ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

青春のハイデルベルグ…ロマンチック街道と南ドイツの旅(2)

2019年09月26日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

ハイデルベルグの古城 >

 ハイデルベルグは大学町である。

 だが、この町を訪れる旅行者は、大学よりも、ネッカー川の流れ、橋、川沿いに細長く伸びる旧市街、そして丘の上の古城、これらによって構成された美しい景観に感動する。

 ハイデルベルグの歴史をたずねれば、一番古い住民はホモ・ハイデルベルゲンシス。ヨーロッパで発見された最古の原人であるが、これは異次元の話。

 BC500年ごろ、このあたりには、土器と青銅器をもつケルト人の村があったようだ。彼らは川向うから侵攻してくるゲルマン人に備えて、二重の壁を巡らしていたらしい。

 AD1世紀にはローマ軍がライン川を越えてネッカー川まで侵出し、ネッカー川に橋を架け、その先に城塞を築いて、ゲルマン人に備えた。そこには、たぶん、ローマ軍と共存するケルト系の軍隊もいただろう。

 西ローマ帝国が滅び(476年)、ゲルマン人の各部族が西ヨーロッパに侵入してカオスの状態が生じた。やがてフランク族が勢力を増し、このあたりも制圧した。

 フランク王国はキリスト教化し、今のフランス、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリアの原型をつくった。

 12世紀に、神聖ローマ帝国の皇帝が、ライン川一帯を統治するプファルツ伯(ライン宮中伯)を置いた。

 13世紀以後、ヴィッテルスバッハ家がプファルツ伯となってこの一帯を統治し、ネッカー川を見下ろす丘の上に本格的な城塞を築いた。そしてその麓には、城壁で囲った町がつくられる。ただし、この時代のヨーロッパの町は、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、パリなどを除けば、せいぜい人口2~5千人規模であったらしい。町とは、もちろん、商工業活動の行われる区域であり、そこの主は、商人たちである。

 ( ハイデルベルグ城址 )

 1356年にプファルツ伯は6選帝侯の1人となり、1386年には神聖ローマ帝国で3番目の大学を創設した。現在のドイツで、最古の大学である。

 大学ができると、町は急速に発展した。それで町の拡張が行われ(城壁が広がって)、現在の旧市街の範囲になった。

 17世紀の後半、プファルツ選帝伯のヴィッテルスバッハ家が断絶し、その相続権を主張してフランスのルイ14世が大軍を派遣したため、プファルツ継承戦争が起こった。時代はすでに大砲の時代だったから、フランス軍によって城は破壊されてしまった。フランス軍が去った後、城の修復が行われたが、山の上の城は居住性が悪い上に、大砲の時代には無用の長物で、結局、廃城となった。

 大学は19世紀に再建された。

 また、そのころ起こったドイツ・ロマン主義の運動の中で、廃城と美しいネッカー川の絵のような景観が愛され、多くの著名な詩人・文学者が訪れる町になった。 

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ハイデルベルグ城址に上る >

 ハイデルベルグ城は山城である。歴史好きなら、そこに至る険峻なルートを登ってみるべきなのだが、山の裏側からケーブルカーで簡単に上がった。

 ケーブルカーを降りると、そこは城の裏手で、城山公園である。  

 広場を横切り、ネッカー川の谷に向かってかろうじて残っている城の建物の中を抜けると、テラスに出た。そこから、ハイデルベルグの町とネッカー川が一望できた。

 ハイデルベルグとは、すなわちこの城のテラスからの眺めであろう。そう言って良いほどの美しい景色である。(→冒頭の写真)。

 

  ( アルテ橋 )

 旧市街の中心部と対岸との間に架かる橋は「アルテ橋」。古い橋の意だが、ドイツ語の「アルテ」は単に古いというだけでなく、ニュアンスとして懐旧の想いが込められているそうだ。

  学生時代に文学部の授業で、ロマンチシズム・浪漫主義、ロマン風、ロマンチックとは、現実でないものにあこがれる気持ちをいう、とならった。

 懐旧の念もそうだが、例えば、山のあなたの空遠くの異郷にあこがれる気持ち。逆に、異郷にある旅人が遠い故郷を思う気持ち。現実にはありえないような美しい恋にあこがれる気持ち。古代、或いは中世の歴史にあこがれる気持ち。民族に伝わる伝説・伝承への遥かなる思い …… 小説はノベル、物語はロマンス。

 対岸の邸宅風の家々も美しい。

 1995年の旅のとき、あの中の1軒は、当時の女子テニスの世界チャンピオン、シュテフィ・グラフ選手の別荘だと教えられた。やはり、億万長者の邸宅なのだ。  

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旧市街を歩く

 ドイツで最も由緒ある大学・ハイデルベルグ大学 … と言われれば、日本人なら誰しも、樹木の繁る林があり、ロマンチックな時計塔や校舎のある、広くて美しいキャンパスを想像する。だから、「これがハイデルベルグ大学の建物です」と言われて指さされた建物を見れば、相当にがっかりする。

 旧市街の商店街の中に、ちょっとした邸宅風の建物が2棟、向かい合って建っているだけだ。学生たちが建物の門から中に入り、また、出てくる。

 立派な建物であることに違いはないが、森も、背の高い古木に囲まれたグランドも、マリア像の立つロマンチックな校舎も、時計塔の聳える図書館もない。平凡すぎて、写真の撮りようもないくらいだ。

 この2つの校舎以外にも、ハイデルベルグの町の中のあちこちに校舎があり、この2棟が大学のシンボル的な建物だそうだ。

 何だ!! タコ足大学じゃないか、と思う。だが、西洋の伝統のある大学はこういうものらしい。

 ヨーロッパにも、東京帝大とか、京都帝大とか、北海道大学とか、早稲田大学とか、同志社大学とか、ああいう立派なキャンバスをもった大学もあるが、それはずっと後に創立された新興大学なのだそうだ。

 

  ( 旧市街遠望 )

 歩行者天国の通りから大学の建物を見たら、あとはもうあまり興味をもつようなものはない。

 ガイドは、2、3の大きな建物や、学生牢や、学生酒場の前で説明する。丘の上のお城では、拷問道具の説明やら、ワインの大樽の説明もあった。そういう話を観光客は喜ぶのかもしれないが、私にはどうでもよいことのように思える。

 学生牢は、街の中の小屋のような小さな建物で、机や壁には所狭しと自分の名前や、家紋や、自画像などの落書きが書かれていた。酔っ払って街の中で暴れたり、学生同士で決闘したりしてここに入れられたが、そういう若き日のヤンチャは、学生としての誇り、家門の誉れだったようだ。勇気、騎士的・貴族的精神、バンカラで放埓の気風が支配していたのだろう。青春を謳歌していたのだ。バンカラは、浪漫主義の一種である。

 私の生まれた岡山市には、第六高等学校(六高)があった。旧制高等学校(今の大学・教養課程)の生徒は、破れて(わざと破いて)生卵でテカテカ光らせた学生帽、腰には汚れた手拭いをぶら下げ、高下駄を履いて、手には哲学書を持ち、放吟して歩いた。しかし、彼らも大学(帝大)に入ると、帽子は角帽もりりしく、学生服はいつも清潔で、ズボンには折り目がつき、態度も話し方もジェントルマンになったそうだ。庶民は、そういう生徒・学生をわが町の誇りとして受け入れていた。

 旧市街をざっと歩いて、計2時間ほどでハイデルベルグ観光は終わった。これから、途中で2カ所に寄りながら、ローテンブルグへと向かう。

 まさにピンポイント観光で、はい、次へ、はい、次へと、次から次へと案内し、満腹感をもって帰ってもらうのが、旅行社企画のツアーのやり方である。参加者も、「ハイデルベルグ? 行ったよ」。「ローテンブルグ? 行ったよ」、「フランス? 行ったよ」、「スペイン? 行ったよ」と自慢げである。

 本当は少なくとも1日、ここで過ごしたい。そして、アルテ橋を渡り、その向こう岸から、ネッカー川の流れとアルテ橋を手前に、その後ろに旧市街、その上にハイデルベルグ城を配した写真を撮りたい。

 橋を渡った向こう岸の山の中腹に散歩道がある。「哲学者の径」と言われ、多くの文人、哲学者に愛された。その小道を歩いて、ネッカー川の美しい景観を眺めたい。

 半日、ネッカー川の遊覧船に乗って川を遡り、両岸の美しい秋色の景色を味わいたい。

 そして、夜は、ライトアップされたハイデルベルグ城の写真を撮りたい。

 最低限、そういうことを経験して、「ハイデルベルグに行きました」と言えるのではないだろうかと思う。

 とまあ、そういう思いを残しながら、観光バスに乗った。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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