ドナウ川の白い雲

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上町台地を歩く (3)真田幸村の最期の地を訪ねる……散歩道(13)

2016年03月26日 | 随想…散歩道

 以前から心ひかれながら、まだ訪ねていなかった所があった。

 大坂夏の陣で討ち死にした、真田幸村最期の地である。

 天王寺の茶臼山近く、上町台地の一角にある安居神社が、その地。

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幸村の最期 >

 すでに大阪城の外堀は埋められていた。冬の陣で大活躍した「真田丸」も、今は撤去されて、ない。強力な攻撃・防御施設を失った今、城の外へ討って出て野戦をする以外に活路はない。

 こうして大坂夏の陣は始まった。

 1615年5月7日。幸村は、最後の決戦を挑んで、陣を置いた茶臼山から出撃する。全騎一丸となって、圧倒的な敵軍を突破し、目指すは家康の本陣。幸村の懐には、家康を狙撃するための小型の連発銃があったという。

 夏の陣は野戦と判断し、家康の本陣は、冬の陣より遥かに後方、今の北田辺駅付近に置かれていた。茶臼山からの距離は、直線にして約2.5キロ。途中、いくつもの敵陣を突破しなければならず、迎え撃つ諸大名・旗本の軍勢との激突は避けられない。

 激戦を戦い、友軍の将も倒れ、部下も次々討ち死にし、あと一歩のところまで家康を追い詰めるが、ついに届かない。

 無念の退却命令も、手柄を立てんと追いすがる無数の敵兵を振り切りながらの退却行であった。

 茶臼山の小さな神社の境内にたどり着いたとき、49歳の幸村の腕は鉛のごとく重く、立つこともできないほどに疲労困憊していた。精根尽きて松の根方に腰を下ろしているところを、越前松平勢に囲まれる。自ら名乗り、手柄にせよと言って、討たれたという。

 我ながらここまでよく戦った。もう、亡父のところへ逝ってよかろう。

 死の瞬間、心は晴れやかであったに違いない。

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堀越神社 >

 地図を見ると、天王寺駅から谷町筋を北へ歩く。たいした距離ではない。

 ほどなく道の脇に、小さな神社があるので、寄ってみた。「堀越神社」とある。

 車の行き交う谷町筋のこのあたり、今まで徒歩で通り過ぎたこともあったはずだが、立ち寄ったことはなかった。

 

      ( 堀越神社 )

 谷町筋に沿いながらも、境内に入れば、騒音は遠い。石段を上がってわずかに道路から高くなっているせいか、或いは、背後に天王寺公園・茶臼山が控えているせいか。

 ひっそりと清浄な神社らしいたたずまいに、どこか粋な風情を感じるのは場所柄だろうか??

 綺麗な立札があり、創建は聖徳太子。祭神は崇峻天皇とある。

 聖徳太子が、四天王寺創建の折、叔父の崇峻天皇をしのんで、「風光明媚なここ茶臼山の地」に、神社を建てたという。

 明治の初めごろまでは、境内の南に美しい堀があり、人々は堀を渡って参詣したので、堀越神社と呼ばれるようになったともある。なかなかゆかしい。

 境内の一隅に、熊野第一王子の宮が祀られている。

   ( 熊野第一王子の宮 )

 この宮にも、説明の立札があった。

 熊野詣でが盛んになるのは、平安時代末期であるが、もちろん、当時は徒歩、あとは舟。

 出発は京の都。淀川を舟で下って、上町台地 (半島) の北端、天満の港に上陸し、そこからは徒歩になるのだが、その天満の港に、「窪津王子」があった。99の王子の第一王子である。

 熊野詣では、99の王子の一つ一つに参詣しながら、熊野本宮大社にお参りし、そこから舟で下って、新宮に参拝。さらに那智に参拝する。

 その「窪津王子」が遷されて、最終的に、ここ堀越神社に合祀されたとある。

 「窪津王子」が、いつごろ、誰の命で、流浪の旅に出されたのかは、わからない。

 ともあれ、「開発」という大津波が大坂を襲うのは、豊臣秀吉による城づくり、町づくりのときが最初だ。このとき、上町台地の由緒ある大きな神社は、杜を削られ、他の土地に移転させられ、とり壊された。

 そんなことをしなくても、城づくり、町づくりはできたはずだし、その方が美しい町づくりができたはずだ。

 近年では、大阪空襲もあるが、戦後の開発の大波があった。

 大阪で最も古い由緒をもつ、ある神社は、樹木少なく、ガランとした境内の一角に、社よりも大きな鉄筋コンクリートの結婚式場が建てられている。

 そういう神社の拝殿で手を合わせても、木立を洩れてくる日の光もなければ、樹木をそよがせる風の音も、小鳥のさえずる声も聞こえない。目を閉じて聞こえてくるのは、車の騒々しい音ばかりだ。

 元々、日本の神々は、社にではなく、杜にいらっしゃる。古代の日本人が、森の中でふと聖なるものを感じて、しめ縄を引き、そこに立ち入らないようにした。それが鎮守の杜だ。その領域の中の、日のきらめきや、耳元をそよぐ風や、小鳥のさえずりが、神を感じさせた。周囲の森は開発されて田となっても、杜には手を入れなかった。

 ゼニばかり追い求めても、町は発展しないし、人は豊かにならない。

 郷土への愛や文化がなければ、人は育たず、経済はひからびていく。

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一心寺 >

 堀越神社から、谷町筋をもう少し北へ歩くと、「四天王寺南」の交差点に出る。右前方に四天王寺があるが、ここを左折する。すると、すぐに一心寺の大きな門が見えてくる。

 宗派を問わず、納骨された遺骨でお骨佛を造立する寺である。

 その昔、浄土宗の開祖・法然が四天王寺に招かれた際、ここに立って難波の海に沈む夕日を見て感動し、小さな庵をつくってしばし滞在した。その庵が一心寺の開基であるという。

  

       ( 一心寺 )

 位置的には、大坂冬の陣で家康が本陣を置き、大坂夏の陣では真田幸村が本陣を置いた茶臼山のすぐ北側に当たる。

 従って、大坂夏の陣の折には、このあたり、激しい戦場となった。一心寺にも、徳川方を含め、当時の武将の墓がある。国道25号線を隔てた向かいには、真田幸村が戦死した安居神社がある。

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最期の地・安居神社 >

  

 国道側に、「安居神社」の石碑。その横に由緒が書かれた立札。「安居天満宮」の看板もあり ( 安居天神とも言われる )、その横に「真田幸村戦死の地」と書かれている。

 背後に真田の赤い幟も立つ。今、大阪の町のあちらにも、こちらにも、翻っている。

 いつ創建されたのかは、わからない。お椀の舟で海を渡って来て、オオクニヌシの国づくりを助けたという薬学や知恵の神様・スクナヒコナを祀り、後、菅原道真も祀る。

 901年、菅原道真が筑紫に左遷されるとき、船待ちをする間、四天王寺に参拝した後、ここで休んだから、安居神社と呼ばれるようになったという。その後、菅原道真が祭神と祀られて、安居天満宮、安居天神とも呼ばれた。また、天王寺3名水の井戸があったので、安井神社とも書く。

 境内は奥まっており、巨木に囲まれて、都会の中にあることを感じさせない。

 「真田幸村戦死跡之碑」があり、「真田幸村公の像」がある。銅像の幸村は、兜を脱ぎ、松の根方に座っている。当時としてはそろそろ初老といってもよい年だが、顔になお壮年のエネルギッシュな覇気を感じる。

 ( 境 内 )

 

       ( 本 殿 )

 本殿でお参りして、しばらく雰囲気に浸り、北側の鳥居から出た。

 鳥居の前の坂道は、安居天神にちなんで天神坂と呼ばれる。

 昔、上町台地の西は急峻に切れ落ち、海が開けていた。もう少し北には、新古今集の撰者の一人・藤原家隆が、晩年に庵を結んで、西方浄土の方角に沈む夕日を眺めたという跡もある。

 今は、海はずっと西方に退き、高台の谷町筋と低い松屋町通りを結ぶ坂道が、いくつかある。その一番南の坂が、天神坂だ。

 閑静な住宅街を上って谷町筋に戻ると、すぐ北側には大阪の私立男子校トップの星光学院があり、谷町筋を渡ると、四天王寺さんがある。四天王寺さんには、私立女子校トップの四天王寺高校がある。

 上町台地は、北端の大手前高校から、清水谷高校、大阪女学院、明星高校、高津高校、上の宮高校、清風高校、夕陽丘高校、星光学院、四天王寺高校、天王寺高校、阿倍野高校、住吉高校など、大阪を代表する名門校が並んだ、一大文教地区でもある。

     ( 四天王寺の通用門 )

 四天王寺さんの東側の通用門から入り、下町風の境内の中を通って、南側の正門を出た。そこから先は、賑わう門前町を通って、天王寺駅の北口へ出る。

 

  

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