(湖北の夕景)
湖北でも、東側の尾上のあたりから西を見ると、琵琶湖の最北端部から細長い半島が伸びているのがよくわかる。
この半島の向こうは深い入江になっていて、入江の最奥部に大浦の集落がある。
半島のとん先は葛籠尾(ツヅラオ)崎という。菅浦の集落は、このみ崎のすぐ裏側の小さな入り江にある。
現代の地名では、滋賀県長浜市西浅井町菅浦。
2015年における菅浦の世帯数は72、人口は177人。ローカルで、小さな集落である。ちなみに江戸時代の1792年は、戸数は102、人口は477人だった。
白洲正子の紀行集『かくれ里』にも取り上げられている。独自の伝承をもち、祭祀を行い、自治を続けてきた「かくれ里」である。
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<菅浦との出会い>
「近江の国紀行5」の続きとして書いている ── 大原から朽木を経て、安曇川沿いに高島へ出たあと、琵琶湖の西岸の道を北へ北へと走る。今日の目的地は最北端の菅浦。
菅浦を訪れるのは、今回が3度目になる。
1度目は、予期せぬ出会いだった。 …… もう30年以上も前になるだろうか?? 記憶はぼんやりしている。
北陸道を湖北まで走り、余呉湖に出て、さらに「賤ケ岳古戦場」の案内を横に見ながら、カーブの多い道路を走った記憶がある。
運転に倦み、遥々と遠くまで来たと思い始めた頃、菅浦という鄙びた漁港に出た。
ローカルな、ありふれた漁村だと思った。観光客の姿は全くなかった。
集落の入り口と思われる所に茅葺屋根の門が立っていた。門の横に説明板があった。「四足門」と言うらしい。説明を読んだが、その内容は理解できなかった。
(西の四足門)
今も長浜市が設置した「西の四足門」の簡潔な説明板が立っている。
(西の四足門の説明)
「四足門」は集落の東西に立っている。もとは「四方門」とも呼ばれ、集落の四方に立てられて、集落の領域と外界を区切っていた、とある。
最初に訪れた時の説明板は、もう少し詳しかったような気がする。
この集落は、四方に門を立て、よそ者を警戒し、外界と自分たちを区切ってきた。長くそういう歴史を保持してきた。
今はそれほど閉ざされていないかもしれないが、自分のような外来者が集落の中に入って、小さな、静かな里の中を、好奇の目で見て回ってはいけないと思った。そう感じてそのまま引き返した。
そのときのドライブのことはほとんど忘れてしまったが、琵琶湖の最北端の小さな鄙びた漁村のことは、ずっと頭の片隅に残った。
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<2度目は「琵琶湖周遊の旅」>
2度目の菅浦訪問のことは、当ブログ「琵琶湖周遊の旅」の4「湖北、賤ケ岳と菅浦」(2021,1,19)に書いた。
2泊3日で琵琶湖を1周しようという旅の動機の一つとして、菅浦を再訪したいという思いがあった。そう思うようになったのは、白洲正子の『かくれ里』の中の一文、「湖北 菅浦」に心ひかれたからである。
ちなみに、紀行集『かくれ里』の中の圧巻は、「吉野の川上」だと思う。その次が「湖北 菅浦」。
「琵琶湖周遊の旅」の1日目は、船で竹生島をお参りした。
長浜から竹生島へ渡る船の、船上から眺める琵琶湖の風景は広やかで明るく、竹生島に上陸して見学し、また、寺社に参拝をすると、遠くから写真の点景としてとしてしか見ていなかった島が、それ以後、意味のある島として眺められるようになった。
この前方後円墳のような形をした小さな島を、おそらく2千年以上も前から、人々は信仰の対象にしてきたに違いない。日本の風景とは、そういうものだと思う。
(海津大崎あたりからの竹生島)
「琵琶湖周遊の旅」の2日目の予定は、反時計回りに、長浜を出発して、湖北、そして、湖西をひた走り、湖南の石山にもう1泊する計画だった。
ところが、「付録」のようなつもりで計画の冒頭に組み入れていた賤ケ岳古戦場からの湖北の眺望があまりに美しく、ついついそこで時間を過ごしてしまった。琵琶湖第一の眺望かもしれない。
結局、計画は緒戦で大きくくずれ、時間がなくなって、本命の菅浦も立ち寄っただけになってしまった。
そういうことで、今回は菅浦へのリベンジのドライブ旅行である。
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<高島から菅浦へ向かう>
高島から海津港を過ぎて、桜で有名な海津大崎へ。海津大崎のとん先から竹生島の写真を撮った。竹生島は目の前で、季節になればここから竹生島へ遊覧船が出るようだ。
海津大崎と葛籠尾(ツヅラオ)崎の二つの半島の間が大浦の入り江である。入り江は奥が深く、その最深部に大浦の集落がある。
(大浦の町)
入り江の最深部の大浦の集落を過ぎると、葛籠尾(ツヅラオ)崎の半島に付けられた道路を南下していく。
人里からはどんどん遠くなり、すれ違う車もなく、走るにつれて湖畔の道は神秘的になっていった。
大浦と菅浦の間に道路が開通したのは1966(昭和41)年である。道路は自衛隊が切り開いた。それまで、菅浦の里は船でしか行き来できない陸の孤島だった。
以下は白洲正子『かくれ里』からである。
「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。
(大浦の入り江)
「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。
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<菅浦の住人が語り伝えてきた伝承>
(菅浦の里)
菅浦は長く交通不便な僻地だったが、それだけではない。「(この村は) つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落であったという」。
「それには理由があった。菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。
淳仁天皇とは?? …… 話は奈良時代の後期に遡らなくてはならない。
仏教への帰依の心が篤かった聖武天皇と后の藤原光明子との間に生まれた男子は幼くして亡くなり、第1皇女の阿倍皇女が帝位を継いだ。孝謙女帝である。
聖武天皇の亡き後、光明皇太后の下で、皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、政務の中心になっていく。
皇太子には、大炊王(オオイノミコ)が立てられた。
大炊王は舎人親王の第7子。舎人親王は、天武天皇の皇子の一人だが、天武・持統の直系ではない。元正女帝や聖武天皇をよく補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残し、生前の功績から没後、太政大臣に叙せられている。
しかし、舎人親王の子の大炊王は、皇太子位に就く前、藤原仲麻呂邸に住んで仲麻呂の娘婿のような存在であった。大炊王が皇太子となり、やがて天皇になれば、藤原仲麻呂の権力基盤はさらに盤石になる。
ほどなく、孝謙女帝は退位し、大炊王が淳仁天皇となった。
だが、平和は続かなかった。孝謙上皇の母であり、藤原仲麻呂の叔母でもあった光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と、太政大臣になっていた藤原仲麻呂との仲が悪化した。
764年、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」が勃発。
仲麻呂が目の上の瘤のような孝謙上皇を排除しようとクーデターを企図したとされるが、真相はわからない。
孝謙上皇は先手を取り、「仲麻呂反乱」を宣言をして、直ちに三関を固めた。
仲麻呂は一旦、影響下の近江国へ、さらに越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれ、湖西の高島へ引返して決戦となるも、一族悉く殺された。
乱平定後、淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて、淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝と呼ばれる)。現代の歴史研究者は、淳仁天皇は仲麻呂の乱にかかわっていなかったと見ている。
一方、孝謙上皇は重祚( チョウソ )して(帝位にかえりさいて)、称徳天皇となった。
孝謙上皇(称徳天皇)は女性とはいえ、天武天皇から聖武天皇へと続く天武直系の皇統。仲麻呂は若い頃から光明皇太后に目をかけられ、己を恃むところ強く、女性と思って甘く見たのだ。しかも、吉備真備のような天才を上から目線で軽く見ていた。勝ち目はない。
その後の歴史。
重祚して一旦は称徳天皇となったが、いずれ皇族の中から男子を選び、皇太子を立てる必要があった。しかし、女帝は、父の聖武天皇以上に仏法によって世を治めるべきという思いが強く、僧道鏡に帝位を譲ろうとした。これは和気清麻呂らによって阻止される。そして、女帝死後、臣下一致して道鏡を退け、思い切って天智系の子孫である白壁王を天皇として迎えた。光仁天皇である。既に61歳の、人格円満、政務に通じた帝だった。平安京へ遷都した桓武天皇の父帝である。
一方、仲麻呂の乱の翌年、淳仁廃帝は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられて、翌日、不明の死を遂げた。
以上が、正史である。
ところが、菅浦には別の伝承が伝わっている。
「菅浦の言い伝えでは、その『淡路』は、『淡海』のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」(白洲正子『かくれ里』)。
そして、先に引用したように、「菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかった」というのである。
集落の4つの門は、そういう意味をもつ。
また、菅浦では、淳仁天皇の没後、50年ごとに法要が営まれてきたという。1863(文久3)年に1100年祭。1963(昭和38)年に1200年祭。2013(平成25)年には1250年祭が行われた。
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今回は須賀神社にも参拝し、菅浦の集落も歩いてみるつもりである。
(あと、1回、続きます)
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