(ミュンヘンの街のオシャレな看板)
<バイエルン王家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿>
ミュンヘンの中心部から北西へ約10キロほどのところに、バイエルン王国を統治したヴィッテルスバッハ家の夏の離宮、ニンフェンブルグ宮殿がある。
夏の離宮と言ってもアルプスの麓ではない。首都の郊外である。
ハプスブルグ家の夏の離宮であるシェーンブルン宮殿も、ウィーンの都心を少し外れただけの郊外だった。避暑しなければならないほどむし暑い夏ではないのだろう。
このツアーでは、宮殿内の見学はなし。広大な庭園を歩いた。
観光資源としてのこの離宮は、バイエルン州の中ではノイシュヴァンシュタイン城に次いで多くの観光客が訪れるらしい。欧米系の観光客にとって、バイエルン王家の宮殿や庭園は興味深いのであろう。
ちなみに、所有者は今もヴィッテルスバッハ家の当主だそうだ。
今日は日曜日。時刻は夕方である。この時間は、観光客だけでなく、若いミュンヘン市民のデートの場であり、子ども連れの家族の憩いの場にもなっているようだった。
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<イーザル川のほとりの小さな修道院>
紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)によると、「バイエルン」という名の起源は、ゲルマン民族の1部族、『バイウァリイ族』に由来するそうだ。
ゲルマン民族の大移動のときにこの地方に定着した。
7世紀の末頃までには、フランク王国の傘下に組み込まれていた。
「ゲルマンの諸部族を支配下におさめようとするフランク王国の動きは、片や軍事力の行使、片やキリスト教の布教という2つの政策が車の両輪のようにして推し進められ、『ゲルマンの使徒』と呼ばれたボニファティウスなどがフランク王国の意を受けて布教に活躍した」 (同上)。
フランク王国は、新たに支配した地方の要所に、信頼できる部下を「伯(爵)」として配置した。或いはまた、司教領主を置いてその地を統治させた。
この旅で訪ねた幾つかの都市は、司教領主を起源としていた。彼らは軍事力をもち、異教徒(異民族)の襲来があれば自ら兵を率いて戦い、徴税権も与えられていた。
「ボニファティウス」??
ウィキペディアで「聖ボニファティウス」を調べてみた。百科事典を引くように調べることができる。まことに便利な世の中だ。
719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。主に、ゲルマニアのキリスト教化を進めたが、754年に北海沿岸のフリースラントで宣教中、在地の部族に殺された。死後、聖人とされ、「ドイツの守護聖人」となった。
ゲルマニアにおける彼の活動は、フランク王国、特にカロリング家の助力が大きかったらしい。
例えば、トゥール・ポワティエの戦いで歴史上有名なカール・マルテルは、740年にフライジング、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教としている。
このうち、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグは、2012年に「ドナウ川の旅」で訪ねたが、まだブログに書いていない。
それはさておき、カール・マルテルが寄進した4つの司教座のうちの最初のフライジング大聖堂のある町は、ミュンヘンからイーザル川沿いに北へ30キロほど行った、ミュンヘン空港のあたりにある。ただし、その頃、ミュンヘンはまだ影も形もないのだが。
聖ボニファティウスは、このフライジングを基点にして、バイエルンの各地に修道院を建てていった。
その修道院の分院が、フライジングから南へ約30キロ、イザール川の急流の河畔、即ち、今のミュンヘンの地に建てられた。分院のそばには、ごく小さな集落が門前町のように存在していただろう。
「そのころ、ミュンヘン一帯は、鬱蒼たる森林に僧院が立つ教会領であった」(『旅名人ブックス ドイツ・バイエルン州』)。
ミュンヘンの名は『Monchen 修道士たち』に由来する。
今もミュンヘン市の紋章は、「ミュンヘンの小坊主」である。かわいい僧衣の少年が、両手を広げ、左手には聖書らしきものを掲げている。一方、右手は何かを指さしているように見えるが、現代のミュンヘン市民は「あらっ。見えないの?? ビールを持っているのよ!!」と言うそうだ。
この8世紀の小さな教会と集落が、今では人口123万人の大都市ミュンヘンに発展した。
その礎を築いたのは ── ハインリッヒ獅子公という人物だった。
話は一挙に400年も進んで、12世紀後半、あの「赤ひげ(バルバロッサ)皇帝」フリードリッヒ1世の時代だった。
ロマンチック街道を旅して訪ねた中世の町で、何度も「赤ひげ皇帝」の名が出てきた。12世紀という時代は、「赤ひげ皇帝」やハインリッヒ獅子公を必要とする時代だったのだろう。
少し本筋をそれる。
「赤ひげ」と聞くと、髭むじゃののやたらに強い大男を想像するが、どうも少しイメージが違うようだ。
菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)によると、古い伝記に、「四肢は均整が取れ、胸板は力強く、身体は締まり、男らしかった」とあるが、続いて、「 顔は整い、物静かな表情で、どんな激しい感情の動きのなかでも傍から見ると微笑んでいるように見えた」とあり、さらに「波打つ頭髪と髭は赤みがかったブロンドで、目は明るく輝き」となる。
感情的にならず、物静かで、しかも、明るく、男らしかったのだ。最近の「歴女」が好む信長や土方歳三のようなどこか陰のあるタイプではない。あえて言えば、伊達政宗に近いかも。
話は12世紀に戻る。当時、フライジングの司教領主は、イーザル川に橋を架け、橋に関所を作り、ここを通る塩、その他の商品に通行税を掛けて多大の収入を得ていた。
この時代、塩は「白い黄金」と呼ばれる貴重品だった。食卓の味付けだけでなく、肉、魚、その他の食材の保存のために大量に使われ、高値で取引された。
南ドイツのアルプス山麓から良質な岩塩が採掘された。ミュンヘンからそう遠くないオーストリアのザルツブルグ。「ザルツ」は「ソールト」で塩のことだ。塩の集積地として発展した町である。ここも、司教領主だ。
採掘された岩塩は製塩され、荷馬車や筏に積み込まれて、陸路や水路で北上し、ドイツの各地に売られていった。
ドイツ北方のザクセンに領地をもつヴェルフ家のハインリッヒ獅子公は、「赤ひげ皇帝」の母方の従兄弟だった。ただし、ヴェルフ家と、「赤ひげ」のシュタウフェン家は、皇帝位をめぐって宿敵の関係でもあった。
しかし、「赤ひげ皇帝」は、南のバイエルンを、もともとの領主だった従兄弟のハインリッヒ獅子公に返還されるよう取り計らった。その結果、ハインリッヒ獅子公は、ザクセンとバイエルンを領土として持つ大貴族となった。
当時の皇帝は、ドイツ王で、かつ、イタリア王だ。ドイツの諸貴族たちも、ローマの教皇も、赤ひげ皇帝に敬意を払ったが、(教皇権からの独立は重要なのだ)、ミラノを中心とした北イタリアのロンバルディア都市同盟だけが皇帝に従順でなかった。そのため、赤ひげはドイツの領主たちに大号令をかけ、大軍を率いて、何回も遠征した。しかし、都市国家同盟はねばり強く、不屈だった。
領地を安どされる代わりに皇帝の命あるときには馳せ参じる。それが、封建関係である。大貴族のハインリッヒ獅子公も皇帝の下に馳せ参じ、遠征に加わった。2人はそういう関係だったのだ。
ハインリッヒ獅子公は時代を先んじた男で、赤ひげ皇帝のお蔭でバイエルンの領主になると、塩に目を付けた。
彼は軍を差し向けて、フライジング司教の橋を壊してしまった。
(司教)「何をする!! 罰当たりめ!! 司教座の橋だぞ」。(獅子公)「イザール川は、皇帝が認めたオレの領地を流れる川だ!!」…… まあ、そういう言い争いぐらいはあったかも知れない。橋は誰のものか?? 川は誰のものか?? まさにそういう争いがヨーロッパ中世である。
ハインリッヒ獅子公は、自分の所領内の小さな修道院のあるイーザル川に目を付けていたのだ。そこに、しっかりした新しい橋を架け、イーザル川に架かる残りの橋も全部壊してしまった。
それで、アルプス山麓で産出された岩塩はみな、「小坊主」こと、ミュンヘンに架けられた橋を通って、ドイツ各地に向かうことになった。
彼は橋のたもとに関所を設け、倉庫群を作り、通行税や倉庫税を徴税したが、それだけでなく、塩の仲買人や商人、手工業者も呼び寄せて、市を開設し、町をつくっていったのだ。
領主間に法はない。力がものを言う時代だ。ただ、本当に力のある皇帝は、秩序を作ろうと調停に入る。
赤ひげ皇帝は、フライジングの司教に税金の一部を渡すことを引換えに、ハインリッヒ獅子公に徴税権や貨幣鋳造権を認めてやった。獅子公はかつて司教が得ていた税金分ぐらいは十分に出してやっただろう。
ミュンヘンを通る塩は3日間、ミュンヘンの倉庫に保管され、まずミュンヘンで取引しなければならないと定めたから、商人や仲買人たちが競ってミュンヘンに集まった。
町の形はどんどん整えられ、やがて城壁で囲まれた都市となった。
ハインリッヒ獅子公は、北ドイツのザクセン公としてはハンザ都市リューベックを建設している。
ミュンヘンとリューベックという後世に大発展を遂げた都市を建設した上、さらに領土も広げ、ついに赤ひげ皇帝と対立するようになり、最後は皇帝に追放された。イギリスで亡命生活を送ったらしい。
なかなかの男と思って目をかけてやったのに、皇帝もつらい仕事なのだ。
ただ、イタリア大遠征を繰り返す赤ひげ皇帝についていけず、オレがロンバルディア都市同盟を相手にしたらもっとうまくやるよと、商売上手な獅子公は考えたかもしれない。
しかし、ドイツ史において、赤ひげ皇帝が皇帝らしい皇帝であったこともまちがいない。(中国の専制皇帝とは意味が違う)。
1180年、赤ひげ皇帝はハインリッヒ獅子公のあと、ヴィッテルスバッハ家をバイエルン大公に封じた。
以後、バイエルンは、1806年に大公国から王国となり、第1次大戦後の1918年に王制が廃止されるまで、700年余りをヴィッテルスバッハ家が統治した。
なお、赤ひげ皇帝・フリードリッヒ1世の孫がフリードリッヒ2世。
フリードリッヒ2世 (イタリアでは、フェデリーコ2世) については、当ブログ「シチリアへの旅」の2「なぜ、シチリアへ」、10の「シラクサ散策」などに書いた。早く生まれ過ぎた皇帝、ルネッサンスを先取りした皇帝と言われる。
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<ミュンヘンの夜>
日の暮れかけた時間に、やっとバイエルン王国の都ミュンヘンに入った。
マクシミリアン・ヨーゼフ広場でバスを降りる。
立派な広場にはマクシミリアン・ヨーゼフ像がある。バイエルン王国の初代国王である。
(マクシミリアン・ヨーゼフ広場)
旧市街の中心はマリーエン広場。黄昏の時刻を過ぎ、バイエルン王国の都はライトアップされて、そぞろ歩く人も多い。
その広場を圧するように聳えているのが新市庁舎だ。中世風に見えるのはネオ・ゴシック様式だから。19世紀末から20世紀初頭にかけて造られた見た目より新しい建物である。
(新市庁舎)
新市庁舎の正面には高い塔があり、見上げると、ドイツ最大の仕掛け人形がある。
マリーエン広場一帯は歩行者天国で、ミュンヘンでいちばんのオシャレなショッピング街だ。行き来する老若男女の群れも、心なしかうきうきとしているようで、ロマンチック街道の牧歌的な風景が遠い夢の中のような気がする。
(オシャレな街にトラムも)
旧市庁舎は第二次大戦の爆撃で完全に破壊された。
再建され、今はおもちゃ博物館になっている。
(旧市庁舎)
このあたりが、900年ほど前には鬱蒼とした森で、イーザル川の急流のほとりに小さな僧院があるだけだったとは、想像すらできない。
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ホフブロイショーを見ながらの遅い夕食だった。
まあ、バイエルン風の歌声ビアホールだ。ステージの歌手たちに合わせて、大ジョッキを飲み干しながら歌を歌う。だが、日本の皆さんも私も疲れ切って、そういう気分にはなれず、とても乗れなかった。早くホテルへ帰って、湯舟につかりたい。
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