( 西行が愛した清楚な山桜 )
この世界のことについて、知らないことばかりである。
こと細かな知識のことではない。ざくっと、そのことの本質が分かっていればよしとする。そういう知識のことであるが、それが、貧しい。
だから、本を読んでいて楽しいと感じるのは、知的発見があったときである。 「無知」 が 「知」になる読書は、わくわくする。
「無知」を「知」にしようと思って本を読むわけではない。楽しみを求めて読むのだが、読んでいてわくわくするのは、眼前に新しい世界が開かれた、と感じるときである。
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荒唐無稽、奇想天外、刺激過多、お涙頂戴のエンターテイメント小説などは、下りの山道を歩いている眼には、ウソウソしい。
世界は、それ自体、十分に美しいのだから。
或いはまた、本屋に山積みされている上野千鶴子だとか、五木寛之だとか、斉藤孝だとかいう売れっ子の人生論めいた本も、最初の一冊は優れていたのかもしれないが、「柳の下」をねらって矢継ぎ早に次々書かせるものだから、文章も雑で、底が浅く、何でこの程度のものにカネを出さねばならないのかと思ってしまう。
読んでも、何の発見もない。
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一方、若い女性作家、三浦しをんの『舟を編む』(光文社)は、出版界で脚光を浴びること少ない辞書づくりという仕事に天職を見出し、長い歳月をかけ、情熱を傾けて辞書を作っていく主人公たちを描いていて、身近な辞書がこのようにして作られるのかと興味深く、心温かい主人公たちに思わずエールを送りたくなった。
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司馬遼太郎の作品、対談集、講演集のほとんどを読んだが、そのいずれにも、大いにわくわくさせられた。私は、司馬さんの造詣の深さに感動させられる対談集、講演集がより好きだ。
小説でも、一例であるが、北条早雲を主人公にした『箱根の坂』は、守護大名の時代の中から、何故戦国大名という新しいリーダーが生まれてきたのかということが、時代のダイナミックな動きとともに生き生きと描かれている。
「戦国時代」という日本史上の新時代と、「戦国大名」 の歴史的意味を教えられる。
知るとは、その意味を知ることなのだ。
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事実を羅列しただけの歴史教科書でしか歴史を学んでいない高校生は、例えば戦国時代という時代についても、自ずから現代に引き付けて、 現代日本の「平和」の観念の対極にある恐ろしい 「戦国」をイメージしてしまう。
こうして歴史を学んでいくうちに、日本人は何と暗い歴史を歩いて来たのだろう‥‥となる。 日本の歴史を学んで、そういう感想しかもてなかったとしたら、悲しいことだ。
かと言って、あの大河ドラマに描かれた主人公たち、渡辺謙や阿部寛のような現代的でかっこいい戦国大名像を思い描くのも、やはり妙である。
塩野七生は、「私は日本人としてローマを書いているのではなく、古代のローマ人になって、古代のローマを書いているのである」(『想いの軌跡』新潮社) と言っているが、歴史とはそういうものであろう。
平賀源内がエレキの実験をしました、と高校生が学んでも、「ふーん」で終わる。電気もない時代に生きた江戸時代の人々はお気の毒でした、ということだ。
そうではなく、その時代のなかに入っていって、平賀源内の好奇心や探究心や実験精神を生き生きと感じ取ってこそ、初めて歴史の事実を学んだということになるのではなかろうか。江戸時代とは、こういう人物を生み出す時代でもあった、と知ってこそ、歴史との出会いである。
鹿児島の知覧から、小さな特攻機に乗り込んで飛び立ち、上空から父母や弟妹たちの幸あらんことを祈り、 祖国の大地に別れを告げ、 沖縄の海に向かって飛んで行った若者たち。彼らと同じ時代状況の中に入り、同じ苦悩を感じ、それでも飛び立って行った心情を感じ取ってこそ、歴史がわかったと言えるのであり、 平和の意味も深く理解できるようになるのである。
歴史は事実の羅列ではなく、物語りである。
そして、知るとは、その意味がわかる、ということである。
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(丘の上の大きな木)
仕事の上でも、何かについて、「無知 」を「知」にする必要が生じることがしばしばあった。無精者にとって、調べるという行動を起こすのがなかなか面倒くさい。そこが、趣味で気楽に読む読書との違いで、いやでもやらねばならない。
それでも、調べて、なるほどと腑に落ちたときは、うれしい。
分からなかったことが分かるようになるのは、何歳になってもうれしいものだ。 分かれば、人に教えたくもなる。
組織を運営する立場になったとき、「経営」 ということについて、その理念や方法の基本をそれなりに知りたくなって、本を読んだ。
読んだなかで、一番、心を動かされたのがP,F,ドラッガーだった。そのドラッガーの中でも一番分かりやすく、味わいがあったのは、その箴言集であった。
『ドラッガー名言集 仕事の哲学』 (ダイヤモンド社)
『ドラッガー名言集 経営の哲学』 ( 同上 )
『ドラッカー名言集 歴史の哲学』 ( 同上 )
『ドラッガーの遺言』 ( 講談社 )
ドラッカーやその亜流学の、こまごまとした精緻な方法論を真似する気はなかったから、箴言集は最適であった。この4冊は、その任にあった間、座右の書として、日々味わい、そこから知恵を得、考えを深め、我慢してじっと待たねばならないときには待つ勇気をもらった。
企業だけでなく、役所でも、病院でも、学校でも、クラスや部活動でも、ボランティア組織でさえも、そこで活動する人々が輝き、躍動するには、マネージメントが必要であること、そのマネージメントには、「権力」や「カリスマ」や体罰などは全く必要ない、ということを学んだ。
司馬遼太郎を知ったことも、ドラッカーを知ったことも、自分の人生において、一つの出会いであった。
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