週1回程度は、大阪へ出る機会がある。
出たついでに、運動不足を補う意味もあり、その日の気分と体調で好きなコースを散歩する。
大阪は、40年以上も仕事をした町だが、振り返ってみると、大阪の町を散歩する遊び心というか、心のゆとりはなかった。今は、それができる。そういうことを幸せだと感じる。
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< 細川ガラシャのことなど >
上町台地とその周辺を歩くことが多い。
環状線の玉造駅から西へ向かい、空堀町の交差点を右折して、大阪城の方へと歩いて行くと、上町台地らしい雰囲気になる。
私立の名門校・大阪女学院は、アールヌーボー調の門が、ミッションスクールらしい。
( 大阪女学院 )
その先に聖マリア大聖堂、そこから100mほども行った三叉路の中に「越中井」がある。
( 聖マリア大聖堂 )
聖マリア大聖堂は、「大聖堂」と名が付くから、司教座のある教会だ。ヨーロッパの大聖堂のもつ中世風の荘厳さはないが、清楚なたたずまい。左右に高山右近の像と細川ガラシャの像があり、側面に二人のことを記したパネルも掲げられている。
キリシタン大名であった高山右近は、豊臣秀吉のバテレン追放令で前田利家の客将になり、徳川家康の禁教令のときに、追放されて、フィリピンのマニラで客死した。
明智光秀の娘・玉子 (後、洗礼名ガラシャ) は、細川家の長男・忠興に嫁ぐ。媒酌したのは織田信長。美人で、かつ才媛であり、夫との仲は睦まじかった。
しかし、実父が本能寺の変を起こす。この折、細川家は彼女を離縁、幽閉することによって、謹慎した。
その5年後、秀吉のバテレン追放令のあと、洗礼を受けて、信仰の人となる。洗礼名のガラシャは恩恵の意、とある。
( 越中井 )
「越中井」と書かれた石碑と石の井戸は、地蔵堂とともに、道路の三叉路の真ん中にあり、樹木に囲まれている。「越中井」の文字は徳富蘇峰の手。碑の側面の説明の文章は 『広辞苑』 の新村出博士。
大阪城の南の地のここに、細川越中守忠興の屋敷があった。井戸は、焼失した細川屋敷の台所にあったもので、火を放ったのは、ガラシャ夫人である。
設置されたパネルの説明によると、細川忠興は、徳川家康が会津上杉の討伐に向かったとき、これに従って出陣。その後、家康を撃つべく石田三成が挙兵し、出陣に際して、各大名の妻子を人質として大阪城中に入れた。細川ガラシャはこれを聞き入れず、石田勢に屋敷を包囲され、火を放って、果てたという。
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< 難波の宮跡と難波の津 >
このあたり、北と西に向けて、ゆるやかな上りになっている。
気持ちの良い歩道を北に歩いて行けば、上町台地の最北端・大阪城公園に出る。
道の西は法円坂という地名で、ここには難波の宮跡がある。
( 難波の宮の大極殿の跡 )
難波の宮跡の遺跡公園は、大極殿の柱跡のある石の壇を除けば、何もない広場である。発掘調査の後、再びこの下に多くのものを眠らせたのであろう。
大きな樹木があり、その木陰で腰を下ろしている人、草地でサッカーボールを蹴る親子、石壇の上にいる10人ほどのグループは古代史愛好家のおじさん、おばさんたち。古代史愛好家は、年配者に多い。「歴女」などと呼ばれる若い女性歴史愛好家は、坂本龍馬だとか、土方歳三だとか、伊達政宗だとかがお好みである。
ここには2度、宮殿が置かれた。
1度目は、645年の大化の政変の直後。皇極天皇 (中大兄皇子の母) は皇位を軽皇子 (孝徳天皇) に譲り、都は飛鳥から難波に遷された。長柄豊碕宮 (ナガラ・トヨサキノミヤ) である。ただし、3年後には孝徳が亡くなり、都も再度、飛鳥に遷される。
2度目は、聖武天皇の726年である。
難波の宮跡の、ロータリーを挟んだ北西に、大阪歴史博物館のカッコイイ建物があるが、その前に、およそ周囲にそぐわない建物が建てられている。
( 5世紀の高床式倉庫の復元模型 )
5世紀後半 (古墳時代中期) のものと推定される高床式倉庫の復元である。ただし、これは20分の1の復元模型。1棟の大きさ90平方メートルの倉庫が等間隔で16棟も整然と並んでいたという。いったい何を納めたのであろうか??
なぜ、ここなのかは、わかる。このすぐ北、現在の天満橋のあたりに、難波津があった。津(港)があれば、交易があり、倉庫が必要である。
縄文時代から弥生時代、古墳時代のころ、上町台地は、南から北へ、海の中に突き出た細長い半島であった。
上町台地 (半島と言うべきか) の北縁は、大阪城の北縁から難波津のあった天満橋の辺りである。その先は海であった。
上町台地 (半島) の西側は、すぐに海に切れ落ちて、瀬戸内海の浪が岸を洗い、天気の好い日には、難波の宮からも行き交う船の姿が見えたはずだ。
上町台地 (半島) の東側は、西側よりもややなだらかに下るが、それでも現在のJR森ノ宮駅の東側は、海であった。その海は、上町台地 (半島) によって瀬戸内海と遮断された、波静かな入江・「河内湾」である。
河内湾には淀川水系と大和川水系が流れ込んでいたから、時代を経るにつれ、これらの河川から流入する堆積物によって、河内湾は河内湖となり、淡水湖が湿地帯となり、やがて河内平野となった。
だが、古代においては、河内湾は、流れ込む大和川とともに、大和と瀬戸内海を結ぶ重要な交易路であった。
河内湾の東縁は、生駒山脈の麓、今の東大阪市である。
河内湾の南縁は、近鉄線の鶴橋駅から瓢箪山駅のあたりまで。
北九州や、遠く朝鮮半島から、難波津に運ばれてきた物資は、若江、菱江、豊浦、日下江などの河内湾南縁の港を経て、大和川を遡り、大和の国の卑弥呼の都や崇神天皇の宮殿へと運ばれたのである。(『東アジアの巨大古墳』の中の水野正好「古代湾岸開発と仁徳天皇陵」を参照)
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< 首都はそうあらねばならない >
大阪城公園は、大きな樹木が繁って森の風情があり、まだ寒い時季から梅林の梅が優美な花を開き、春には桜、秋には紅葉、黄葉が美しく、目を上げれば、天守閣が青空に映える。日本のあちこちのお城を見る機会があったが、大阪城の堀の規模にしても、石垣の石の大きさやその高さにしても、やはり他に類を見ない壮大な城郭であると思う。
( 堀を隔てて望む天守閣 )
( 梅 林 )
( 近代的なビルと城壁 )
「南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた。大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、
『首都はそうあらねばならない』
と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した。」 ( 司馬遼太郎 『街道をゆく23 南蛮のみちⅡ 』)。
かつては、修学旅行の小・中学生が訪れ、近隣の人たちの散歩コースでもあり、市民ランナーが昼休みにひと汗かき、放課後には近くの高校の運動部が走りに来る、やや閑散とした空間で、一時はブルーシートが乱立したこともあったが、この数年、観光バスが激増し、バスから観光客が次々と降りてきて、天守閣に上がるにも行列ができ、我々とよく似た顔立ちであるが、聞こえてくる言語は日本語ではない。
どのような知識を得て、「豊臣秀吉」の城の跡を見学しているのであろうか?? ちょっと気になるところである。
それはともかく、公園内のあちこちに、一昨年から昨年にかけては 「大阪城落城400年祭」の幟り、昨年から今年にかけては六文銭の幟りがはためいて、なかなか元気がいい。
今や、天守閣をいろんな色模様に彩色するライトアップのる夜も、あるらしい。
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