上町台地のわが散歩道が、急に脚光を浴び始めた。原因はNHK大河ドラマ「真田丸」である。
ひっそりした閑静な散歩道だったが、今年に入ったころから、歴史愛好家の中高年グループが、ぞろぞろと歩くようになった。
最近は、日本人に連れられて、青い目の外国人も参詣している。綺麗な作法で参拝して、なかなかよろしい。
人けのないしんとした通りは、年寄りくさい。人が行き来すれば、雰囲気も明るくなる。ここ、上町台地は、古墳時代から大王 (オオキミ) の宮が置かれ、大宮人が行き来した、いわば大坂の発祥の地なのだから、人の往来が増えることは、良いことである。
さかのぼれば昨年の夏ごろだったろうか。時折、若者の一人旅を見かけるようになった。男女は問わず。リュックを背負って、小さな三光神社の石段や手水の付近を、仔細ありげに歩いて、遠慮がちに拝殿で手を合わせる。
( 三光神社 )
来年の大河ドラマが早くも始まったな、と思って、心の中で微笑みながら見ていた。いつの時代でも、ブームを先取りするのは、若者たちである。
★ ★ ★
< これは面白い!! 大河ドラマ『真田丸』 >
再来年の大河ドラマが真田幸村と聞いたときは、何で と思った。
最近は、吉田松陰の妹や、新島襄の妻など、女性を主人公にしたものも増えた。歴史上の有名人ではないが、それはそれなりに意味があると思う。いつまでも信長や秀吉や家康でもあるまい。
だが、滅亡する豊臣家の側に立って、負けるとわかっている戦いを戦って死んだ一武将の生に、どれほどの現代的意味があるだろうか??。
しかし、放送が始まって、考えを改めた。これは講談だ。面白い 面白いことは、良いことだ。
★
脚本が良い。スピーディな筋の展開で、飽きさせない。しかも、細部に注意しながら見ると (時には二度) 、実に用意周到にドラマが組み立てられ、脇役の一人一人まで、丁寧に描かれていることがよくわかる。
俳優の一人一人が生かされている。主人公の若き信繁も、そのお兄ちゃんも、ウメちゃんも、若々しく、未熟で、しかし、役立つ人間になろうと頑張っている。
過去の大河ドラマは、主人公の父 (時に、兄) が魅力的で、味があった。平清盛の父の中井貴一、坂本龍馬の父の児玉清 … 文さんの兄・吉田松陰役の伊勢谷友介もよかった 。ただし、彼らが死ぬと、急にドラマは精彩を欠き、退屈した。
今回の草刈正雄も、土豪風に毛皮を着たオヤジで、大大名の上杉、北条、徳川を相手に、生き延びるためにはどんな謀略も厭わない。今のところ、存在感・NO1の主役だ。
真田一族のあまりの謀略や残酷さに、「あなたたち、これでいいの」と、きりちゃんが、現代の若い女性の言葉で抗議する。このとき、きりちゃんは、現代人 (視聴者) を代表しているのだ。視聴者は、きりちゃんに共感しつつ、かえって、「でも、この時代の、この状況では、仕方ないだろう」と真田のドラマに納得する。三谷幸喜の脚本は、実にうまい。
明智の乱のとき、徳川家康は服部半蔵に導かれて命がけの伊賀越えをする。逃げる家康殿の演技は、カリブの海賊・ジョニー・デップのパロディ。事がうまくいけば、スポーツ選手のように、「よっ・しゃー」とやる。
主役級ばかりでなく、脇役もそれぞれに存在感をもって描かれている。
滅亡する武田家の当主・武田勝頼は、悲劇的で、切なく美しかった。
真田の父の幼友達・室賀殿の「 黙れ!! 小童!! 」 も、真田の長男への愛が感じられてカッコよかったし、その室賀殿にとどめを刺す出浦殿も、絶対に闘いたくない恐ろしいオジサンです。
★
話は変わって、大河ドラマの長いイントロには、いつも辟易していたものだ。毎回、毎回、約5分間もイントロがある。しかし、今回の「真田丸」の5分間は、カッコいい。
日本の左官のすごさを世界に知らしめた挟土秀平の、「真田丸」 という題字が良い。真田丸の運命を予感させて、題字は壁とともに崩壊する。
音楽が最高。世界で活躍する若きヴァイオリニスト・三浦文彰のソロ演奏である。
「オーケストラが控えて、ヴァイオリンだけで始まる曲というのは、あまりありません」。「服部先生からは、2分30秒間、始めから終りまで戦闘場面をイメージして弾くようにと言われました。こんなかっこいいメロディがあるのかと思いました」。ヴァイオリンという甘美な音色を出す楽器が、見事、武士の戦いを描き切って、クラッシックファンもきっと増えることでしょう。
赤備えの騎馬軍団が疾走するプロローグの映像もカッコいい。作成者いわく、「『ロード・オブ・リング 』が下絵になっています 」。━━━ そうだと思いました。
言うまでもなく、この映像は、大坂夏の陣の、家康本陣へ突撃する信繁最期の戦いである。「いわば最終回の予告編です。『敵陣まで200m』を隠しテーマにしました」。━━━ 敵陣まで200m 勇壮ですねえ
題字といい、音楽といい、映像といい、全てが最終回のクライマックスに向けて、作られている。
真田幸村のイメージとは、そういうことだと思う。
もう一人を挙げれば、函館戦争で戦死した土方歳三。
歴史は彼らの思いのようには動かなかったけれど、今も、日本人の心を揺さぶり続ける。
★ ★ ★
< 真田丸の跡を歩く >
前回は、玉造駅から上町台地を北へとって、難波の宮跡から大阪城を歩いたが、今回は上町台地を南へ行く。
JRの玉造駅を西へ、「玉造」の交差点を通り越して、もう少し西へ行くと、地下鉄の玉造駅に出る。
この辺りからぶらぶらと南下すると、すぐに三光神社の鳥居が見えてくる。
( 三光神社鳥居 )
木立に囲まれた小さな神社。お参りする人を見かけることはほとんどなかったが、さきほど書いたように、去年の夏ごろから、ぼつぼつと見るようになった。近所の人ではない。わざわざ旅をして訪ねてきたのだ。
いつものようにお参りを済ませて神社の横に出ると、真田の抜け穴がある。
信繁やその伝令がこの抜け穴を通って大阪城と行き来した、ということらしい。そばに、真田信繁 (幸村) の像が建つ。知将というよりも、豪胆無比の勇将の風格がある。
( 真田の抜け穴 )
( 真田幸村像 )
この神社から、あとで訪ねる心眼寺という寺の一帯が、真田丸の跡だと言われてきた。しかし、最近の調査で、この一帯も真田丸の城塞の一角を形成していたことは確かだが、中心部ではなかったということがはっきりしてきた。
神社の西側の小高い丘陵部は陸軍墓地で、道はその脇を巡る。この道は真田丸の空堀の跡だという。
( 空堀の跡 )
右折して西へ、上り坂を進めば、その名もゆかし、真田山小学校。その前を過ぎると、明星高校の南東の角に出る。
★
( 明星高校 )
明星高校のフェンス脇に、「真田丸顕彰碑」。「あれっ、こんなものがあったのか 」と思って見ると、平成28年1月に設置とある。設置者は天王寺区役所。協力は大阪明星学園。ムムッ、NHK大河ドラマは、区役所も動かすのだ
碑には、秀頼の招きに応じて大阪城に入った幸村が 「すぐに大阪城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが『 真田丸』で、幸村は慶長19年12月4日、ここ『 真田丸』を舞台に前田利常……ら徳川方の大軍を手玉に取った」とある。さらに、「『真田丸』 の場所については、…… 現在の大阪明星学園の敷地がその跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、云々」 と書かれている。
碑の中に紹介されている図面1は、大阪城と真田丸の位置関係を示す。信繁 (幸村) は、真田丸を、大阪城から700mの南に築いた。
大阪城は北・東・西の三方を川に囲まれ、天然の要害を呈していた。だが、南側は上町台地が伸び、この方面からの攻撃に弱い。そこで、南側に惣構えと言われる空堀が掘られ城壁が築かれていた。しかも、その堀の100m先は崖となって切れ落ちている。秀吉の構想した大坂城の防御は相当に完璧であった。
信繁は、その谷のさらに先に、真田丸を築いたのである。
歴史家は、これは、防御と言うより、超攻撃型の砦だと言う。信繁はもともと大阪城を出て戦うことを主張したが、首脳部に受け入れられなかった。そこで築いたのが、この出城である。大阪城からは完全に孤立し、徳川軍を一手に引き受けようとしたのである。
実際、大阪城を囲んだ徳川軍は、天然の要害を攻めようがなく、南側の真田丸を集中的に攻めた。が、それは鉄砲の狙い撃ちに遭い、犠牲者を出すばかり。一説によると、1万5千人の死傷者を出し、家康は撤退命令を出すほかなかったという。
死傷者は多く、やがて兵糧も尽きかけ、寒さは厳しく、士気は上がらず、家康も和睦にもち込まざるを得なかった。
ただし、戦さに負けても、外交には勝った。真田丸取り壊され、外堀も埋められた。… 一武将に過ぎない信繁にとって、歯がゆい豊臣方首脳部であった。
★
明星高校と通りをはさんだ東側には寺が並んでいる。この辺りは、当時も今も、寺町である (図面2)。
大徳寺の境内はいつも美しく整えられていて、ゆかしい。散歩のときには、いつもちょっと覗かせてもらう。
(大徳寺境内)
隣の心眼寺の門の脇には、大きな自然石に「真田幸村出丸城跡」と書かれた碑が建つ。門扉には六文銭。
( 心眼寺の門 )
( 出丸跡の碑 )
真田丸の中心部は明星高校だが、これらの寺を含む東側の高台の一角も、真田丸の城塞に取り込まれていた。
真田丸を巡る戦いは、実は、寺町一帯を巻き込んだ市街戦であったという。市街戦だから、少数にとって守りやすく、多数にとって攻めにくい戦いであった。
環状線・鶴橋駅の方へ、真田山公園を通って、下って行く。振り向くと、真田山小学校が見えた。
( 真田山小学校 )