( サグレス岬の灯台 )
< サグレス要塞のある岬の尖端へ向かう >
サン・ヴィセンテ岬発15時5分のバスで、レブプリカ広場に戻った。
広場からサグレス岬へ向かう。岬にはサグレス要塞がある。そこは、エンリケ航海王子が世界初の航海学校を開設したところである。
『深夜特急』の主人公は、日の暮れたレブプリカ広場にバスで到着し、この方向に行けばホテルがあると判断して、サグレス要塞への暗い道を歩いた。しかし、行けども行けども人家はなく、野良犬の群れに出会い、引き返した。
『深夜特急』を読んでここまでやって来た若者たちは、昼、この道を歩いた。向こうに要塞の城壁が見えているのに、行けども行けども近づかない。遠く感じた、と多くの若者がブログに書いている。それでも、どんどん歩けば、20分くらいで城門に着くと。
若者たちがどんどん歩いて20分なら、30分歩くことを覚悟すれば、まちがいなく行き着くだろうと、歩き始めた。
若者たちのブログどおり、道は一本道になり、遠くに城壁と城門らしいものが見えてきた。
暑い。なにしろ、ここの気候は、北アフリカだ。日本を出て5日目。旅の疲れが蓄積している。
自家用車が横をゆっくりと走り抜けた。一本道だから、同じ目的地に行くヨーロッパの旅行者だろう。手を挙げたら、停まって乗せてくれるだろうか??
(要塞へ向かう一本道)
蜃気楼のように、走る人が現れた。道路を走らず、露岩と雑草ばかりの荒れ地を走って、体を鍛えようというストイックな人がいるのも、ヨーロッパである。
(荒れ地を走る人)
(サグレス要塞の城門)
「岬がせまくなるままに進むと、やがてそのさきに、城門があった。海への門のように見える」 (『南蛮のみち』)。
城門の上に、かなり風化しているが、ポルトガル国の紋章らしきものが見えた。
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< サグレス要塞の見晴台に立つ >
「 (城門を) くぐると、岬の尖端で、ポルトガル語でいうポンテである。突角」 (同)。
くぐった城門の上は見晴台になっていて、ポルトガル国旗が翻っている。
ポルトガル国旗の由来については、多少の異説もあるが、旗の緑は誠実と希望を、赤は新世界発見のため大海原に乗り出したポルトガル人の血を表す。中央の紋章は、天測機の中に、イスラム勢から奪い返した7つの城と、打ち破った敵の5つの盾が描かれている、とされる。
まず、高い所から全体を展望してみようと、見晴台に上がった。
( 見晴台 )
良く晴れ、「突角 (ポンテ) も、板のようにひらたく」、360度の広大な景色が広がっていた。
「大学のキャンパスほどの広さがあるだろう」 (同)と司馬遼太郎は書いているが、「大学」とは、この場合、各学部がそろった総合大学のことである。相当に広い。
近くには、小さなチャペルがある。兵営のような建物もある。
( チャペル )
地面につくられた直径43mの風向盤がある。
( 風向盤 )
やや遠く、海に近い所に、灯台が建つ。近く見えるが、多分、歩けば、城門が遠かったように、遠いに違いない。
( 灯台 )
その向こうは、大西洋。
西の方を遥かに望めば、入江をはさんで、先ほど行ったサン・ヴィセンテ岬が見える。先端に灯台がある。
( サン・ヴィセント岬を望む )
「… 台上にのぼりつめると、あやうく風に吹きとばされそうになった。その高所からあらためて岬の地形を見、天測の練習に仰いだであろう大きな空を見たとき、ここにはたしかに世界最初の航海学校があった、というゆるがぬ実感を得た。
エンリケ航海王子関係の原史料がほとんど消滅しているために、サグレス岬に設けられた世界最初の航海学校というのも、じつは伝説にすぎない、という説があるのだが、おそらく論者はこのサグレス岬にきて、ここに立ったことがないのではないか。
ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖にはべつの潮流が流れている。さらに、ここにあっては風に活力がある。生きもののようにたえず変化しており、そのつど、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。ここには水もない。水ははるかに運んできて、節水して使わねばならない。そばに、練習用の船を繋船しておく入江もある。この突角 (ポンテ) は、自然地理的でなく、どこを見てもかつての人の営みがこびりついている。ここに航海学校がじつは無かったなどというのは、机上のさかしらのようにおもえてくるのである」 (『南蛮のみち』)。
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< 岬の縁に沿ってサグレス要塞の構内を歩く >
見晴台を降りて、ちょっとためらったが、やはり歩き始めた。城門までやってくるのにかなり歩き、また同じ道を帰らねばならないが、ここまで遥々と来た以上、灯台のその先の海ぎわまで自分の足で歩き、そこにどんな光景があるのかを確かめておきたかった。
やはり、遠かった。
露頭した岩角がゴツゴツし、見たこともない雑草がへばりつくように生えている。
( サグレス岬の灯台 )
灯台までやって来ると、もう少し先に、大西洋に落ち込む断崖があった。
城壁の一部が残り、錆びた大砲が海に臨んでいる。
( 大西洋 )
打ち寄せる波の音を耳にしながら、さらに、断崖の縁をぐるっと、半円を描くように歩いた。
賽の河原の石積みのように、或いは、山のケルンのように、一面に小石が積まれていた。どういう人たちが、どんな思いで、積んだのだろう。
その向こうにサン・ヴィセンテ岬が見える。望遠で撮ると、灯台がくっきりと見え、なかなかの風情だ。
( 賽の河原の石積み )
( サン・ヴィセンテ岬の灯台を望む )
岬の縁をぐるっと巡って、元の城門付近に戻ってきた。よく歩いた。
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< エンリケの悲哀 >
小さなチャペルに入って、ベンチに座り、一休みする。
エンリケ王子も、この小さなチャペルで、日に焼け、皺の刻まれた額を垂れて、一人、祈っただろうか?? ………
国旗の赤の色や紋章からもわかるが、大航海時代は、ポルトガルの歴史において最も輝いた時代であり、その時代を切り開いたエンリケ航海王子は、ポルトガルの誇りであり、英雄なのだ。
だが、人は生きている限り、喜びのときはほんの一瞬で、その生涯の多くは悪戦苦闘の連続だ。あのエンリケであろうと、それは同じである。取り返しのつかない失敗もするし、後悔に苛まれることもあったはずだ。しかも、悔いや悲哀は、齢を重ねるにつれて重くのしかかり、心に一層深く刻まれていく。
1437年、エンリケ44歳のとき、彼は、周囲の反対を押し切って、軍を率い、北アフリカのイスラム勢が根城とする町タンジール (タンジェ) に遠征し、攻撃した。だが、戦いは完敗に終わり、大きな犠牲を払う。何よりも、弟フェルナンドが捕虜になった。
エンリケは周囲から非難された。エンリケの戦闘指揮能力について、疑問が出された。
途方もない身代金が要求されてきた。フェルナンド王子からは、交渉に応じるな。拒否せよと言ってくる。エンリケは ━━━ 応じなかった。弟フェルナンドは捕虜のまま6年後に死んだ。
…… あのとき、自分の命を賭して行動していたら、フェルナンドを助けられたかもしれない。自分は臆病だった。…… 異教徒と取引したと非難されようと、どんなに犠牲を払っても、身代金を工面すべきだった。まだ若い弟を見殺しにしてしまった……。
事実、エンリケは、生涯を通じてキリスト騎士団の団長だったが、この事件以後、2度と、自身が戦いの指揮を執ることはなかった。
後悔は歳月によって風化されることはない。日中、人々を指揮し、忙しく立ち働いているときは忘れていても、夜になると、心の深い闇の底から浮かび上がってきて、彼を苦しめ、一人、眠られない夜を過ごすことになる。
人は一人で耐え、祈るしかないこともある。
( チャペル )
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< エンリケの愛 >
エンリケ航海王子に愛人がいた、という伝説もある。
例えば、NHK・BSに『一本の道』という番組がある。NHKのアナウンサーが、現地ガイドと二人で、「一本の古道」を何日もかけて歩く、という旅番組である。タレントを起用せず、若いアナウンサーが旅をするのが新鮮だった。そのシリーズの中に、サグレス岬を目指して歩く旅があった。
途中、ガイドは、「寄り道したいところがある」と言って、道を迂回した。
寒村に行き着いた。そのなかの1軒の石積みの小さな家の前で、ガイドは言った。「エンリケ航海王子は、この家の女性に逢うために、サグレスから馬で通っていたという話があるんだ。真偽は不明だけどね」。
私は、テレビを見ながら、「それはないだろう」と思った。キリスト教騎士団の騎士は、神職と同じである。日常は法衣 (ロープ) を着ているが、一旦、異教徒との間に事起これば、甲冑に身を固めて出撃する。「(エンリケは、) 女性を近づけず、航海というただ一つの目的に熱中した」 と、司馬遼太郎も書いているではないか。
だが …… 、と思った。どこかのお姫様との物語だけが愛ではない。
エンリケが 「にぎやかな宮廷を去り、風と波の音しかきこえないこのサグレス岬にきて家を建て」(同) 、航海学校の開設に向けて始動したのは、まだ23歳のときであった。…… それから43年間。66歳で生涯を閉じるまで、一度も女性を愛したことがなかっただろうか??
それが、先ほどの村の人かどうかはわからない。しかし、伝説は真実を含むものだ。
人生のある時期、エンリケは、サグレス岬から馬で行けるどこかの村に通っていたかもしれない。それは自然なことではなかろうか。
その人は、エンリケにとって、風の音や波の音と同じ次元のものだったろう……と思う。
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< 「サグレス岬まできてみると…」 >
( サグレス村の白い雲 )
夕方、晩飯を食べるために、ホテルから10分ほどのところにあるレストランへ向かった。
夕暮れの空に、飛行機雲の残りかもしれないが、本当に久しぶりに白い雲を見た。
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司馬遼太郎の旅にはスタッフが同行している。その一人が、司馬の紀行文に挿絵を描くために同行している須田画伯である。
司馬遼太郎の『南蛮のみち』は、以下のようなサグレス岬の印象的な場面で終わる。
「 (須田画伯は、) 子どものように退屈してきたのか、うつむいてあちこち地面を移動して歩き、小石をひろいはじめた」。
「ひろいつづけてポケットがいっぱいになったころ、こんどはもとの地面にもどすべく一つずつ落としはじめた。『ヨーロッパが減るといけないから』というのが、理由だった」。
「画伯の実感は私にも伝わった。16世紀以来、私どもの文化を刺激しつづけてくれたヨーロッパは、それが尽きるサグレス岬まできてみると、もう地面はこれっぽちしかないのかというかぼそい思いがしてくる。」
「私ども非ヨーロッパ人は、平衡をもった尊敬をこめて、この大陸に興り、いま沸騰期を過ぎつつある文明を大切にあつかわねばならないが、画伯もその気分がつよいのであろう。ともかくも、画伯は小石を捨てた。私どもの旅は、小石がサグレス岬のせまい地面に落ちたときにおわった」。
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明日は、リスボンをさらに北へ、地方の小さな町トマールまで、鉄道の旅をする。
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