誰もが、砲撃の終わった後に襲ってくる、トルコ軍の総攻撃を予想した」。
「西欧最強の君主とされるカルロスでさえ、投入できる戦力が2万という時代、10万を軽く集められるトルコの主として、はじめて可能な戦法であった」。(同)
カルロスとは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世、スペイン国王としてはカルロス1世である。大航海時代の真っただ中、新大陸からアジアにまたがる帝国を築き、「太陽の沈まない国」と称せられた。
9月24日、総攻撃は、非正規軍団(オスマン帝国支配下のキリスト教徒の軍勢)の総攻撃に始まり、これを撃退すると、休む間もなくオスマン帝国の正規軍団5万の攻撃を迎え撃たねばならなかった。
この戦いで、ついに砦や城壁上の白兵戦となり、イギリス砦とスペイン砦の一帯の防衛が崩れ始めた。
とみるや、オスマン帝国の最精鋭部隊である1万5千のイェニチェリ軍団が投じられた。
「その日の戦闘は、6時間がすぎてようやく終わった。ロードスの城壁は、ついに持ちこたえたのである。敵兵が引き上げた後の堀は、死体で埋まっていた。トルコ軍の損失は、死者だけでも1万といわれる。防衛側は、死者350、負傷者は500に達した。
まだ陽光を浴びている堀の中では、トルコ兵たちが、死者や負傷者を運び出す作業をはじめていた。防衛側からは、それに対し、矢一本射られなかった。城壁の上でも砦の上でも、激闘を終えたばかりの騎士や兵たちが、死んだように横たわったままの姿で動こうとしなかった。その中の誰一人、勝利の喜びを叫ぶ者はいなかった」。(同)
だが、スレイマンにとって、これは想定外の結果だった。
用意周到に計算された2か月に渡る連日の攻撃と、その上での3波の総攻撃によって決着がつくはずだった。だが、そうはならなかったのだ。
それでも、スレイマンは、不退転の意志を持って、その後も一層激しい攻撃を続けた。
砲丸は夜の間もさく裂しつづけ、城壁の修復を行うことは不可能になってきていた。さらに地雷も爆発した。
2回目、3回目と総攻撃も繰り返され、もはやその回数は、騎士団の誰も覚えられないほどになった。人海戦術によって外堀は埋められ、砲丸や地雷によって外城壁は破壊されつづけた。
「アントニオ(主人公の騎士)は傷も治り、11月のはじめにはすでに戦線に復帰していた。戦線にもどった若者の見たものは、いまや半ば崩れた外壁に陣どって、そこから砲撃を加えてくるようになった敵であった」。(同)
11月には外城壁も制圧され、そこに大砲が据えられていたのだ。
それでも、聖ヨハネ騎士団の騎士たちとその配下の兵士、そしてギリシャ人の志願兵たちは不屈に戦い続け、町の住民たちも町の防衛のために働いた。
攻撃開始から5か月目の12月に入ると、スレイマンから、最初はギリシャ人住民に向けて降伏せよとの脅しの矢文があり、次には騎士団長あてに再三に渡って降伏要請の文書が届けられ、使者が送られてきた。
騎士団長は拒否を貫いたが、12月の下旬になって、島民代表も入れた騎士団幹部の会議を開き、ついに降伏を決定した。
このとき、騎士600人中、生き残っていた騎士は180人だったといわれる。
しかし、何よりも島民は今の有利な条件による降伏を望んだ。守る側は時間とともに消耗していき、戦いに希望はなく、特に異教徒との戦いの最後は、残虐な殺りくと奴隷として売られる運命が待つのがこの時代のならいであった。
過去のオスマン帝国との戦いで、敗者の側がこれほど有利な条件で降伏したことはなかっただろう。
「スレイマンは、開城するならば、次の条件厳守を約束する、と言ってきたのである。
1 騎士団は、持って出たいと思うものすべてを、聖遺物も軍旗も聖像もすべて、島外にもち出す権利を有する。(「ヨハネ騎士団」という組織の保障)
2 騎士たちは、自らの武具と所持品ともども、島外に退去する権利を有する。(武装解除せず名誉ある撤退)
3 これらの運搬に騎士団所有の船だけでは不足の場合、トルコ海軍は、必要なだけの船を提供する。(退去に必要な援助の申し出)
4 島外退去の準備期間として、12日間を認める。(休戦)
5 その期間中、トルコ全軍は、戦線より1マイル(1609m)後退することを約束する。(安全の保障)
6 この期間中、ロードス以外の騎士団の基地をすべて、開城する。(コス島等の出先の扱い)
7 ロードス住民の中で、島を去りたいと希望する者には、向こう3年間に限り、自由に退去を許す。(住民の生命・進退の自由保障)
8 反対に残留を決めたものには、向こう5年間にわたって、トルコ領下の非トルコ人の義務となっている、年貢金支払いを免除する。(住民に与える優遇措置)
9 島に残るキリスト教徒には、完全な信教の自由を保障する。」 (住民の信教の自由の保障)
降伏文書の調印は12月25日に行われた。
翌年1月1日、生き残った騎士たちは、島を脱出することを望んだ5千人のギリシャ人とともに、島を去った。
このあと、オスマン帝国による統治と、それに続くイタリア支配からロードス島が解放されるのは、400年以上のちの1947年のことであった。
※ エーゲ海の小さな島の城塞に立て籠もって、当時最強の帝国の大軍を迎え撃った遠い昔のロードス島の戦いのことを書きながら、頭の片隅で、香港市民の闘いがずっと気になった。香港に自由を。そして、台湾に独立を。
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< 城壁の中・旧市街に戻る >
歩き疲れ、町の南側の門をくぐって、 もう一度、旧市街の中に戻った。
どこか涼しいカフェでひと休みして、美味しいギリシャコーヒーを飲み、元気を取り戻したら、ロードスのアクロポリスに行ってみよう。
( つづく )
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